GATCHAMAN
ガッチャマン

 2013年8月23日に公開された実写映画「ガッチャマン」が面白い。運命だとか使命だとか言われて、それなら戦うのも仕方がないと思う反面で、そんな押しつけがましいものに諾々と従っていられるかという気持ちもあるのは人間、誰だって同じもの。たとえ世界が滅びようとしていても、その全責任を俺たち私たちに押しつけられてはかなわない。そんな懊悩と葛藤が、時にダークサイドに墜ちることもあって、それが「ガッチャマン」という映画ではくっきりと表現されている

 その意味では、「スター・ウォーズ」シリーズのジェダイが時に陥るフォースの暗黒面の存在にも似ていたりする世界観。前段があって今後があるという意味から、監督や脚本家が「エピソード4」と映画のことを言っていたりするのとはちょっと意味が違うかもしれないけれど、どこかに「スター・ウォーズ」の空気が漂っているような気がする。

 公開された映画に対しては、17年前に現れた謎に侵略者によって地球の半分が占領され、そしてギャラクターだと分かったその侵略者が明日にも日本へと侵攻を始めようとしているにも関わらず、剛力彩芽演じるジュンが新宿あたりを歩き回ってブランド品を買いあさったり、弟の甚平を相手にハッキングするなら三つ星レストランのレシピも持ってきて、健に作ってあげると言ったりと、とても軽い性格のように描かれていて、世界の命運を背負った正義の味方らしくないという声がある。

 ただ、映画を観れば明日に世界がどうかなってしまうことよりも、今の色恋が大事だといった軽さが、とてつもなく重たくなりがちな雰囲気にフッとした息抜きを与えてくれていることも事実。それに軽いように見えながらも、運命に縛られた自分に悲し苦しんでいるところも時折見せてくれたりと感情の起伏が盛り込まれている。そんな人間らしさがあるからこそ、突き放すことなく反発も含めた様々な感情を抱くことができるのだ。

 ちなみに渡辺雄介が書いた映画の脚本を元に、映画ではSF設定を担当している和智正喜が書いた小説版「ガッチャマン」(角川書店、552円)に寄せられた、佐藤東弥監督のあとがきによると、ジュンにはどこか情緒が不安定にならざるを得ない理由がしっかりと付けられている。<石>と呼ばれる不思議な結晶体の持つ力を引き出せる存在として、ジュンは他の誰と比べても最も高い適合率を見せているのだという。

 そのレベルは11。ガッチャマンのリーダーを務める健や、その友人で同じガッチャマンのジョーが9だからレベルが2つも違う。なおかつ他に誰も存在しないという高い適合率は、強さと引き替えに心身が蝕まれる可能性も高くする。だからジュンには記憶が入り混じったり、感情の起伏が激しかったりといった面が否応なく出ていて、それがああした揺れ幅のある言動につながっている、らしい。そう理解すればなるほどと納得も行く。

 ちなみに甚平とリュウはともにレベル7。ガッチャマンになれるギリギリのラインだというけれど、リュウは肉体を改造して強靱なパワーを発揮できるようになっているため、レベルの低さをカバーしてガッチャマンとなったし、甚平は持ち前のハッキングの能力以上に、ジュンのそばにいることで彼女の精神の暴走や落胆を防ぐといった役回りがあった。だからまだ幼くてもガッチャマンとしての任務を背負わされている。これも小説版での佐藤東弥監督の解説で分かることだ。

 過去に欧州でナオミという女性をめぐって共感と対峙があった健とジョーも含め、全員がさまざまな屈折を背負っていて、それがあのチームの結束にもつながっていることも、映画より深く心情を説明できる小説版を読むと見えてくる。読んでから観るのは映画にのめり込めないと言うのなら、観てから読んでまた観れば、初見とは違った深さを映画に感じ取ることができそうだ。

 過去に経緯があって、ジョーと健とのグループから外れる形となった初音映莉子が演じるナオミというキャラクターが、実にいい味を出しているのも映画版「ガッチャマン」の収穫。どういう役かは明らかにできないけれど、映画のビジュアルクイーンとしての役割を一身に背負って、頑張っていたということだけは断言したい。圧倒的な空中戦に肉弾戦を見せてくれた戦闘シーンからしばらくたって、屋内でのセリフのやりとりが多くなった中盤に登場して、観る人たちの気持ちをぐっと引き締めた。

 そんなナオミがどうして映画のようになったのか? という動機についても小説版「ガッチャマン」には詳しい。仕方がなくでも洗脳された訳でもなく、最初から彼女は暗黒面を持っていて、フォースをそちらへと向けてしまった。理不尽な運命を受け入れるには真面目すぎたのだろう。だから傾き、そして引き寄せようとして最後まで振る舞った。ある意味で、人間の善悪を合わせ持った業を体言しているキャラクターだと言えるだろう。

 もっとも、健やジョーすら上回るレベルにあったナオミが、その立場になってどうして健やジョーを手元に引き寄せられなかったのか。そこに観客は、健とジョーの間に通うひとかどならぬ関係性を観るかもしれない。演じるのは、表情に生真面目さがあふれた松阪桃季に、どこか荒々しさを感じさせる綾野剛。2人の友情とそれが裏返しとなった反発、けれども底ではしっかり理解し合っている関係を見るにつけ、ナオミでもジュンでも入り込めないものがあるのだと、分かってくるような気がする。

   つまりはそういう関係性を描く、あるいは仄めかした映画でもある「ガッチャマン」。それさえあれば世界がどうなっても構わないと考える趣味嗜好の女性たちと、一部男性たちも含め感嘆させ吸引する設定があり、それを周囲に剛力や初音や中村獅童、岸谷五郎らを配置することで、ファミリー的で戦隊的な設定だと誤魔化して、一般性を獲得していたりするようにも見受けられる。

 そうだとしたら佐藤東弥監督はなかなの策士。観客はお構いなしにと全てをひっぺがし、裏側にある女なんて世界なんて人類なんて地球なんてどうだって良い、ただお前がいてくれればといった熱のこもったシチュエーションを、スクリーンから感じ取って盛り上がれば良い。そしてラストに近い場面で描かれる、友情が色濃く出たシーンで心を踊らせるのだ。

 映画では、イリヤというギャラクターの内通者と接触する会場に入る潜入シークエンスに妙に時間をかけ、スリルは煽ってもテンポは今ひとつ滞ったりする場面もあって、観る人に不満を抱かせている。ISOというガッチャマンたちが所属する施設にある倉庫でのナオミとジョーの再会も、2人の会話で引っ張って周囲がまるで動いていないように見えて時間の感覚がズレてしまう。

 小説ではここで、ジョーと健とナオミとの3人が過去にどういう関係にあったのか、そしてナオミにどういった運命が訪れたのかがしっかりと描かれていて、ギャラクターの基地へと潜入してからを過去との決別も含めた戦いが中心になるようにしてある。映画もその方がラストに盛り上がったかもしれない。加えて5人がバラバラに活動していた敵基地での戦いが、小説では最後に全員の力が合わさって敵を倒すことになっている。これでこそのチーム。これでこそのガッチャマン。可能ならそういった映像が追加され、変更されたカットを観てみたいものだが、無理だろうか。

 エピローグの想像とこれからの展開をいろいろと感じさせるシーンについては、小説版にもしっかりと掲載されていてひとつの可能性を示唆する。と同時に、映画ではまったく描かれていないもうひとつの存在をそこに描いて、再びの接触があるかもしれない可能性を感じさせてくれる。懸念が実際のものとなった時に果たして健は決断できるのか。彼の葛藤に映画では出なかった存在が関わって来るのか。映画が作られなければせめて小説でも「エピソード5」を、さらには「エピソード3」を描いて過去を知らせ、未来を教えて欲しいものだが、果たして。


積ん読パラダイスへ戻る