THE END OF ARCADIA
ジ・エンド・オブ・アルカディア

 スコアラー。シューティングゲームの全ての面を制覇し、そしてあらゆる可能性を潰して、最も高い得点を出そうと挑む人たちが、1980年代の半ばごろからゲームセンターに集うようになり、攻略方法を探し出し、スコアを競い合って盛り上がっていた。

 誰に誉められる訳でもないし、ましてや賞金が出て、それで食べていける訳でもない。目の前にあるシューティングゲームを、自分たちへの挑戦と感じ、立ちふさがる壁と感じるかのように攻略へと勤しみ、最高のスコアを得られる道を探してコインを入れ続け、スティックと握り続け、ボタンを叩き続けた。

 どこまでもストイック。そして飽くなき探求心を持つスコアラーとは、どんな性格の持ち主なのか。どんな才能を秘めているのか。そんな関心を埋めてくれそうな本が、「東京ヘッド」という、対戦格闘ゲームに勤しむ男たちの熱い日々に迫った作品で知られる大塚ギチが、ネットで連載し、文庫として自費出版した「THE END OF ARCADIA」(アンダーセル、1200円)だ。

 登場するのは「プライベート・ゲーム・クラブ・エンド」という、同じスコア・ネームを使ってシューティングゲームの攻略に挑んだ、4人の男たち。大検資格を早々と取り、特許で入った金で海外を転々としていた経験を持つエンドウを代表に、彼らはゲームセンターに集まり、新しく登場するシューティングゲームに挑んでは、スコアを次々と塗り替えていった。

 ゲームやゲームセンターといったものを“悪”と見なし、“悪所”と見なす空気は、シューティングゲームのスコアラーたちを、どこか社会の埒外へと置いていた。それでも報われないからといって、シューティングゲームをすぐに見放すような種族では、スコアラーはなかった。なかったはずだった。

 けれども時が過ぎ、環境が変わり自身も成長と加齢を経て、いつしかシューティングゲームへの情熱が途切れていった、そんな現在。就職したり、結婚したりして、ただの呑み仲間になってしまっていた「エンド」の面々のうち、役場に就職して淡々とした日々を繰り返していた主人公に、かつての熱情が甦る。

 リーダーだったエンドウの訃報と、その彼が耳にして、激しく憤ったというある情報をきっかけにして、もう1度あの熱さを感じたいと思い、主人公は750万点という、かつて自らが出した「ダライアス」というゲームのハイスコアを目指そうと、行動に出る。それが、「THE END OF ARCADIA」のメーンストーリーだ。

 40歳代へとたどり着いて、見えてきた人生の出口へと、まっしぐらに進んでいく、または落ちていくだけなんだと“解って”しまった時、人はそれでいいのだと楽に流れたくなる気持と、そうはなりたくないという若いままの気持がぶつかり合い、せめぎ合って悩みや懊悩に苦しむ。

 鬱々とした果てにどちらも選ばず、そこで退場となってしまう人もいたりする。何万人にも及ぶ自殺者の何割かは、そうやって退いていった人たちだ。主人公は安楽さに逃げず、現在からの退場も選ばない。ネット上に飛び交っていた、900万点というあり得ない点数を出すために、四半世紀も前に生まれ、とっくに廃れた「ダライアス」の筐体を探し出し、部品を取り換えてプレイできるようにする。

 一方で主人公は、かつての反射神経と運動神経と体力を取り戻そうと、走ったりルービックキューブを回したりして、挑戦の日にそなえる。一切の運動から逃げ、鍛錬から遠ざかっていたぶよぶよの体が、見る間に引き締まって挑戦に相応しい体へと変わっていく、その様に、人は目的が見えた時に、こうも強く厳しくなれるのかと思わされる。

 もっとも、誰もが同じようにいくとは限らない。何かにのめり込み、極めた体験を持つ人だけが、かつてを取り戻しに行こうと行動に移せる強さを発揮できるのかもしれない。

 それは、ゲームであれ他のあらゆる事柄であれ、今を懸命に打ち込んでおけば、熱さを滾らせておけば、将来にきっと得られるものがある、帰れる場所を見つけてそこへと戻っていけるのだという警鐘でもある。安易に今を過ごすなかれ。怠惰に溺れることなかれ。

 再挑戦で使われる「ダライアス」の筐体は、あの巨大な津波で海水を被ってしまったもの。それを運んできて、部品を探し出し好感して修理をするナンバという「エンド」のメンバーには、仙台に子連れの女性が同居人としていたりする。もう1人のオトヤという仲間にも家族がいて、生活のほとんどをそちらに傾けている。

 死んだエンドをのぞけば、主人公だけが未だ独身で、役場勤めの平凡な日々を送っていた。その周囲に、リアルな社会を背負い、確かな生活基盤を持ったかつての仲間たち再結集した時に、主人公の内にいったいどんな感情が浮かんだのだろう。取り残されてしまった寂しさか。社会に参画していない焦燥か。

 「ダライアス」のハイスコアへの挑戦が、唐突に終わってしまった時、主人公が走りながら号泣したのは、死んだエンドウへの惜別の悲しみからなのか、沈黙していた長い時間への懺悔なのか、もう未来はないんだという絶望なのか。

 それをどう感じ取るかで、読んだ人のその後の道も変わってきそう。絶望と思うよりは懺悔と感じ、ならばと改めることによって、開ける今が、未来がきっとある。直せば使えるものならば、直して再挑戦すればいい。ゲームでも。他のあらゆる事柄でも。人生は短いようで、案外に短くはないのだから。

 1980年代の末期から90年代初頭にかけての、シューティングが全盛だったゲームセンターの雰囲気を、今に甦らせてくれる小説でもある「THE END OF ARCADIA」。その後、いわゆる対戦格闘ゲームが出てくると、ゲームセンターは誰かと戦いひたすらに勝利を重ねることが目的の場所となっていく。

 シューティングゲームでひたすらに全面クリアから、さらに最大ポイント獲得のための探求をする人は減り、店の方もワンコインで最終まで粘られては、商売が成り立たないため、シューティングゲームを置こうとしなくなる。メーカーはメーカーで、マニアックな層を狙ってより難易度の高い物を作ろうとして、初心者の参入を妨げ売上を落としていく。

 そんな悪循環は20年近く経った今なお続いていて、新作のシューティングゲームがゲームセンターで、大きな人気になっているという話はあまり聞こえて来ない。それでも、だからこそシューティングゲームについて語る意味がある。ひたすらの探求を何の見返りもなく求める行為の尊さを、感じ取ることで、勝者と敗者しかいないこの現在を、新しい価値観の中に組み替えてていける。

 再起動せよ。生き返れ。「THE END OF ARCADIA」を読んで、熱くたぎっていたかつての記憶をたぐり寄せ、このどうしようもない今を変える力にせよ。険しい未来を永久に生き抜く糧とせよ。


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