漁師とドラウグ


 剣士がいて魔法使いがいて魔王がいてドラゴンがいる。城があって迷路があって森があって荒野がある。ロール・プレイング・ゲーム(RPG)やヤング・アダルト向けのファンタジー・ノベルやコミックやアニメーションは、世界中に伝わる民話や神話の要素を巧みに取り入れながら、まったく新しい民話的世界、神話的世界を形作っている。今の子供たちは、RPGをプレイし、ファンタジーノベルやコミック読み、アニメーションを視ながら、民話的・神話的なストーリーを体に染み込ませていく。

 学校などで民話なり神話を教わる機会がなく、また仮にあったとしても、ゲームやアニメなどから強烈な刺激と共にもたらされる民話的・神話的ストーリーこそが、彼らにとっての民話であり神話となって記憶されることになる。語り継ぐ人のなくなった古い民話や神話は衰退し、ゲームやアニメなどから得た民話的・神話的なストーリーが、次の世代にとっての民話や神話となる。

 滅びていく民話や神話を保護するべきなのか。神話などは、国家の成り立ちなり、民族の勃興などと絡めて語られることが多く、国家的な事業として残そうとする動きが出るだろう。しかしそれは、記録として図書館の本の上に留められるだけであって、子供たちの心に記憶として残ることにはならないだろう。ましてや民話などは、時代の変化とともに消えていってしまうような気がする。桃太郎にしても金太郎にしても一寸法師にしても浦島太郎にしても、そこで語られている寓意なり、あるいは英雄的行為なりが、ゲームやアニメなどを上回って面白いとは思えないからだ。

 だが、新しく生まれた神話や民話も、決してスタンダードにはなり得ない。ゲームやアニメが大量製造されていくなかで、新しい神話や民話が次々と発生し、次々と消費され、次々と消えていき、そして新たな神話や民話が生まれてくるのだ。

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 ヨナス・リーの「漁師とドラウグ」(中野善夫訳、国書刊行会、2200円)は、ノルウエーにつたわる民話をベースに、ヨナス・リーが独自のエッセンスを加えて小説化した作品を集めたものだ。そこで語られているのは、首の代わりに海草を乗せた幽霊「ドラウグ」をはじめ、さまざまな妖怪変化が登場する怪奇な話ばかり。北海に面し、冬は雪と氷に閉ざされる極北を舞台にしているだけに、ほとんどの話が海や雪や氷にまつわる、暗く冷たいストーリーとなっている。

 表題作の「漁師とドラウグ」は、「ドラウグ」に魅入られた1人の男が主人公。騙されて買った危険な船で海へと出てしまい、家族や子供たちを波にさらわれ、最後は息子1人を残して自ら命を断ってしまう。収録された短編でももっと長い「スヨーホルメンのヨー」は、奇妙な場所に流れついた主人公が、そこに住む娘に好かれてしまいながらも、ドラウグの船に乗って、自分の国へと戻ってしまう。そこで船を造り始め、結構な評判を得るが、助けられた代わりに7艘に1艘は、船をドラウグに差し出さなければならなくなった。確実に沈む船を良心の呵責と戦いながら作っていった主人公だったが、家族が乗った船もとろも海へとさらわれてしまい、絶望に浸る。

 最後に入っている「あたしだよ」はもっと奇妙な話だ。蝦蟇と呼ばれる醜い女がて、仕事もせずにただ食べてばかりと仲間から悪評を買ったが、なぜか主人にだけは気に入られてしまい、なまけていても、食べ物を貪ってても、しだいに権力を持ってしまう。しかし商売の旅に出る間際になって、主人は蝦蟇の秘密に気付く。一緒に連れていってもらえると思い、着飾って港へやって来た蝦蟇を見捨てて、別の港へと出帆してしまう。

どれも楽しい話ではない。悲惨な運命を語ることで、正直に生きることを学ばせたりするような役割はもっていても、決して楽しませようとする要素はないように思う。最後の「あたしだよ」は、確かに怠け者のくせに威張っていた女がしっぺ返しにあう、痛快な話のはずなのだが、読了後に感じたのはむしろ、蝦蟇をのさばらせるきっかけになった主人の愚鈍さに対する嫌悪であり、蝦蟇をさらし者にして笑うことへの不快さであった。

 民話によって人々が戒められていた時代は確かにあった。しかし今の人々は、ここで語られている話以上の悪意があふれる日常を、不快感を募らせながらも生きている。民話によって人々を糺しきれなくなった時代では、だれが民話など有り難がって読むだろう。それよりもゲームやアニメなどの空想の世界を冒険し、友や恋人を得て、敵を打ち破っていくストーリーによって癒される方を選ぶのではないだろうか。

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難しい話ではないし、活字も大きい「漁師とドラウグ」は、できれば子供たちに読んで欲しい本だ。しかし民話は、今や大人向けの研究書としてしか成立しえなくなっている。出版された意義は大きいが、ほかの幾多の民話と同様、図書館の記録の中に埋もれ、人々の記憶から消え失せていく運命は避けられないと思う。

 怪異譚のエッセンスの1部は、ゲームやコミックやファンタジー・ノベルズやアニメに取り込まれ、残っていくかもしれない。南の海の怪異譚と重なりあって、新しい神話や民話を生み出すことになるかもしれない。それも面白いと思う。ただ自分の生きているうちだけは、記録と化しつつある神話や民話を、少しでも記憶に留めさせるような努力を、微力ながらも重ねていきたい。それが神話や民話によって、自然や生命への畏怖や敬意を教えられた自分の役割だからだ。


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