逃走天使
FASTSOFA

 「ロード・ノベル」=「成長の物語」という図式が、ハックルベリ・フィンに端を発するのかは解らないが、少なくとも自分の中には、「ロード・ノベル」と銘打つ以上、旅をする主人公になんらかの成長が見られなくてはいけないという、暗黙の了解がある。

 それから、せっかく「ロード・ノベル」と銘打つのだから、せめて大陸の端から端まで移動してもらいたいという、読み手としての期待もある。ロシナンテなんて老いぼれ馬でよたよたと移動したドン・キホーテの時代や、素人のイカダで河を下ったハックルベリ・フィンの時代ならいざしらず、国中をハイウエイが走り回り、列車が縦に横にと通じている現代のアメリカならば、道端に立って指を立てれば、州を3つ4つまたいで移動することくらい簡単だ。

 広大な国土を希望に満ちて、それとも挫折に打ちひしがれて移動してく過程で、新しい発見をし、新しい出会いに勇気づけられ、人間的に成長をとげていく。そんなイメージが、「ロード・ノベル」という言葉につきまとっていた。だが、大栄出版から刊行されている「オン・ザ・ロード」というシリーズに新しく加わった、ブルース・クレイヴィンの「逃走天使」(浜野アキオ訳、2575円)は、「ロード・ノベル」に必要不可欠だと思っていた「成長の物語」の要素が、とことん排除されていて戸惑った。

 あらすじはこんな感じ。主人公のリックがポルノ女優のジンジャーにおぼれて彼女のタマラを友人のジャックに寝取られ、間合いの悪いことに家主からは家を追い出されてしまい、仕方なく車に乗ってジンジャーに会いに行く。途中で入ったファストフードの店で、やけに馴れ馴れしく話しかけて来る中年の男ジュールズと出会う。

 家業だった鳥の公園を大企業に売ってしまった情けないジュールズをお供に、リックはボーリングをしたり、2人をフクロ叩きにした連中にボウガンを使って仕返しをしたりして、だらだらと過ごす。やがて再会したジンジャーは、リックを悪し様にののしってたたき出す。行き当たりばったりの行動に激情にかられての喧嘩など、およそ「成長の物語」とはかけ離れた、チンケなエピソードが積み重ねられていく。

 放浪する場所は、南カリフォルニア州のごくごく狭い地域。オンボロのビュイック・スカイラークに乗っての、たった5日間だけの短い旅。「一目惚れ」などという言葉が示すように、一瞬で運命的な出会いや経験をすることだってあるから、時間の長さが「成長」の有無を決めるとは限らない。しかしリックは、意識してか無意識のうちかはともかく、「成長」することを自分の目的から排除して、ひたすらに「逃走」し続ける道を選ぶ。最後まで「成長」することを拒否し、ハイウエーをビュイック・スカイラークで「逃走」し続けた果てに、唐突に物語の舞台から退場させられる。

 リックの恋人を寝取ったジャックもまた、「成長」ではなく「停滞」に安寧を見いだし、「ウルヴァリン」や「マッハGO!GO!GO!」といったコミックスやアニメーションを通して幻想の世界に溺れ、遠く日本の風景に憧れながらも、「行動」からとことん自らを遠ざける。リックの恋人タマラとの逢瀬も、能動的というよりは受動的。後ろめたさを感じながら、自己弁護の理由付けに余念がない。

 移動が希望に満ちていた、移動に希望を見い出すしかなかった時代ではもはやない。情報が発達し、どこに行っても同じ様な風景があって、同じような人がいて、同じような暮らしがあると、みんな知ってしまった。移動することに希望が見いだせず、移動しても成長につながる経験が得られるとは限らなくなった、そんな時代の「ロード・ノベル」は、時間をかけた空間の移動を伴った「成長の物語」である必然は、もはやないのかもしれない。

 となれば、希望なき現代の「ロード・ノベル」に必然な要素とは、いったい何だろうか。たぶんそれは、感情があてもなく漂い、さすらい続ける様子をとらえて描き出すことになるのではないだろうか。「成長の物語」のような前向きのメッセージを、もはや「ロード・ノベル」から受け取ることはできない。そして新たに「漂泊の物語」として提示されるようになった「ロード・ノベル」から、自分の存在に自信をもてず、戸惑いながらも、決して前に足を踏み出そうとはせずに、「停滞」の中でゆらゆらと漂い続ける若者たちは、無価値な生を生きていくことの価値を、無理矢理に感じようとするのだ。

 昨日を信じたくない人も、明日を信じられない人も、今だけは否が応でも実感しなくてはならない。それすらも苦痛というのなら、「逃走天使」はもってこいの「逃避先」だ。そこではあなたは「停滞」することに希望を、「逃走」することに勇気を、ともに見いだすことができるだろう。
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