この不思議な地球で

 貧乏だった学生時代は、毎月買える本の点数など知れたもので、なけなしの金をはたいて買った本や雑誌は、それこそ嘗めるように、隅から隅まで読み尽くしたものだった。今では点数こそ何十倍にも増えたものの、その分積ん読比率が高まって、数ページを読んだだけで読んだ気になっていたり、読まずに本箱行きとなる本ばかりとなっている。

 「SFマガジン」も、自分のそんな変化の波を、もろに受けた雑誌のひとつだろう。昔だったら掲載されている短編なら、すべて買ったその日のうちに読んでしまった。面白い短編なら何度も読み返したし、どの号にどんな短編が載っていたかを、後々まで覚えていたものだった。

 巽孝之さんが編集したアンソロジー「この不思議な地球で 世紀末SF傑作選」(紀伊國屋書店、2500円)には、1作だけSFマガジンに掲載された短編が収録されている。ストーム・コンスタンティンという作者の名前、「無原罪」というタイトルの両方に記憶がなかったが、リストによると93年10月号の掲載というから、該当する雑誌に、1度は目を通していることは間違いない。よほど印象に残らなかったのか、よほどいいかげんに読んでいたのか。おそらく後者だろう。僕はSFの楽しみ方を、1つ忘れてしまったような気がする。

 アンソロジーでは、海外の短編の秀作が次から次へと掲載されていた(と僕が感じていた)SFマガジンを読むような、SFエッセンス、SFマインド、SF醍醐味にあふれた短編を楽しむことができた。「世紀末SF」というサブタイトルに当初、ややもするとテクノロジー一辺倒であったり、退廃的なムードだけにあふれ返った小説が詰め込まれた、ポップな、だけど頭が痛くなるような印象を持っていた。しかし掲載された作品は、どれもセンス・オブ・ワンダーに満ちていて、感覚を横滑りさせ、常識を土砂崩れの下に圧し潰してくれた。

   90年の新潮9月号に掲載された、にオーソン・スコット・カードの問題作「消えた少年」を、初めて読むことができた。問題作といわれただけあって、作家と現実との係わりという面で、大きな意味を持っている作品だが、虚構が現実を飲み込んでゆく作品を、数多く発表している筒井康隆を読んで育った僕には、虚構に徹することが出来ずに、あとがきを蛇足のように付け足しているカードの態度が、ちょっと不満だった。

 米国で幼児虐待・誘拐が深刻な社会問題と化している実情も理解できるが、だからといって事件の悲惨さを訴える作品でありこそすれ、扇動するような内容ではないこの作品について、カードは言い訳などする必要はなかった。小説はしょせん、虚構の産物であって、そこにいかに現実が影を落としていても、小説と銘打ってある以上は虚構なのである。ましてやこれは、SFだぜ。嘘を本当らしく書くのがSFなんだぜ。信じる方が悪いのさ。

 J・G・バラードの「火星からのメッセージ」は、日本人がスペースシャトルにのったとか、ミッションスペシャリストとしてマジックハンドを操作したとかいって騒いでいる、ままごとのような宇宙開発ごっこへの警句かもしれない。地球すらも御すことのできない人類にとって、宇宙など永遠に手の届かない別次元の存在なんだよ。

 パット・マーフィーの「ロマンティック・ラヴ撲滅記」。ロマンティックなラブに縁遠い自分には、理解し難い小説。でもおかしいね。イアン・クリアーノ&ヒラリー・ウィースナー「秘儀」に、F・M・バズビー「きみの話をしてくれないか」。眩暈がする。くらくらくる。最先端にして古典の味わい。

 10篇で2500円は正直高い。文庫なら800円くらいで出来るだろうが、こうした文庫が文庫の刷り部数だけ売れない現状に、溜息が出てしまう。若い人を育てたくても、育てるための雑誌がない。時代は確実に浸透と拡散から雲散と霧消へと進んでいる。

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