DE HARUMONIA MUNDI
エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影

 「神は細部に宿る」。

 と、安直に「神」の名を持ち出して、その神とはいったいどういった神なのかと指摘されかねないことを承知した上で、それでも敢えて「神」の名を持ち出したくなる。芸術の神かもしれない。創造の神かもしれない。惑乱の神、というのもいるかもしれない。あのあまりの狂騒は酒神バッカスの御技とでも言うしかない。けれども1人、主神を挙げるとしたら、やはりあの名を置いてほかにない。庵野秀明。アニメーションの神。

 P・K・ディックの翻訳で名前を知って以来10余年、宗教に関連した話ではSF関連の評論の中でも飛び抜けた難解さと奥深さを見せてくれる翻訳家の大瀧啓裕が、2年以上の歳月を執筆に費やした評論「エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影」(東京創元社、3400円)が出た。そこで示されているのが、「新世紀エヴァンゲリオン」というアニメーション作品の細部に宿った、アニメーションの神による御技の冴えだ。

 なぜ「エヴァンゲリオン」なのか、という問いに答える必要はないだろう。動員した人数、売り上げた収益はもとより思想に、文化に、社会に与えた影響の広さ、深さは他のアニメーションに類例を見ない。使徒や天使、アダムにエヴァにリリスといった宗教的なタームの頻出する内容に、宗教思想を専門として天使に関する著書もある著者が関心を持ったことに何ら不思議はない。ではなぜ「いま」なのか。

 それはやはり、細部に至るまで巧妙に張り巡らされた神の意志に、碩学とは言え、否むしろ碩学であればこそ、徹底した読解を行わねばならないという衝動にかられたからだろう。結果、恐ろしいくらいまでに幅広く、かつ深い宗教や神秘思想に関する知識を総動員しての読解作業に長い時間が必要となってしまった。

 のみならず、登場するキャラクターの心理状態や社会的な地位について想像をめぐらし、図像や背景、2015年という物語の舞台になった時代に到来しているテクノロジーまでをも含めて解読していく、宗教や神秘思想に耽溺しない、映像作品としての読解にも踏み込んでいる。およそビジネス的な観点では「終わった」作品に関する評論を、マーチャンダイジング的な視点を抜いて「いま」出さざるを得なかったのも仕方がない。

 それだけに、書かれてある内容には、本編を見てフィルムブックを読み解説書を買い込み思想書を読んでいた者であっても、目から鱗がボロボロと落ちていく感覚を味わうことができるだろう。例えば、誰もが「新世紀エヴァンゲリオン」の英語読みだろうと気楽に流していた「NEON GENESIS EVANGELION」という横文字のタイトルを、著者はギリシア語へと源流を辿った上で「新しい福音」と解釈し、全体を通底する「再生」のテーマをそこから抽出して見せる。

 オープニング現れる「セフィーロート」を単なる神秘的な気持ちを喚起させるための道具立てと見ず、敢えてそれが使われた意味を真剣に考えていく真摯さ。オープニングで、セフィーロートの最下に位置する第10のセフィーラー、マルクート(王国)につ月の記号が描き加えられたキルヒャーの「セフィーロート体系」が使われていることから想像を広げ、エンディングでは月を背負って登場し、劇場版では「黒い月」より巨大化して立ち上がる綾波レイの存在と、セフィーロートが密接に関わっていることを訴える。

 病院でシンジに向かって「たぶん3人目」と言った場面から、レイは第23話で零号機もろとも自爆する以前に1度、死んでいると考えるのが普通だろう。だが著者は、は記憶の連続性、零号機に入っている「魂」の正体なんかを勘案した上で、「ばあさんは用済み」と言った時にレイはナオコによって首を絞められはしたものの殺されてはいなかった、という解釈を出していて、それがなるほど全体を通して見た時に整合性がとれていて、真実は案外とそちらだったのかもと思わせる説得力で迫って来る。

 他にも、三位一体の法則を理由に、常に3人が1組となるケースの多いキャラクターたちの配置を考え、故に他者として加わった者から排除されていく可能性を示唆して現実に証明したり、すべての使徒が同一の存在の多面的な形態であったと考えてその最終進化形が渚カヲルだったと類推してみたり。流石に専門家だと思わせる解釈にはただただ唸る。

 それでいて加待リョウジから一面的な情報しか与えられていないミサトが、直情傾向的な性格を発揮して人類補完計画を悪とみなし、シンジを立ち上がらせては人類を結果として破滅へと導いた行動を指して「錯乱の女王」と呼んだりするあたりには、専門である宗教的な解釈によって表層をなぜるだけでなく、1本の映像作品として「新世紀エヴァンゲリオン」に挑もうとする強い意志が感じられる。

 その面で確かに著者は凄い。けれどもそれ以上に、著者の凄さを受け止めるだけの幅と厚みを持った作品だったという意味で、著書からは「新世紀エヴァンゲリオン」という作品の凄みが改めて浮かび上がる。細部へと徹底的にこだわった専門家による緻密な解釈を受け付けてなお、ほころびをほとんど見せず、むしろより深淵なテーマ性を浮かび上がらせる作品を、決して余裕があった訳ではないスケジュールの中から、庵野秀明監督をはじめ制作スタッフはどうして作り出せたのか。

 その時まさしく、「神」は降臨していたのである。


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