青猫屋

 歌には多分、力がある。歌詞と曲の、そのどちらがより強い力を持っているのかは解らないが、どちらが欠けても力は大きく減殺されるに違いない。あるいは歌の歌詞の言葉1つ、曲の音程1度変わっただけでも、力は最初の歌が持っていたものと、大きく変わってしまうに違いない。

 歌の力は人を喜ばせることもあれば、人を傷つけることもある。意識的に喜ばせたり傷つけるために作られた歌もあれば、無意識のうちに喜ばせたり傷つけてしまう歌もある。喜ばせたり喜ばされるのなら嬉しいが、傷つけたり傷つけられるのはたまらない。人を傷つける歌を消す、人を傷つけているある歌詞ある節回しを取り替えて歌を無力化する。歌が人々の生活にとけ込んだ街、歌の力が信じられている街で、そんな仕事を代々家業としているのが、城戸光子の「青猫屋」(新潮社、1400円)の主人公、廉二郎が営む「青猫屋」だ。

 普段は表の家業である人形師として、縁日で売る狐の素焼きを黙々と作り続けている廉二郎の「青猫屋」に、年老いてなお矍鑠とした老人が訪ねて来る。名をツバ老という。ツバ老は廉二郎に48年前に開かれた歌の試合の話をし、試合の時に約束された48年後の判定を依頼する。方やツバ老生涯の最高傑作〈ムサ小間〉、こなた裏山の贋稲荷に住む老婆お時の今に残らぬ謎の歌。とりあえず廉二郎は、お時の歌が今どうなっているのかを捜し始め、行く先々で街に暮らす人々に出会い、新たな謎に直面する。

 お時の歌かと思われた渡し守の愛唱歌が実は別の女性によって棄てられた歌だったという事実、完結していると思われていた〈ムサ小間〉に消された後編があったという事実、メモパッドに降臨する死んだ父親、歌によって育てられ生きているかのように振る舞う野菜たち……。不思議が詰まった街で、廉二郎は48年前の歌の試合の決着に、1歩づつ近づいていく。

 そんな廉二郎をよそに、街には何やら不穏な輩が動き出す。自分はヤギだと自称するヤギ、全身を刺に覆われた暗緑色の皮膚を持つ花折介、橋の下でうごめく蝙蝠魚、跳梁する1万匹の灰色蟻、黒い妹を白銀の母親を持つ薄ぼんやりとした農夫紋平……。何やら曰く因縁を持った輩がこぞって動きだした背景は? 48年の時を経て、歌の試合が決着しようとするその時に、すべての謎が明かとなり、街は阿鼻叫喚に包まれる。

 第8回日本ファンタジーノベル大賞で優秀賞を受賞した「青猫屋」は、既成の概念を吹き飛ばす新しい「ファンタジー」の創造を目指した賞から出ただけあって、いわゆる「騎士と魔法とお姫さま」のファンタジーとは大きく異なる、奇妙な味わいを持った小説だった。まず舞台。歌の力を人々が信じ、歌の力に支配されている街という設定が嬉しい。そして歌の悪しき力、すなわち〈歌の瘤〉を始末する「青猫屋」という職業の存在や、始末されなかった〈歌の瘤〉によって生み出された妖しい者どもの存在が、不思議な街に一段の異化効果を与えている。現実ではない架空の世界を創造したという意味で、この「青猫屋」はまさしく1個の「ファンタジー」と言えるだろう。

 また、奇妙な世界の奇妙な人々をただ創造したというだけでなく、そこに48年前の歌の試合の決着というドラマを設け、ドラマの完成に向かって様々なキャラクターとガジェットを駆使している点も、小説を読み進む上での楽しみとなっている。廉二郎が探索の途中で出会う人々の何と奇妙なことか。分厚いメニューに少しの麺類(しかしまともな料理が決して出さない)と数多くのデザートを載せて客を待つ食堂の主人、その食堂ですべてのデザートを征服しようと頑張る女学生、夫婦で歌の研究に明け暮れ野菜の栽培に尽力する朝比奈夫妻。ほかにもたくさんの人々が示す物事へのこだわりが、奇妙な世界と奇妙な人々の存在に、ある種の説得力を与えている。

 気にかかったのはラスト近く、朝比奈氏がとうとうと語る〈ムサ小間〉の解釈の場面が、ラストシーンに近づき急く読者の心に、壁のように立ちはだかってしまう部分だ。多分意味はあるのだろうし、1つ1つの解釈に込められたこじつけの心、遊びの心は尊ばれてしかるべきものだと思う。けれどもその後に示される衝撃的なラストシーンの前には、名作と讃えられる〈ムサ小間〉前編の解釈も、駄作と謗られる〈ムサ小間〉”幻の”後編の解釈も、どうでも良いようなことに感じられてしまう。あるいは歌の力、言葉の力というものを、朝比奈氏の子細に及ぶ〈ムサ小間〉の解釈に絡めて、語ってみたかったのかもしれない。

 残念なのはこの小説が、文字による小説として書かれている以上、もっぱら歌詞の面からしか歌の力に接することができない点で、将来において小説が文字と音声によってマルチに表現されるようになった時、完全な〈ムサ小間〉を読みかつ聴くことができ、その力のすべてを読者として感じることができるだろう。果たしてその力のほどは? お時さんの幻の歌に勝っているか? ともかくも今は、頭の中で勝手に響き始めたメロディーに歌詞を乗せ、これらの歌の力の一端を、うっすらと感じるだけに止めておこう。


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