デッドソルジャーズ・ライヴ
DEADSOLDIER’S LIVE

 死の瞬間、「走馬燈のように」それまでの人生が浮かんで来るというのは本当だろうか。だとしたら死は、なかなかに残酷なことをしてくれる。楽しいことばかりの人生だったら、「走馬燈」もきっと、ラブストーリーやスペースオペラを見るような、最後の楽しい経験になるだろう。だが人の人生が、楽しいことばかりであるはずがない。辛かったことはもちろんのこと、楽しくあろうとして忘れてしましまったこともすべて、無理矢理に意識の奥底から引きずり出して来るだろう。

 疑問がもう1つあるとすれば、それは「走馬燈」がどれだけの長さで「上映」されるのかということだ。「一瞬」という説がある。死にゆく間際のほんの「一瞬」は、端で見ている人間にとっては刻々と進む物理的な時間における、「一瞬」のことなのかもしれない。しかし「走馬燈」を見ている死に行く人にとって、「一瞬」が客観的な「一瞬」と同じ長さと言えるだろうか。何しろ人生を振り返る「走馬燈」だ。時計の針が進むような物理的な時間とは尺度の違う、「永遠の一瞬」、あるいは「一瞬の永遠」を、死の間際に人は主観しているのではないだろうか。

 山田正紀の「デッドソルジャーズ・ライヴ」(早川書房、1800円)に登場する2人の男と1人の女は、死の間際に訪れる「永遠の一瞬」、あるいは「一瞬の永遠」のなかで、「走馬燈」の夢、それも飛びきりの「悪夢」を見ているように思えてならない。小説の冒頭で提示されるのは、熱帯雨林のマングローブの林を舞台に、ナノ・テクノロジーによって発達した脳のようなマングローブのネットワークと、脳の手足となって働く巨大化したカニたち、すなわち”バイタル・マシン・システム”だ。

 カニたちは泥の中を潜り浮かび上がっては、お互いを攻撃し続けている。本能のように戦い続けるマシンのなかに、意識を持ったマシンが生まれ、別の2つの意識を知覚し始めたところから、今の日本を彩る「死」を巡る様々な現象を織り込んだ、美しくも官能的な物語が展開されることになる。

 「私を二度も死なせないでね」。入院した先でそう医者に告げた美しい人妻がいた。彼女は16歳の時に臨死体験をしたことがあり、今は白血病にも似た謎の病によって死に行こうとしている。彼女の夫は中年のカメラマン。しかし彼女を抱いたために「免疫破壊」という病にかかり、同じく死に行こうとしている。

 やがて彼女は、「スパゲティルーム」でチューブにつながれて無理矢理「生」の状態に置かれるようなる。脳死状態に陥った彼女に、”慈悲死協会”の魚返という謎の男が”意識共鳴スペクトローラー”を使うことを持ちかけて来る。しかし脳死から完全死へと移行した彼女の美しい体が、メスによって切り刻まれることに耐えられなくなった医者は、失踪し、マングローブの林にたどり着き、”バイタル・マシン・システム”の放った銃弾によってズタズタにされてそして・・・・。

 そこから場面はめまぐるしく変わる。究極の官能を与えるかわりに”免疫破壊”による緩慢だが確実な死をもたらす”這う女”のエピソード、やはり官能と死を与える機能を持ったレプタイルと呼ばれる種族の女ナオミと、彼女を執拗に追いかける政府の非公然機関イレイザーの2人組のエピソード、生まなかった「赤ん坊」を探し求めてさまよい歩く女のエピソード。脳幹機能を失った男と大脳機能を失った男の壮絶なバトルは、「生」を定義づけているものへの懐疑を呼び起こし、究極の官能と避けられない「死」をもたらすレプタイルの存在は、それでも官能を求めて止まない男の、悲しい本能をえぐり出す。

 死んでいることと生きていることの違いは何か。死んでいないからといって生きているといえるのか。明確なようで判然としない、「生」と「死」の間で悲しく吼える男たちの叫び声が、夜の大都会に、そしてマングローブの林の中に響きわたる。場面は再びマングローブの林へと立ち返り、一人、そしてまた一人と「意識」が途絶えて消えていく。「スパゲティルーム」で眠る人妻も、レプタイルを追いかける「イレイザー」も、すべてがマングローブの林へと収斂して、「走馬燈」のごとき「一瞬」が終わりを告げようとする。だがしかし。

 そうなのだ。話はまたしても「永遠の一瞬」あるいは「一瞬の永遠」へと立ち返り、果てしない「死」への道程を辿り始める。「デッドソルジャーズ」たちの「生きている死」あるいは「死んでいる生」が再び始まる。死の際に見る「一瞬の走馬燈」は、死に行く者の主観において、やはり「永遠」なのだということなのだろう。

 山田正紀が「デッドソルジャーズ・ライブ」で語りたかったこと。それは作者のみ知ることとしても、読者として一つ、冒頭に掲げられたキューブラー・ロスの「死」の段階説と、それをなぞった本書の構成から、死の際に経った人間が見た「走馬燈」、それが「デッドソルジャーズ・ライブ」だったのではないかと理解した。それが正しいとは限らない。だが、いずれ「死」にゆくものとして、それが「悪夢」であったとしても、「永遠の一瞬」あるいは「一瞬の永遠」たる「走馬燈」を見ながら、充実した「死」を迎えられるのだと教えられたと、強く作者に感謝したい。


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