アクアノート・クロニクル

 海に生まれて水の中で一生を過ごす魚にもしも知性があったら、水の存在しない空間がどこまでも続いている地上なり、空なりを見ていったい何を思うだろう。同様に、温暖化で沈んだといった状況ではなく、はじめから海の中にあるシェルターで生まれ育った人間たちにとって、地上や空はどんな世界だと思われているのだろう。

 中村学による「アクアノート・クロニクル」(ファミ通文庫、600円)に登場する人類は、まさにそんな地上も空も知らない境遇に生まれ、育って死んでいく存在として描かれている。温暖化によって地上が海に沈んだといったものではなく、最初からすべてが海に覆われた世界が舞台。誰もが海底に置かれたシェルターにこもって暮らし、海中を移動して交易している。

 主人公の少年ウル・ナンムは、エルアザル帝国のシェルターを本拠地にして、運送屋として社長で少女のメリル、操縦やメカニックを受け持つシバヤスといっしょに働いている。その日も運送の仕事から帰る途中、ウルは海底で疲れたか何かしてぐったりとしていた少女を拾う。連れ帰って事情を聞くと、どうやら南方の王家のお姫さまで、故国が戦乱にあって帝国に支援を求めに来たらしい。

 アビシャイという名のその少女を追って、ウルが海底に落としていたIDカードを拾い居場所を調べて追い付いて来たカセンという女がいた。そしてウルを見て憤怒する。彼女が愛しく想っていながら、1週間前に自ら起こしたテロの最中に命を落としたトゥーカッターという男が持っていた眼と不思議な力を、ウルが受け継いでいたからだった。

 ケセンはウルが、トゥーカッターを殺して眼や力を奪い取ったと信じ、どこに逃げても絶対に追いつめ殺すという呪いをウルにかけて追い回す。ウルはケセンをとりあえずしのぎ、メリルらと共にアビーを帝国に連れて行こうとシェルターを出た海中で、怪物が現れ戦いになり、ウルだけがアヴィーをを追う北方旅団という船団に捕らえられる。

 災難続き。なおかつ捕らえられた北方旅団こそがケセンの居場所で、彼女に気づかれないかと怯えながら逃げ出すチャンスをうかがっていたら、北方旅団が雇っていた傭兵たちが反旗を翻そうとしたりと事態が錯綜。果てにウルは、傭兵たちに人質としてさらわれ、やがて自分に気づいたケセンとの決着を付けることになって。かつて自分が暮らしていたシェルターへと向かう。

 メリルという幼なじみの少女に好かれ、怪物から助けたといって北方旅団に所属する眼鏡っ娘で貴族の娘から巨乳で迫られ、その北方旅団に傭兵として参加していたこれまた巨乳の美女から好ましく思われてと、大モテのウルに嫉妬と羨望の感情が募る。

 ケセンだけは命を削ってウルを仇と追い回すけれど、誤解がそうした行動を引き起こし、その命をも脅かそうとしている点がどこかやりきれない。もっと早く気づかせてあげられなかったのか。そうすれば彼女までもが命を投げ出さずに済んだのに。そんな思いが対話と理解の必要性を説く。

 海の中なのに光が届き作物を育てられる環境や、いったいどこから調達しているか分からないけれどシェルター内には酸素があって、大勢の人間が生きていて文明を育み国家や宗教を育んで領土を奪い合う戦争を、地上と同じようにやっている。常識からすれば不思議な世界。そのことに疑問を抱かず暮らしている人たちにとって、酸素だけが広がっている空間はいったいどう認識されているのだろう。空を見たら何を感じるのだろう。

 物語の中では「地球」という言葉が憧れなり夢なりの存在として示唆されている。舞台となっている世界がどこで、どういう成り立ちで生まれ、そしてこれからどうなるのかといった疑問を解き明かす鍵となりそうだ。

 あとはウルがいったい誰を本命にしているのかにも興味が募る。メリルは甲斐甲斐しいけど姉として弟に接しているようだし、自分の思いのためなら仲間だって無関係の誰かだって銃で撃つ乱暴者。恋人にするのは少し怖い。かといってアヴィーは助けてもらったお礼といった感じの接し方。だいたい身分が違いすぎる。北方旅団にいた、貴族で眼鏡っ娘のシャクティや、傭兵のヴォーレンランドはウルに本気っぽいけど、それもなかなか大変そう。ウルは誰を選ぶのか。続く展開での回答を待ちたい。


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