デストロ246 

 容赦ない。とことん容赦がない。

 高橋慶太郎が「ヨルムンガンド」シリーズの完結に続いて描き始めた「デストロ246 第1巻」(小学館、533円)の容赦のなさは、武器商人が跋扈する世界で、襲ってくる敵を凄腕の傭兵たちがあっさり退け、それでもしつこく追ってくる相手には、爆撃機で爆弾の雨を降り浴びせ、粉々に吹き飛ばす容赦のなさを見せた「ヨルムンガンド」すら上回る。遙かな高みで凌駕する。

 あれで「ヨルムンガンド」には秩序があった。凄腕の傭兵たちであってもココ・ヘクマティアルの私兵であって、彼女の命令なしには動くことはしないし、戦う時も勝手には振る舞わず、彼女の命を守るという最大の目的のために動いていた。無差別な殺人などしなかった。

 空を支配し、世界に秩序をもたらすという願望の叶える過程で、大量の犠牲が出ることを厭わないココの心理は、確かに容赦のない類のものだった。それでもそこには目的があり、プロセスがあって、結果に対する責任を背負う覚悟があった。

 「デストロ246」にはそんな秩序も、躊躇も、思索も、願望も一切ない。敵がいる。殺す。敵らしい。殺す。鬱陶しい奴だ。殺す。容赦などという思考のプロセスなど欠片もなく、微塵も経ずして体が動いて銃を取り、ナイフを握って相手を撃ち、刺し、殺し尽くす。それも少女たちが。

 透野隆一というレストランチェーンを経営する実業家が、南米へと出かけていって、地域を仕切るマフィアのボスが作り上げた2人の少女の殺し屋たちを買い、日本へと連れ帰る。その時点から、2人は隆一の命令によってマフィアのボスや、ボディーガードの殺し屋たちをあっさりと殲滅。元の主人であっても、新しい主人の命令には絶対服従して殺害する容赦なさを見せつける。

 隆一から藍と翆という名を付けられた2人の少女は、戦闘モードになって暴れ回るだけでは崩れる心の均衡を、知識を得ることで保つために学校へを通うことになる。制服を着て東京の路上を歩く2人は、どこから見ても普通の女子高生。ところが、そこに的場伊万里という少女が通りかかったことで、藍と翆の態度が豹変して、その伊万里という少女に瞬間的に襲いかかる。

 衆人環視の街中で、通りすがりの少女にナイフの刃を向ける狂いよう。もっとも、狂っているのは2人だけでなく伊万里という少女も同じ。「文部省教育施設特査」という組織に所属する殺し屋として、武器の密輸や麻薬の密売をするような犯罪者を消して回っている。腕も確かで、藍と翆の襲撃をかわしてその場から逃亡。その並ではない動きから、藍と翆に目を付けられる。あるいは目をかけられたとも。

 その後も伊万里は、姫と呼ばれる万両苺という名の女子高生で、ヤクザの実質的な組長が、取引現場に連れてきていたナイフ使いの市井蓮華という女子高生の殺し屋を相手に、互角の戦いを見せる。自分を狙ってケムリというスナイパーが撃ってきた際にも、半ば助けてくれたような藍を相手に、感謝など見せず戦闘モードを暴走させて、ここでも藍に勝てないまでも負けない戦いぶりを見せる。

 眼鏡をかけたどこかひ弱そうな姫ですら、父親の権勢をかさに着て、金で市井蓮華やもうひとり、佐久良南天という怪力の少女を従えている訳ではない。いわゆるレズビアンな関係もあるし、時には自ら毒を操って、苺が弱いと思いちょっかいを出してきたお嬢さまの彼氏で密売人のケーイチ君を、彼女の前であっさり殺す、闇の世界の住人ぶりを見せつける。容赦とか、憐憫といった概念はそこにまるでない。

 そして、苺が毒を扱う手並みの鮮やかさは、藍と翆が探している、隆一の家族を毒殺した殺し屋の正体かもと想像させる。殺し屋を殺し屋と覆わず、それなのに引きつけてしまう不思議な力を持った蛍田みのりという女刑事を介してて、面識を得た藍と翆、伊万里、姫と連華と南天という少女の殺し屋たちが、3つのグループに分かれて誰が見方ともなく、むしろそれぞれが敵といった関係から、会えば銃を撃ちナイフを刺し拳を振るう容赦のない殺し合いが、これからの物語で繰り広げられることになるのだろう。

 そのバトルの迫力は「ヨルムンガンド」以上。向かう先の見えなさは「ヨルムンガンド」とは違う意味で興味を誘う。東京という身近な舞台で、女子高生という目に見えやすい存在が、あり得ない性格とあり得ない体技であり得ない殺し合いを演じるそのギャップは、「ヨルムンガンド」にはなかった種類の興奮をもたらす。

 誰が生き残るのか。誰も生き残れないのか。楽しみたい。血で血を洗う戦いぶりに狂喜乱舞したい。少女たちの容赦ない本性への恐怖ををじわじわと身に染みいらせながら。いつかその美しい手にかかって、容赦なく葬り去られる時を夢想しながら。


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