麻布怪談

 人の情けというものが、まるで通わなくなってしまった最近の世の中。かけられた情けを信用すれば、じつは詐欺で貢がされ、身ぐるみ剥がされた挙げ句に命まで奪われる。反対に、心底からの誠意で情けをかけても、疑われイヤな思いをして、もう二度とかけるもんかと目をつぶる。こうして人情は、世の中からますます薄くなっていく。

 どうにも先の見えない社会では、誰もが自分のことに精一杯。他人に情けをかけ過ぎて、自分が不幸になっては意味がない。限りある人生にムダを作っているヒマはない。そんな計算が働いても仕方のない雰囲気だ。

 こうなると、頼れるのは人ならぬ存在だけ。幽霊や妖怪といったやつらなら、寿命とかに関係なしに、尽くしてくれるんじゃないかと、そんな期待をしてみたくなる。

 恩を受ければ、子々孫々まで見守り、盛り立て、尽くしぬく。怨みを抱けば、それこそ末代まで祟ってのける。さすがに祟られては死んでしまうから困るけれど、相手にそれほどまでに想われていることの裏返しでもあったりする。

 「四谷怪談」と並ぶ有名な怪談の「牡丹灯籠」で、幽霊のお露さんに惚れぬかれた果てに、墓場へと連れて行かれた新三郎も、内心は悪い気持ちではなかったかもしれないし、はた目にもちょっぴりうらやましい。

 「四谷怪談」や歌舞伎といった、江戸の文化を題材にした小説をよく書いている小説家の小林恭二による「麻布怪談」(文藝春秋社、1905円)も、妖怪や幽霊に深い情けをかけられるうらやましさを感じさせてくれる物語だ。

 大阪で塾を開いている儒学者の息子に生まれた真原善四郎は、若いころに幼なじみを奥さんにしたものの、出産の時に子も母も死んでしまって、心にぽっかりと穴があいてしまった。

 仕事をするでもなく、親に続いて儒学を極めるでもなく、40歳近くまで漫然と生きていた善四郎は、やがて中国の古典を学ぶ儒学とは対立している、日本の古典や文化を尊ぶ国学にのめりこんでいく。

 本場の江戸で国学を学びたいと考えたものの、許されそうにはないと見て、儒学の先生につくからと言ってまず江戸に出て、その足で国学の先生について勉強を始めたものの、どこか逃げ道を探していた人生。講義に飽き、遊びほうけているうちに嘘が親にばれ、仕送りをとめられてしまった。

 住むところをなくし、今なら六本木に近い賑やかな土地でも、当時は寺と畑と林しかなかった麻布にあったボロ家に、管理人という名目で転がり込んだところに、ゆずり葉という名の女がやってきて、そのまま善四郎の世話を焼き始める。

 彼女の正体は狐。それも歳を経た妖狐だったけれど、善四郎を取り殺そうとするでもなしに、いっしょに酒を飲み、夜の寝床もともにする。そこに新たな女の影。今度は武家のお姫さまで、ゆずり葉が来ない日を狙って善四郎を訪ねてきては、体をささげてそのまま深い関係になっていく。

 こちらの正体は幽霊。といっても、善四郎に怨みを抱いて化けて出た訳ではない。むしろ善四郎のことが大好きなようで、会えば夜を徹して体を重ねる繰り返し。そのたびに善四郎の体はどんどんと弱って、死ぬ寸前までいってしまう。

 彼女はやっぱり、善四郎を取り殺そうとしていたのか。ゆずり葉の追求に初と名乗った少女は、自分の身の上を明かし、思いをとげられそうな寸前で奪われてしまった命への未練を話して、善四郎への情愛は本当のものだと訴える。

 この世に残した未練と、見初めた善四郎への情愛が起こした初の行動。それが、結果として善四郎の命を奪いかけてしまった皮肉に、願っても容れられない想いの哀しさが浮かんでくる。そんな迷惑な想いであっても、受け入れようとする善四郎の優しさというものも同時に浮かんで、打算ばかりが横行するこの現代に、ひとすじの涼風を呼び込む。

 ゆずり葉の方にも、善四郎の面倒を見る理由があって、それが善四郎のはるか御先祖様の遺徳だと分かって、狐が持っている情愛の強さや深さも見えてくる。

 人の情よりも幽霊の情に妖怪の情。得られるものなら現れて欲しいけれど、本当に夜中にドアを叩いて幽霊の美少女、狐耳の美女が現れたら、すんなり迎え入れられるのか? それこそ人の情けが出る番だ。かければ何かが帰ってくる。自分にも。末代までも。

 歳を重ねてからの身の処し方、というものも見せてくれる「麻布怪談」。これから先の世の中が、明るさにあふれているなんて思えない。かといって、若いころから道をみつけてバリバリやれるとも限らない。迷った挙げ句に失敗して、取り返しがつかなくなるかもと、不安に脚をすくめている人もいたりする。

 歳をとってからでは遅いのか。確かにそういった面もあるにはある。けれども「麻布怪談」の善四郎は、ゆずり葉や初の情だけでなく、陰からささえていた親の情にも助けられ、40近くでつかんだチャンスをものにして、国学という場でそれなりの存在へとなっていった。そんな善四郎の生き様を見て、自分には何があるのかを見つめ直し、彼にかけられたさまざまな情に、自分にもかけられる情があるのかもと考えてみるのも悪くない。

 それが、この不安でいっぱいの世の中を、誰もが道を見失わないで歩いていくための方法なのだから。


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