DOWN TOWN ダウンタウン

 シュガーベイブの「DOWN TOWN」が流れる喫茶店で、それぞれに仕事を持って社会に関わって生きている大人の女性たちに囲まれながら、これも女性のマスターが淹れてくれたモカコーヒーを飲み、未成年だから本当はいけない煙草を吸って、午後のひとときを過ごす。そんな高校生の日々。

 夢過ぎる。ただでさえ現代は、ドトールにスターバックスにタリーズにヴェローチェといったセルフな店が喫茶の中心。おまけにほとんどが禁煙で、かかっている音楽も流行歌が流れる有線ばかり。マスターのこだわるジャズやラテンが流れることは絶対にない。「DOWN TOWN」に紫煙をくゆらせる時間は金輪際訪れない。

 そんな店でできるのは、マニュアルに従って段取り良く喋る店員に向かい、呪文のようなオーダーを唱えてお金を払い、受け取ったらあとは自分たちだけの居場所を見つけてそこに固まり、学校のうわさ話をしたり、ゲームをしたりしてしばらくの時間を過ごすことくらい。そこからは、大人とのコミュニケーションなんて生まれない。

 昔は違った。石井いさみが「750ライダー」で早川光にアルバイトをさせていた<ピット・イン>だったり、小山田いくが「すくらっぷブック」で高校生たちのたまり場として描いた<アルフヘイム>だったり、たがみよしひさの「軽井沢シンドローム」で相沢耕平と津野田絵里が出会い、久遠寺紀子とも出会って物語が始まった<ら・くか>のような空間には、大人との出会いがあり、仲間との語らいがあってそこから社会を知り、大人の世界を知って成長していくためのきっかけがあった。

 もちろんこれらはフィクションで、気のいいマスターがいて不思議な常連がいる喫茶店があって、そこに事件が起こって常連たちが頑張って解決して、時には誰かとの恋愛なんかもあったりする中で揉まれながら、人間として成長していくようなことは、現実には滅多に起こらなかった。それでも、どこかにそういう喫茶店があって、スタバやドトールのようなセルフの店では得られない出会いや経験をもたらしていた時代は確かにあった。だからこそ物語の中に描かれて、憧れる人たちの気持ちを誘ってきた。

 世紀が変わった今も、かつて夢見た空間への憧れを抱き続ける者たちに、夢のような喫茶店が描かれた物語が提供されては、憧れを抱かせてしばしの夢心地に浸らせる。例えば小路幸也が1970年代を舞台に描いた小説「DOWN TOWN」(河出書房新社、1600円)に出てくる、<ぶろっく>という北海道の旭川市にある喫茶店。美人の女性がマスターをしていて、中学校の時の先輩で生徒会長だった少女も働いていたりして、集まってくるのも女医さんだったりホステスさんだったり、近所のブティックの店長さんだったりと女性がほとんど。決して広くはない店内に詰まった濃密な空気の中に、普通の人が入り込むには相当の勇気がいる。

 実際に、男子禁制みたいな噂すら立っていて、集まる女性に下心を持って入店して、誘いかけようとする男がいても、常連の女性たちにブロックされて追い払われるという。だから店名も<ぶろっく>なのかというとそれは謎。ともかくそんな喫茶店に主人公の森省吾、通称ショーゴは元会長だった先輩と再会したことをきっかけにして誘われ、入ってなぜかそのまま受け入れられて、足繁く通うようになる。

 物語は、そこで出会った大人の女性と歳の差を埋めるような恋愛を重ねていくといった話には向かわない。女性のマスターが店を続けている理由に、ショーゴが自然と受け入れられていった理由が明かとなって、子供の憧れが入り込む余地のない、大人が長い年月をかけて重ねてきた思いの強さが見えてきて、生きる大変さとそれでも生きていく大切さをショーゴは教えられる。同時に、学校の同級生とのバンド活動や、その同級生が父親への反発から家を出ようと苦闘している姿から、これから自分が何をしてけばいいのかということをショーゴは考えるようになる。

 妙にぎくしゃくとしたものに見え始めた父親と母親の関係に、子供の目線で不審を抱いて世間に背を向けたいと思う描写もある。もっともそれは、子供にありがちな、狭い視野でしか世間を見られない目線がもたらす独りよがりでしかない。ショーゴは<ぶろっく>に集まってくる大人の女性たちが、これまでにしてきた経験や味わってきた悲しみに触れ、大人だからといって子供と変わらず思い悩み苦しむんだと知り、それでも、大人だからこそ心の強さなり経済的な確かさなりで乗り越えていけることがあるのだと知って、漠然とうっとうしく思っていた父母への感覚を新たにし、そして自分自身も大人になっていくための道を模索し、東京へと出ることを決意する。

 喫茶店は社会と文化をのぞく窓であり、大人の世界へとつながる扉だった。受け取ったコーヒーを飲みながら時間を潰し、仲間だけで固まって会話やゲームに興じるだけの場所ではなかった。社会とつながった場所であり、社会に生きる大人たちを意識させられる場所であり、そうした領域へと向かう覚悟を抱かされる場所だった。現実には出会えなくても、物語に描かれるそうした喫茶店の存在が、未来にもやもやとした不安を抱き、それでも未来と対峙しなくてはならない人間に力を与えた。

 現代にそういった場所はない。ないからこそ「DOWN TOWN」は1977年の喫茶店が舞台になっている。今時の若い人たちが読む物語に出てくるのは、そして若い人たちに好まれるのは、同じ年頃の女性たちとひたすらに駄弁るだけの生徒会室だったり、幼さの残る引きこもり気味の少女探偵を慕った青年たちが集まるスイーツも出すラーメン屋。そこに大人の世界を感じ取り、成長していく物語はない。

 それも仕方がないのかもしれない。<ぶろっく>に来る大人たちのような、達観と稚気とが混じり合って、人生を迷いながらも楽しんでいる大人はいなくなってしまった。肥大化させた自己を引きずったままの、大人の恰好をした子供ばかりに、世の中がなってしまった。そのことが、だったら大人になんかなる必要はないと思わせ、より身近な同世代とのコミュニケーションを選ばせ、生徒会室に引き込もらせている。ラーメン屋に集まらせている。

 古き良き喫茶店へのノスタルジックな思いから、<ぶろっく>のような空間が出てくる「DOWN TOWN」のような物語は繰り出され続ける。けれども、そこに込められた喫茶店が持っていた役割を、ノスタルジーの中に止めてしまっているのは勿体ないし、つまらない。何より未来がない。社会からも大人たちからも隔絶された、心地よい場所から子供たちを引っ張り出し、引き入れて怯えさせながらも楽しませ成長させる場所としての喫茶店。煙草はさすがに拙くても、良い話とスリルのある経験と、そして何より美人が淹れるモカコーヒーが味わえる喫茶店が今こそ必要だ。そのためにはまず、大人が大人として振る舞えるようになろう。「DOWN TOWN」の物語を通して<ぶろっく>に繰り出すことで。


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