A NOVEL OF
GADGET
ザ・サード・フォース

 ゲームのようなデジタルコンテンツから、小説や漫画やアニメが生まれるケースは、今ではそれほど珍しいことではない。最近ではアニメ化、漫画化、小説化といった「版権ビジネス」を、あらかじめ計画に入れて、それらの版権料を当て込んで、ゲーム作りを行うケースだってある。

 もっとも、そのすべてが成功するわけでは決してない。根幹を成すゲーム自体に、アニメ化なり漫画化なり小説化に耐えられるだけの世界観、キャラクター、そして物語性がなくては、いくらさまざまなメディアに展開したとしても、およそ成功はおぼつかない。

 逆にいくら元のゲームに力があっても、そこから何を読みとるか、何を引き出すかによって、出来上がって来る漫画やアニメや小説が、面白くもなればつまらなくもなる。成否は読みとり手、引き出しての手腕いかんにかかってくる。

 堀井雄二が生み出した「ドラゴンクエスト」などは、ゲーム自体の出来と、そこから何かを読みとり、何かを引き出して、様々なメディアへと展開しいった人たちの力量が、うまくかみ合った希なケースだと思う。「少年ジャンプ」や「少年ガンガン」で連載中の漫画、テレビで放映されたアニメ、著名ファンタジー作家による小説等々。それぞれが、それぞれなりの「ドラゴンクエスト」を作りだし、それぞれが、それなりの成功を収めている。

 国産のマルチメディアタイトルとして、米国や欧州でも高い評価を受けている「GADGET」(東芝EMI)に、初めて活字の世界が加わった。「GADGET」ではこれまでに、CD−ROMをベースに、音楽CD、ビデオ、レーザーディスク、画集などへのメディア展開が行われている。しかしそれらは、CD−ROMで使われた(あるいは量の関係で使わなかっただけの)音楽であり映像であり画像で、CD−ROM自体の世界を逸脱するものでも、また補完するものでもなかった。

 だから、今年の1月に制作元のシナジー幾何学で、「GADGET」が海外で小説化されることになったと聞いた時、「GADGETの世界が活字によって補完される」と、内心非常に期待するものがあった。

 CD−ROMで描かれている、「1984年」のような管理されたディストピアがどのように生まれ、どのように崩壊しようとしているのかを、政治情勢や地勢を踏まえて、文字によって細かく描写できるのは小説だ。登場人物たちの内面と行動を、活字によって綿密に描き出すことのできるのも小説だ。小説化によって「GADGET」に新たなフェーズが加わると信じていた。

 不安がなかった訳ではない。クリエーターの庄野晴彦が作り出し、無機質な映像とノイジーなサウンドによって描き出された「GADGET」の世界が、庄野の思惑をはずれていじくりまわされ、壊されてしまう可能性も皆無ではなかった。日本のCD−ROM市場を築き育て上げて来たシナジー幾何学と庄野が、小説化に当たって作家との間で「共通の世界観を持つということを一生懸命考えていました」(庄野晴彦、「GADGET ザ・サード・フォース」特別インタビューより)と考えたのも、当然といえば当然だった。

 何度も話し合いを持った結果、小説化にあたって庄野と粟田政憲(シナジー幾何学代表取締役)が選んだ作家は、SF作家のマーク・レイドローだった。「パパの原発」(ハヤカワ文庫SF)で日本にも紹介済みの作家。日本のCD−ROMが米国で最初に小説化されるという事実に加え、小説化を担当する作家も1流どころとあれば、これはもう期待しない訳にはいかなかった。

 最初の話から10カ月を経て、満を持して手にとったマーク・レイドロー著の「GADGET ザ・サード・フォース」(角川書店、鎌田三平訳、1700円)は、ふくらみすぎた期待に、残念ながら今ひとつかみ合っていなかった。作者の頭に、あるいは小説化を依頼した出版社側に、CD−ROM版「GADGET」で描かれた「ガジェット」の印象がありすぎて、それに引きずられてしまっているような印象を持った。

 皇帝オロフスキーが君臨し、その部下スロースロップによって統治される帝国というのは、おそらくCD−ROM版「GADGET」の世界観を踏まえたものだろう。荒廃を続ける都市の間を鉄道だけが繋いでいるというのも、CD−ROM版と同じ設定だ。これは小説が漫画やアニメであっても、絶対に変えることができない。

 マーク・レイドローはこうした「ディストピア的世界」に、レジスタンス勢力の「サード・フォース」を創造して、帝国と対峙させた。そこから生まれるのは、当然のごとくレジスタンスを取り締まる帝国と、帝国の追求をかわしながら闘うレジスンタンスのメンバーという、ありきたりながら魅力のある構図だ。CD−ROM版では明確な意志(意思)を持って登場する人物は、プレーヤーが操るキャラクターをふくめて1人も登場しない。取り締まる帝国と闘うレジスタンスという構図からは、意志(意思)を持った人々が織りなすドラマを期待させた。

 主人公が「サード・フォース」に属しながらも、出自の関係で帝国の皇帝オロフスキーから慕われ、スロースロップからも面識のある女性、エレナ・ハウスマンというのも、女性が登場しないCD−ROM版では不可能だった、愛や憎しみといった感情を「GADGET」の世界に与えてくれるのではないかと思った。

 感情を描くという点については、エレナに求愛してかなわず、エレナに似た女性を求めては次々と殺害していくというオロフスキーなど、小説版によって始めて感情が与えられたといえなくもない。CD−ROMでは意識的に無機質に描かれているスロースロップも、皇帝への忠誠とおのれの野心とを天秤にかけながら立ち回る、得体はしれないが憎むことのできない人物に描かれている。

 しかし、小説版「GADGET」こと「ザ・サード・フォース」は、物語としての起伏にいささか乏しい気がする。「サード・フォース」と皇帝側が剣を交えて闘う訳でもないし、「GADGET」世界の重要な交通手段であり、同時に庄野晴彦の生み出した「GADGET」世界の1つの象徴でもある鉄道が、CD−ROMほどには重みを持って感じられない。グランドセントラル、イーストエンド、サウスエンドを行き来する、単なる交通手段に堕している。

 登場人物たちが見ている世界が、リアルなものなのか、それとも「センソラマ(洗脳機械)」によって見せられているバーチャルなものなのかが、CD−ROMと同様に、小説でも1つのテーマになっている。だたその描き方が、読み手をリアルとバーチャルの狭間で翻弄するほどにはこなれていない。

 彗星が迫り来る地球で破滅の恐怖におびえながらも、一方でその恐怖がバーチャルなものではないのかと疑問を持つ。もしかしたら、そんな疑問をもっている自分自身が、誰かの妄想の産物ではないかと疑い始める。入れ小細工のような幻想と妄想が、読み手にも同じ気持ちを抱かせて不安にさせる。そんな話だったら良かったのにと思う。

 もっと単純に、小説の舞台を鉄道に据えて、中で発生するさまざまな事件を解き明かしながら、「センソラマ」の秘密や「GADGET」世界の描写を行っていたら、サスペンスいっぱいの娯楽小説になっただろう。だがレイドローは(あるいは編集者は)、あくまでもCD−ROM版「GADGET」が描いた世界にこだわり、センソラマだけでなくスキャナーや双眼鏡、トランク、箱船といった「CGADGET」的「ガジェット」を話の中に盛り込みすぎた。CGによって描かれる記号的なこれらの「ガジェット」も、活字の描写力ではただの小道具にしか過ぎなくなってしまっている。

 CD−ROM版「GADGET」を経験した人が、その世界をわずかに「エキスパンド」したいと思って読む分には、まったく問題のない小説だ。だが果たして、CD−ROM版「GADGET」を経験ていない人が、小説版「GADGET」を心底楽しんで読めるかというと、いささかの疑問を禁じ得ない。

 折しも本家CD−ROM版「GADGET」は、すべてのCGとサウンドをリファインした形で再生しようとしている。小説版「GADGET」がここに存在しようと、CD−ROM版「GADGET」の価値がいささかも減じられることなく、なおも次なるフェーズへと進んでいることは幸いだ。


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