Black Land Fantasia
ブラックランド・ファンタジア

 チェスの世界チャンピオンを相手にコンピュータ「ディープブルー」が勝利した、というニュースがかつて世間を騒がせたことがあって、コンピュータの発達ぶりを広く喧伝する話としてコンピュータメーカのPRにも使われた。なるほど限りない速度で果てしない計算を行えるコンピュータを使えば、チェスの盤面がこの先にどう進むのかを即座に計算出来て不思議はないが、だからといってすべてに勝利できた訳ではないのがポイント。かくも凄まじいコンピュータの計算能力を上回る何かが、人間にもチェスというゲームにも備わっていることがかえって明確になった。

 ニュースが日本に伝わった時に、だったら似たゲームの将棋だったらどうかといった問いも盛んに発せられたが、駒を取ればお終いのチェスと違って取った駒は手駒として盤面へと戻せる将棋に独特のルールが、計算を更に細かく複雑にするためコンピュータでは将棋のチャンピオン、すなわち名人竜王クラスにはとうてい勝てないのではといった結論が囁かれた。それが事実かどうかはコンピュータを相手に竜王名人が戦ったことがなく不明だが、よくある将棋ソフトがプロ棋士を負かしたという話も聞こえて来ないだけに、いかなスーパーコンピューターでも名人竜王クラスにはかなわないと見るのが妥当なようだ。

 だから、という訳では決してないが、定金伸治の新シリーズ「ブラックランド・ファンタジア」(集英社スーパーダッシュ文庫、533円)が物語の重要な要素として取り上げているのは将棋ではなくチェスで、時にコンピュータに負けることがあっても、負けないことの方が多いチェスというゲームの特質を盛り込みながら、謎また謎の果てに来る逆転また逆転のドラマを描いて楽しませてくれる。

 父を知らず母とも死別し救貧院で育ったもののそこを逃げだし、浮浪の身に落ちそうだったところを助けられてチェスを仕込まれ、今は貴族が勝負のためにするチェスを貴族の代わりになって指す「真剣師」として生きている少年・スィンは、母の形見から自分の父親が貴族だったことを知り、行方不明になったらしい父に代わって屋敷で暮らす姉らしい人物を訪ねて行く。そこにいたのは全身を縛り付けられたまま成長したため、手足が動かず成長もほとんどせず、閉じこめられた部屋でただただ圧倒的な思考力を育んだ不思議な少女・ネムだった。

 不遇に見えるネムを助け出し、世話をしていたというメイドの女性を伴い屋敷を出たスィンは、ネムが異常なまでに観察力の優れた人間で、すべてを理解しはるか先まで想像できる思考力を持っていることを知る。真剣師として臨むチェスの試合にネムを連れていったスィンは、どこか気弱なところがあって攻め続けることが必須の真剣師になりきれず、窮地に陥っていたところを、圧倒的な計算力で局面を終盤まで読み切ることのできるネムによって救われる。

 ところがスィンとネムに逆転を喰らった真剣師がなぜか両手を切断されて切り刻まれる事件が起こった所から、物語はミステリアスな様相を帯びていく。続いてスィンと対戦した真剣師の娘も襲われる羽目になり、さらにはスィンが世話になっていたカフェのマスターも殺害され、遂にはスィンとネムにもその魔手が及んでいく行方不明になっていた2人の父親らしき人物の暗躍もあって謎を帯びていく展開に、2人を助けようとするシャーロック・ホームズも絡んで物語はクライマックスへと向かっていく。

 チェスならではの引き分けのルールを人間のキャラクター性にも、物語の展開にも反映させていく作者の道具遣いの巧さにひとつ感心。意外さを持ったエンディングにも驚かされ、なおかつまだまだ先へと続けられそうな予感にこれから一体、どんな”敵”が2人の前に現れて来るのかと期待も膨らむ。何より記憶力の権化ともいえるネムの、大人びて冷徹なよーでいてその実寂しがりのところもあるキャラクターが読んでいて楽しい。

 スィンのパトロンをしている貴族の妹との、スィンを取り合って「フー」「フー」と子猫よろしく喧嘩する場面の面白さといったら。勝負所では冷酷で、日常的には多感な少女の合わせ鏡のような性格が出ていて、その人間らしさ可愛らしさに心から惹かれる。両手に抱えておけるサイズというのはなかなかに魅力的で、小説が人気になればキャラクターグッズとして「等身大ネム」といったものが登場する可能性もありそうだ。

 意外性にあふれるエンディングの果てにたどりついた奇妙なスィンとネムの関係はどうなるのか。一皮むけて成長したスィンに次に訪れるピンチがあるとしたらどういったものになるのか等々、先にいろいろ期待したくなる。先があるのか現時点では未定だが、あれば是非に生い立ちの不幸を忘れさせる幸せをスィンとネムの2人に与えてやって欲しいもの。あるいははるばる東京の地へと2人を至らせ将棋を指させてそこにネムの超絶的な能力と、名人クラスの将棋指しの卓越した能力がぶつかり合う様を読みたいもの。シャーロック・ホームズも渡日させて日本の名探偵と競わせれば、面白さも倍に膨らむ。期待したい。


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