文化財報道と新聞記者

 他の農場に迷惑はかけたし消費者への不安も招いた。けれども人間が現時点で鳥インフルエンザに罹って死んだ訳ではないし、病気になった話もない。そもそもそうした恐れは可能性として極めて低い。あったのは鳥インフルエンザ発生の届け出を怠ったという法的な責任であり、それが政治家の贈収賄、警察官の誤認逮捕、医師の怠惰から来る治療ミスといった事柄に比して、どれだけの重さがあるのか未だ曖昧としている。

 そんな状況で、あたかも世間を恐怖のどん底へと叩き込んだ大罪人的な扱いを連日され続ければ、それが本当の大悪人だって参ってしまうものだろう。眼前にいるその当事者がどれだけの”罪”を犯したのか、またそれはどういった心理的物理的な状況で起こったのか、といった背景へと思いを馳せて人間として起こり得る失敗と認めつつ、次への対策を考えるのがより建設的な責め方だっただろう。

 にも関わらず、これと決めたスケープゴートはとことん追いつめさらし上げる、それもより人間性へと踏み込む形で内容をエスカレートさせながら追いつめていくメディアスクラムを前にして、もはや再浮上への道はなくそれどころか進む1歩さえ残っていないと絶望的な気になったとしてもおかしくはない。鳥インフルエンザが発生した農園を経営していた会長とその妻の自殺という、傷ましくも悲しむべき最悪の形でひとつの幕引きが行われた事件。「会長夫妻の自殺」のニュースを関わっていたメディアがどういった気持ちで報じたのかが知りたくて仕方がない。

 悪であった。だから追った。といった勧善懲悪を口にする人がいる可能性もあるにはある。けれども、こと現場で日々接していた人たちに関しては、自分たちの書いたことがその生死に影響をどう与えたかを考えていない訳はない。おそらくは生涯、1つの重たい十字架を意識しながら仕事を続けていくことになるんだろう。

 問題はそうした現場での過去から繰り返され続けている”悲劇”、いわゆるメディアスクラムがもたらす悲しい出来事が未だ消えないということ。他が書くならうちも書く、それもより多くの情報を盛り込んだ形で書かなくては読者はともかく自分たちが我慢できないという、どっぷりとメディアに浸かった偉い人たちが現場での感情の機微を知ってか知らずか、自分たちの望むストーリーにのみ固執しそこにあてはめてしまう状況が、なくならないことが背景にあるのだろう。

 現場で例え悲劇を目の当たりにしても、上に行けば気にするのはさらに上にいる者の意識であり、そーした意識が指し示す他との関係。いずれ悲劇の経験は奥底へと追いやられ、かくして横目平目ばかりが横行し、メディアスクラムが蔓延ることになる。

 中村俊介という朝日新聞学芸部の記者が書いた「文化財報道と新聞記者」(吉川弘文館、1785円)の中に、大分県の聖獄洞移籍をめぐって起こったねつ造疑惑で、疑いをかけられた老学者が潔白を訴え自死を選んだ一件が紹介されている。文化財のねつ造は道義的な問題はあっても、鳥インフルエンザとゆー重大事でもって世間を脅かした今回の一件とはレベルが違うから一緒にすることは難しいし、当の老学者の学問への純粋さを農園経営者の商売への熱情と一緒にすることも出来ないかもしれない。

 けれども当時の空気は、東北で明るみに出た”ゴッドハンド”と呼ばれた研究者による旧石器時代の遺跡のねつ造事件によって、それが事実であってもなくても、遺跡ねつ造の疑惑は国家的な犯罪に違いないと断定されかねないものだった。今ほど調査結果が完璧に保存されることのなかった時期の発掘で、解析の技術も進んでおらず誤謬もあったに違いない。そうした事情をいくら釈明しようとも、いったん張ったレッテルに付和雷同するメディアの状況下でひたすらに”犯罪者”扱いされた結果、起こった悲劇という意味では共通する部分も多くある。

 「文化財報道と新聞記者」で著者はほかに、日本の歴史を”確立”したいというナショナリズムともとれそうな意識が深くメディアの間に浸透して、科学的産業的に世紀の大発明であってもベタでしか触れないかまるで触れない新聞でも、ちょっとした古代史的な発見が1面トップを使って報道される状況の不思議さについて触れている。決してプロフェッショナルではない記者が、そうしたメディア的プレッシャーの下で行政なりの言うなりになって諾々と報じている状況への苦言も呈している。

 なるほど遺跡の凄さを報じようとも喜ばれこそすれ迷惑は誰も被らない。けれどもそうした横並び一線の報道スタンスがやがて少しでも新しい話を掘り出そうとする競争意識へとつながり、跳ね返って研究者へもプレッシャーを与えて東北への遺跡ねつ造という事態を引きおこし、及んで大分での研究者の自殺へとつなっがと見るならば、やはりどこかに問題があったと言えるだろう。その問題は、鳥インフルエンザの事件で起こった経営者夫妻の自殺という傷ましい事件にも共通して存在する。

 こうしした事態は果たしてどうすればなくせるのか。メディアが大人しくなれば良いのか? そうではないが、そうでもある。多分バランスだろう。だったらその塩梅は? それが見えない。だから他に基準を求めよーとして裁判という制度が出て来てしまい、事情の分からない司法によってメディアに多大な負担が背負わされることになる。結果、裁判沙汰になりそうもないより安全な、すなわち叩きやすい対象(今回の場合は農園経営者)へとメディアへの関心は集中し、そして更なる悲劇が起こるという悪循環へと向かってしまう。

 こうした負の連鎖は断ち切れるのか。それには何が必要か。誰もメディアを信じなくなること、信じるに足る情報のみに関心を示すことによって夜郎自大なメディアを追いつめることしかなさそうだが、そうなるためにはまだまだ時間がかかるだろう。あるいはますます酷くなることはあっても変わることなど決してないのかもしれない。かくして悲劇は繰り返され、最前線では意あるジャーナリストの摩耗が進む。未来を明るく拓くべきメディアの転げ落ちるような衰退ぶり。日本の未来はやはり暗いといわざるを得ない。


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