エデン

 自転車競技のロードレースで、世界最高峰の戦いと目されるツール・ド・フランスの話題が、日本人の日常会話に混ざるようになると、1980年代にいったいどれだけの人が思っていただろう。

 ベルナール・イノーが、偉大なエディ・メルクスに並ぶ5回目のツール制覇を成し遂げたり、ローラン・フィニョンが、イノーとの戦いを制して2連覇を果たしたりと、ツールを開催しているフランスの選手が見せた大活躍に、フランス国中が沸き立っていても、海を隔てた日本では、「サイクルスポーツ」のような専門誌が、総合優勝の結果を伝えた程度だった。

 それが今では、CSの専門チャンネルで生中継が行われ、フランス国内を23日間にわたって走り抜けるレースを、毎日何時間も見続けるファンが少なくない数いるという。目を凝らして、山岳での文字通りに命を懸けた戦いや、個人のパワーが極限まで発揮されたタイムアタックの凄まじさに見入り、田園を走るロードレーサーの車列の美しさに感嘆している。

 ツールで優勝を果たすことが、どれくらい大変なのか、そして、ツールに日本人が出場することがど、れくらい貴重なのかが分かってもらえる時代だからこそ、近藤史恵の「エデン」(新潮社、1400円)に登場する、ツールを戦うロードレースの選手たちが抱く、様々な感情も伝わりやすい。

 それ故に、ストーリーの上で起こるさまざまな事件にも、どうしてそれが起こったのかを含めて理解が及んで、心情的に納得を得ながら物語を楽しめる。1980年代とはまさに隔世の感。この小説が1980年代に書かれていたら、もっと早くツール・ド・フランスなり、自転車競技のロードレースの面白さが日本に広まって、コナミが発売を発表していたゲームソフトも、国内発売されたかもしれない。

 同時に、近藤史恵が前作の「サクリファイス」(新潮社、1500円)で描いたような、自転車レースにのぞむチームには絶対的なエースがいて、それを助けて風よけになったり、荷物を運んだりするアシストという役がいて、さまざまな駆け引きのもとにレースを戦っているのだという知識も、世間に広まっていたかもしれない。もっともそれでは、ロードレースの魅力と、そしてプロスポーツにつきまとう陰の部分を描いた傑作が、生まれなかった可能性もあるから難しい。

 そんな「サクリファイス」で、エースがエースとしてあり続けようとした姿を、アシストとして強く感じて心に刻み、スペインへと旅だった白石誓が、ツール・ド・フランスという大舞台に初めて臨む様を描いたのがこの「エデン」。誓が所属するチームには、ツールでの総合優勝を狙えるミッコ・コルホネンというフィンランド出身のエースがいて、無事にアシストを勤め上げれば、役目を果たした満足感と同時に、フランスで走り続けられる保障も得られると考えていたところに、暗雲が立ちこめる。

 長引く不況で、チームのメーンスポンサーが撤退を決定。このためツールを終えれば、チームは解散を余儀なくされる可能性が強まった。これを避けようとチームでは、フランス国内でのツール人気を盛り上げ、スポンサーを確保しやすくするために、若いけれども有望なフランス人のエース、ニコラ・ラフォンを擁するチームを支援することを選手たちに求める。次のチームが決まりづらい状況で、選手たちもチームの作戦を受け入れ、自分たちのエースを半ば見捨てる覚悟を固める。

 現実のツールでフランス人の優勝者が出たのは、1985年のイノーが最後。イノーの後に3勝したグレッグ・レモンはアメリカ人で、5連覇を果たしたミゲル・インデュラインはスペイン人、癌を克服して前人未踏の7連覇を果たしたランス・アームストロングもアメリカ人で、以後はスペイン人が4年連続ツールを制している。フランス人は優勝から実に四半世紀、遠ざかっている。

 国技とも言える大会で、自国の優勝者が出ない状況は、日本の大相撲で日本人の横綱が四半世紀出なかったり、優勝者が10年出なかったりする状況をも上回って、国民に悲しみと屈辱を与え、寂寥感をもたらしていて不思議はない。「エデン」でフランスのチームが、名誉であるべきツールのチームの支援を離れていく状況、あるいはフランス人から優勝者が出れば人気が盛り返すのではという期待が示唆されている背景には、こんな事情があるのだろう。

 しかし、誓は反発する。エースのミッコを支えるのが、アシストである自分の役目と任じて、チームの方針に異を唱える。ツールに出られる貴重さが、広く認知されている現代だけに、欧州での仕事を失ってでも、ミッコのアシストを貫こうとする誓の態度の、よく言えばアスリートとしてとことんまで潔癖で、悪く言うならそれで飯を食うプロとしては至らない意固地さも見えて、誓という人物の性格が伝わってくる。

 そんな潔癖さが、前評判どおりの活躍を見せながら、事件に半ば巻き込まれ、半ば当事者として事件を起こすニコラが陥る深くて暗い絶望に、光明となって降り注いで次のステップへと彼を導く。

 企業や国家の思惑が渦巻き、アスリートとしての純粋な実力だけでは勝負できなくなっているツールの世界。頂上を狙いたい、ツールを走り続けたいと願う選手たちの思いの強さも、時に不正を呼び込み選手自身を破滅へと追い込む。そんなツールの陰の部分も見せつつ、ひとつひとつのレースで繰り広げられる、様々な駆け引きを克明に描き、勝利のために走り続けるアスリートたちの純粋さも描いて、ツールの魅力をめいっぱいに引き出してみせた。現時点で最高峰のツール・ド・フランスの小説だ。

 読み終えれば確実にツールのファンとなって、7月の開幕に向けてCSを契約してしまうだろう。


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