アレグリアとは仕事はできない

 上司の顔色をうかがい、同僚の態度を見習って騒がず、逆らわないで仕事をこなす会社生活。教師の言うことに従い、同級生の落ち着きに横並びで慌てず、粛々と勉学に励む学校生活。

 これではつまらない。これでは楽しくないと怒り、憤ったところですぐには何も変わらない。むしろ排除されるだけ。だから誰も動かず、みっともないからと波風も立てないで、淡々を日々を過ごしていく。蕭々と日常が進んでいく。でも。

 それで良いのか? 良くはない。けれども、拳を振り上げ憤るような真似はしない。状況に呑まれ、流されるだけ。それがいちばん楽だからだ。

 ひとり、超然と流れに逆らうのには、半端じゃないくらいのパワーがいる。だから逆らわない。漫然と懸命に怠惰する。それが、都会での暮らし方。社会での身の処し方。でも。

 それで生きていると言えるのか? 本当に生きていると自覚できるのか? 行動しない滑稽さを露わにし、きっかけさえあれば変われるかも知れない可能性を指し示す。それを物いわぬ1台のコピー機がやってのけた物語が、津村記久子の「アレグリアとは仕事はできない」(筑摩書房、1400円)だ。

 名をアレグリアという機械は、新しく入った複合機。きっと機能も最新のはずなのに、なぜか止まる。コピーのために連続して動かしていると、途中でスタンバイの状態に入ってしまう。

 1分動かすと2分止まる。そんな機械があっていいのか? そう誰もが思うけれども、アレグリアは止まるのだ。おまけに用紙が全部使えない。12メートルも残っているのに、もう紙がないとだだをこねる。

 あまりの扱いづらさに、ひとり文句をいう事務職のミノベ。けれども、周囲は誰もアレグリアに対する不満をいいださない。導入した担当者への気兼ねなのか。いっても詮無いことだと感じているのか。

 少し休憩するぐらいで騒ぐ方が変なのかもしれない。のんびりといこう。ゆっくりとしよう。気ぜわしさに押されないでいれば、この状況も楽しめるというものだ。

 そういった、ゆとりを前向きに捕らえる気持ちから、誰もが文句をいわないようにしているのだったら、ミノベもひとり騒ぎはしなかっただろう。

 けれども違う。きっと誰もが不満に思っている。本当はそうではないはずの機械が、そんな状態になっていることに憤っている。

 それなのに、誰もそのことを糺そうとはしない。波風を立てない。流れに逆らわない。それが1番だと誰もが考え遠巻きにしていることへの苛立ちが、ミノベを苛み心を乱させる。

 周囲の顔色をうかがい、自分だけを大事にして生きる気楽さと虚しさが、たった1台のコピー機の“反乱”によって浮かび上がる。もっと立ち止まって考えろと呼びかけてくる。

 とはいえ、そうはいかないのがこの社会。だからミノベの先輩の事務員のように、平穏そうな表情で、すべてを受け入れたふりをして、いきなり爆発するような事態が起こるのだ。何件も。何十件も。

 席を老婆にゆずる大学生と、席取りに勝利したサラリーマンと、少女に痴漢する男に憤るOLと、男に触られ戸惑う少女。

 同じ電車に乗り合わせた4人の4態が、交錯する様を4方向から描いた「地下鉄の叙事詩」。これもまた、流れに逆らう大変さと、それでも動く大切さを感じさせてくれる。

 いろいろな人がいて、いろいろなことを考えながらも、決して重なり合わない都会の喧噪。その奇妙さを浮き上がらせつつ、たったひとこと、たったひとつの行いによって何かが変わる、かもしれない可能性が見えてくる。

 とはいえその勇気、そのひとことがなかなか出ないこの社会。アレグリアのようなきっかけが、やはり必要なのだろう。


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