f植物園の巣穴 

 歯が抜ける夢、というのを見ることがある。解釈によれば、気にかかることが心に溜まっていて、いっそ放りだしてしまえたら良いのに、それができない苛立ちにモヤモヤとしている時に見るらしい。そういわれれば、なるほどと思い当たる節もあるはずだ。

 ほかにも高いところから落ちたりとか、昔の知人がなんの脈絡もなく現れたりとか、夢の中ではいろいろと不思議なことが起こる。けれども、夢の間はそれを夢だとはわからないし、逆らうこともできない。

 起こる出来事に、ただただ流されていくばかり。目が覚めてから振り返って、過去におかしてしまった失敗だとか、これから来るかもしれない面倒事が浮かんで、夢の中での不思議な出来事たちと結びつく。

 丘に森に沼地に草原。自然に向かった時に人が覚える畏敬のような感情を、「西の魔女が死んだ」や「沼地のある森を抜けて」といった作品に描いてきた梨木香歩の新しい長編「f植物園の巣穴」朝日新聞出版、1400円)は、人が心の奥底に埋もれさせた記憶が、湿地帯の水辺のように、じぐじぐとしみだしてくるような物語だ。

 「f植物園」という場所に転任となった園丁の男性が主人公。とてつもない歯の痛みに耐えかねて、近所で評判を聞いた上で歯医者に行くと、どこかおかしなところがあって、虫歯の穴に得体の知れないものを詰め込んでみたりと、腕前に不安が感じられる。おまけに、手伝っている医師の家内が前世で犬だったそうで、忙しくてなりふりかまっていられなくなると、犬に戻ってしまうという。

 普通だったら驚くところを、男性はそういうものかと受け入れる。もっとも、歯の痛みはいっこうにおさまらず、耐えかねて歩き回っているうちに男性は、自分が勤め先のf植物園にある水辺に立っていることに気づく。

 知っている植物園とはどこか違った雰囲気。おまけに、自分の体が子供になっていて、そのままナマズのような髭をもった神主と草むしりをしたり、レストランで山羊のミルクを飲まされたりと、犬の家内にも増して奇妙な出来事に巻き込まれていく。

 日常がとろけだしていく感じ。というより、最初に訪れた歯医者で犬から薬を手渡された時点で、すでに日常はとろけだしていた。

 ナマズの顔をした神主や、ニワトリの頭を持った人が現れたりする異界へと紛れ込んでしまった男性は、それを不思議と思わないまま生い茂る森の中を歩き、ムジナモで緑色になった川に落ち、カエルのような顔をした子供といっしょになって泳ぎ始める。

 幼い頃に自分の面倒をよく見てくれていたのに、突然いなくなってしまったお手伝いさんの千代のこと。妊娠四ヶ月で死んでしまった、こちらも千代という名の妻のこと。苦い記憶が蘇ってきて、森を歩く子供の姿の男性をさいなむ。

 飼っていたクロという犬が、増水した川で流されている姿を見てしまった記憶。ヒヨコを連れて歩いていたニワトリに、恐ろしい形相で追いかけ回された記憶。異界をさまよう中で、しまい込んで忘れてしまっていた記憶が次々に思い出されて、体験している不思議なビジョンと重なっていく。

 普通の恋愛ストーリーなら、出会いがあって、反発が生まれライバルも現れといった具合に紆余曲折があっても、最後にはカップルが誕生するだろうという予想のもとで、物語をたどっていける。「f植物園の巣穴」の場合はどこまでも不透明で不安定。次にいったい何が起こるのかが予想できない上に、次に起こったことが、前とどうつながるのかも分からないまま、混沌の中を流されていくような感覚に放り込まれる。

 つかみどころのなさに不安を覚え、ページをめくれなくなってしまう人もいるかもしれない。けれどもど、夢と同じで見ている間は意味不明でも、見終わって振り返るとすべてに、何らかの意味があるのだと気づけるようになっているから、心配しないでただ流れに身をゆだね、幻惑のビジョンを味わえば良い。

 「f植物園の巣穴」のクライマックスでは、とても残酷で、悲劇的だった過去が蘇って主人公の男性の気持ちを後悔へと追い込む。その上で、ただ逃げているだけでは何も始まらないのだという決意をもたらす。

 いなくなってしまったお手伝いの千代の行方。胎児とともに死んだという妻の現在。夢で見たカエル小僧がいったい何だったのかも見えて来て、逃げていた過去に対する贖罪の向こう岸にある、これから進んでいく道を指し示す。

 奇妙な夢を夢で終わらせないで、そこから何かを得る大切さを教えてくれる。

 読み終えたあとでまた、最初からページをめくり直してみて、犬になってしまう歯医者の家内や、山羊のミルクをふるまってくれたレストランの女性、なくしてしまったブーツに椋の木が抜かれて開いた穴にどんな意味があって、現実とどう結びついているのかを探求する楽しみがありそうだ。

 そうした行為をよりどころに、自分がゆうべ見た不思議な夢が、自分の現在とどう関係しているのかを探り当て、乗り越えていく力をつかみとろう。


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