どろろ梵1

 百鬼丸が還ってきた。

 権力に溺れた父親によって全身を48の妖怪に捧げられ、手足も目も鼻も何もない姿で産み落とされながらも死なず作り物の手や足や目や鼻を得て育ち、そのまま長じて1匹また1匹と妖怪を倒しては己が体を取り戻していった男。

 漫画の歴史においても、また手塚治虫の作品においても希にみる凄まじい容姿を持ち、希にみる苛烈な運命を背負った孤独のヒーロー。

 その百鬼丸が、500年の時を超えて現代の日本に還ってきた。

 どういうことだ? 連れだって旅をして来た子供のこそ泥、どろろを置いて荒野へと向かった慚愧の結末。それにて手塚治虫の「どろろ」は完結し、以来40年。いずことも知れぬ場所を永遠に旅立っていたはずの百鬼丸には、還る場所などあるはずがない。

 けれども、百鬼丸は還ってきた。道家大輔という漫画家の作画によって。「どろろ 梵」(秋田書店、514円)なる物語を得て。転生の果てに新たな、それもかつての全身を妖怪に奪われた時にも増して衝撃的な姿を得て。

 どんな姿だ? 端的に言えば勇ましい。そして麗しい。細い肩とそれ以上に細い腰を持ち、分厚いというよりもこんもりと盛り上がった胸板を持って、現代の日本に立ち上がった百鬼丸は、500年経った今も、手足に仕込まれた刀を振るい、一般の人の目には映らない妖怪たちを追って、街から街をさすらっている。

 傍らにどろろはいない。いるはずがない。あの荒野で別れたきりなのか。違う。別れて5年後。百鬼丸はどろろと再会していた。橋の上。すれ違った女の姿をした妖怪を切りふせた時に、百鬼丸は「アニキ!」という声を聞く。

 気が付くと、己が胴体は分断されて虫の息。切りふせたはずの女は何事もなかったかのように傍らに立つ。そして気づく。どろろが妖怪になっていたと。そして決意する。いつかお前を殺しにいくと。それから500年。

 百鬼丸が還って来て、ふたたびの戦いを始めた。己の体を取り戻すために。そしてどろろを討ち果たすために。

 アウトロー然とした風体は、500年前の百鬼丸も、500年後の百鬼丸も同様と言えば同様。ただし、破れかけた着流し1枚で闊歩する500年前とは違って、ジーンズ姿にカットソーとカジュアルながらも、身綺麗にはしている500年後の百鬼丸。なるほど今の見てくれなら、身だしなみは大切だ。

 連れて歩くことになるのもどろろではなく、「梵」と名乗ったひとりの少女。手足を切り取られた猫を抱え、猫の無念に取り憑かれて歩き恨みを晴らそうとしていたところで百鬼丸と出会い、猫の怨念を祓われ覚醒したものの行き場がなく、旅する百鬼丸の後を着けだした。

 さらに1匹の黒い猫。もちろん妖怪。百鬼丸に狙われている48の妖怪のひとつで、再会直後に百鬼丸から切りかかられる。けれども猫は、妖怪の力でかわしながらも百鬼丸にもう争う気はないのだと告げる。もうすぐ死ぬから目はいずれ還ると言う。

 人間と妖怪のバトルという、「どろろ」で主題となっていたことが引き下げられていったい物語はどこへと向かうのか。百鬼丸を屠り500年後へと転生させた妖怪どろろと出会っても、同じような友愛なり和解のドラマが繰り広げられるとしたら、その先がどうなるのか。まるで想像が及ばない。

 いや、違う。「どろろ」は本当に妖怪と百鬼丸との種族を超えた戦いの物語だったのか。むしろ妖怪以上に残酷な人間という存在を浮き彫りにしつつ、そんな存在でも我が父であるという葛藤にさいなまれる百鬼丸の姿をこそ、描こうとしたのが「どろろ」ではなかったのか。

 梵の愛猫の手足を切り刻んで平静としていた少年は、妖怪ではなくただの人間だった。人間の方が妖怪以上に残酷で、残虐で我が儘で悪辣になってしまっている現代を舞台に描かれる道家大輔の「どろろ 梵」が、ありきたりの“妖怪対人間”という図式に止まるはずがない。

 500年前の恨みを引きずり、ひたすらに妖怪を追い続ける百鬼丸。そこに絡む梵であり、夢を見させて惑わす妖怪・枕がえしでありどろろといった存在が、どういった言葉や行動を見せて、百鬼丸の心を動かすのか。果てにひろがる世界では、何が百鬼丸の敵となって立ちふさがるのか。

 手塚治虫のスピリッツを受け継ぎながらも、キャラクターに独特で激しく興味をそそられる設定を持ち込み、クールでスタイリッシュな絵柄を持ち込んで描かれる道家大輔の「どろろ 梵」。今再びの荒野の別離ではなく、誰もが己に納得をつけられる結末によって完結の言葉がページに記される時を今は、ただひたすらに待とう。


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