ア○ス

 たった1人、直しても直しても崩れて山になってしまう本と、回収場所まで出かけるのすら億劫で捨てられなかったポリ袋、そして洗えず微妙な異臭を漂わせる衣服に埋もれた部屋で、ゴム止めされるほど枚数の行かない年賀状を10秒で眺めつつ、11月くらいに取られた正月番組を見て、口では下らないと口では言いつつも、実は結構楽しんでしまっている自分に気付いて、苦い笑いを浮かべる。

 それからガバリと布団から出て、帰省もレジャーにも縁遠い都会人たちの為に店を開けている近所のスーパーマーケットへと出向き、安売りされている伊達巻を買って帰って部屋でむしゃむしゃとかじりながら、資源ムダ使い度120%の元旦づけ新聞の特集ページに辟易しつつ、やがて降り始めた夜のとばりの中、バーボンをショットグラスで2口ほどあおり、再び布団へと潜り込んで微睡みへと身を投じる。そんな状況、そんな正月に実に相応しい本を読みながら。しりあがり寿さんの「ア○ス」(ソフトマジック、1600円)を胸に抱えながら。

 「さびしさ」にもだえ苦しむ「脳ミソ」のためと言い訳をして「トモダチ探し」の旅に出た少女が、コンビニで「トモダチ」になって欲しい人を見つけ、「そのシャンプーには毒が入っています」と親切に教えてあげて無視され笑われ遁走する。同窓会へと出かけてなぜか土砂降りの中で行われていたパーティー会場で、自分の知らない思い出を語り合い、自分には見えないアルバムを見せ合う彼らが崩れていく様を目にしてひとり雨中で授業を受ける。

 「トモダチ横丁」へと出かけて45分だけの「トモダチ」を得て、”センパイ”を自称するその少女の目玉を潰そうとして時間切れで逃げられる。「トモダチ」を作るには明るくしなくてはダメと母親に言われたことを思い出して、街をスキップで走り抜け、父親に言われた一度走り出したら止まってはいけない、止まったら死ぬと言われたことも思い出してとにかく走り続け、いつの間にか真っ暗になった街をやっぱり走り続ける。

 そんな話が、そんな「トモダチ」探しに躍起になる少女の話が、「弥次喜多 in DEEP」よりも「方舟」よりもさらにシンプルな線で、だからこそ浮かび上がる現実の空虚さを如実に現す線で描かれている。そして、進んでいるようで逃げている、頑張っているようで無理してる少女の、決して成就しない行為の狂おしさが読む人の気を滅入らす。そこまでじゃないけれど、それに近いかもしれない状況にある自分を重ね合わせて、切実さに身悶えさせる。

 「トモダチ」作りのセミナーへと出かけて、そこで見た上辺だけの誉め言葉でも涙してしまう醜悪な巨人の喜びと悲しみの入り交じった感情への共感。誕生パーティーに招かれて、毒の料理が出されても断れず帰れず食べたフリをしてひとりずっと居残ってしまう心理。よく分かる。分かるけれども絶対に同情なんてできない。むしろ反発する。自己嫌悪と近親憎悪の感情に苛まれ、激しく嘔吐したくなる。こうはなりたくない、という感情に仮面を被りたくなる。

 けれども。エンディングで示される、少女に与えられたひとつの出口の、それは果たして幸せなものだったのか。過剰さ故にもてあまし気味だった自意識を切り刻まれ、現実におもねって生きる術を与えられたた少女は果たして前と同じ少女だったと言えるのか? 疎まれても、空回りばかり繰り返していても、自分であること。自分自身であることの一点においては絶対的に正義だった少女の姿に、自己嫌悪と近親憎悪が生む反発を乗り越え、同情とは違う共感の念がわき起こってくる。

 不条理なようでいてその実、身に覚えのある人間にとって、これほどまでに理にかなった展開はないシチュエーション。ズレているように見えるけれども、そんなズレの中に身を置いている人間にとって、どこまでも真っ直ぐなシチュエーションのエピソードばかりが詰まった、醜くも清冽で重苦しくも純粋な連作集。虚構と欺瞞に満ちた現代に生きるすべての人に、反発の中から真実の自分を見出させるはず。来年の正月もやっぱり、午後に起き、正月番組に苦笑し、冷えた弁当をかき込みながら、酒をあおっているのだろう。けれどもそれを「苦しい」とは思っても、「さびしい」とはもう思わない、と今は思いたい。

 真っ当なサラリーマン生活を経て、専業のマンガ家となって大活躍を続けている作者に、これほどまでに”リアル”な世界が描けるのか、その頭をのぞきその思考の一端に触れて、その発想の根元にある絶望なり、願望なりを探ってみたい気にさせられる。ラクガキのような線で描かれているにも関わらず、主人公の少女がしっかりと美しく見えてしまい、取り繕う人たちの笑顔がしっかりと虚ろに見えてしまう絵の凄さも相変わらず。「方舟」「徘徊老人ドン・キホーテ」と続く「しりあがり寿イヤー」、なお継続中。


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