赤朽葉家の伝説

 2000年代も半ばを過ぎ、2010年に迫ろうかとしている今、明治は記憶の範疇から出て歴史と化した。明治生まれの人間を見渡して、周囲に発見することは極めて難しい現実が、記憶よりも記録としての明治の意味合いを強く示す。

 大正もすでに過去を超えて歴史になりかかっている。関東大震災を知る人の果たしてどれだけ存命なのだろう。デモクラシーにモダンの大正。その美しい記憶を持って逝けた人は幸せだったに違いない。

 昭和ですら一部は歴史になりかかっている。太平洋戦争の終結と前後して誕生した人たちが、還暦を迎えて経済や政治の第一線から退くようになって来た今、太平洋戦争へと至る日本の、道を踏み外して転げ落ちる様を記憶として留めている人は、さらに歳を重ねつつ記憶ごと鬼籍へと入る時に向かい進んでいる。日本が再び道を外さないために欠かせぬ記憶が、どんどんと失われたこの先に、待つ暗闇を生きる現代の人たちを哀しむ。

 戦後ですらもはや記憶を外れ始めている。2010年に二十歳となる少年や少女たちはバブル景気を知らない。何より昭和という元号に生を得ていない。2010年に三十路へと踏みいる若者は、昭和こそ知れ学生紛争やオイルショックやロッキード事件といった、戦後の昭和を彩った事柄を記憶していない。不惑となる中堅は、日本の反映を象徴する東京オリンピックや新幹線の開通や昭仁皇太子のご成婚を経験していない。まさに「昭和は遠くなりにけり」。驚くなかれ、2010年に大学へと通う青年の大半は、「昭和」を体に刻んでいないのだ。

 だからこそ、そんな「昭和」を知らない若い世代が好んで手に取る作家のひとり、桜庭一樹が終戦間際の一件から筆を起こし、2000年代に突入してしばらく年月を積み上げた未来までをも範囲に含み、その時間に生を得て、空気を吸い、見聞を重ねた人々を主人公にして描いた「赤朽葉家の伝説」(東京創元社、1700円)が持つ役割は大きい。

 暴走族のリーダーを経て漫画家になり、ヒット作を残して急逝した赤朽葉毛鞠という女性の突拍子もないキャラクター性は、これまでに桜庭一樹が紡いできた物語に現れる戦う女性のバリエーションだと、理解し受け入れられやすい。そんあ毛鞠を通して平成に生きる若い人たちを引き込んでは、太平洋戦争終結時から現代へと連なる日本の経済の発展や、社会の紆余曲折烏に文化の変容、そして移ろう時代の空気をそれぞれに浴びて起こった日本人の気質の変遷を、物語から辿らせ学ばせることが出来る。

 その娘・万葉は古(いにしえ)より山の民として里の民より畏怖される一族の子として産まれながらも、太平洋戦勝の終結間際に人の里へと置き去りにされ、その地で営まれていた赤朽葉製鉄所で働く若い夫婦に拾われ、子として育てられた。後に続いて夫婦の本当の息子や娘たちが生まれても、万葉は父母から疎まれもせずむしろ慕われる中で、弟や妹たちの面倒を見ながら長じていった。

 そんな彼女に大いなる転機が訪れる。以前に見かけた製鉄所を営む赤朽葉家のタツという奥方から誘われ、タツの子で赤朽葉の跡取り息子の嫁として迎え入れられた。山の民が残した拾われっ子で目鼻立ちことすっきりとして美人ながらも、色は黒く文字も読み書きできない万葉を、赤朽葉家の人々は疎みもしないで受け入れ、彼女に世継ぎの期待を寄せる。

 夜ごとの睦みの甲斐あって、子を授かった万葉は長男の泪を産むが、その出産の時に山から受け継いだ血の成せる力なのか、万葉は泪が若くして世を去ることを予知夢から知ってしまう。1人では足りないと、長女の毛鞠を生み鞄に孤独というタツが付けた奇妙な名を持つ子を産んで育てる万葉だったが、毛鞠以下を産む際にはしっかりと目をつぶって、子の最後を先に視ることはしなかった。

 代わりに夫の父親や夫の死を視たり、製鉄所で働く男で、ふとしたきっかけで万葉と知り合い言葉を交わすようになった穂積豊寿が、事故で片方の眼を失う未来を視たりもした。夫の父の死を視たことで家が傾くのを防いだものの、豊寿の片側の失明には何の助けにもならなかった万葉の予知。それでも底知れない力を持った存在として赤朽葉家での地位を固め、タツが死んでからは異能の力から来る存在感を発揮して、産業構造の変遷に揺れる赤朽葉を支えていく。

 そんな万葉とは違い、娘の毛鞠は1966年、丙午の生まれが作用したのか若い頃から暴れん坊で、中学の頃までには女番長として不良を仕切り、程なくして山陰一帯を傘下におさめる暴走族の女族長として君臨する。けれども中学時代に仲の良かった美少女が、暴走族のマスコットを辞め堅気の世界に戻りキャリアアップに専心する傍らで、罪を犯しそれを償う間もなく他界したショックから、暴走族のヘッドを降り、脚を洗って家に籠もってそして何故か漫画家となり、レディース時代の経験を描いた作品で雑誌を支える超売れっ子漫画に上り詰める。

 長男の泪の死もあって、是が非でも跡取りを必要とした赤朽葉家の薦めもあって、忙しい画業の合間に夫を迎え娘も出産。それが「赤朽葉家の伝説」の第3部で主人公となる瞳子だが、山の民として生まれ拾われ育ち嫁いだ経歴を持つ祖母の万葉に及ばず、いわんや暴走族のリーダーから超売れっ子漫画家に転進した母の毛鞠には遠く及ばない、平凡な少女時代を送り、長じても何かに夢中になることもなく日々を旧家の娘として安穏に過ごしていた。

 そこに起こった祖母・万葉の死。そして万葉が残した言葉の真意を探るため、瞳子は祖母に関する記憶を持った人々を訪ね、祖母の振る舞いに関わった人々に話を聞いて回って歩く。そこからたどり着いて判明したとある出来事は、戦後の日本というものを象徴した重厚長大な産業が終焉を迎え、日本の未来に希望を抱き、自分たちの手で未来を支えるんだと意気込んだ日本人の美質の衰亡を現していて、昭和という時代の空気に触れたことのない若い層に対し、しきたりや風習が残っていた時代が次第に遠ざかり、熱気と侠気、羨望と希望に溢れていた時代が訪れ更に過ぎ去っていった様を、強く想像させることになる。

 目的を抱けず希望も持てない時代に生きる今の人たちが、描かれた活気と熱気に溢れ、ひたすら前を向いて進んで行けた時代をどう思うのか。興味が尽きない。

 田舎の旧家に嫁として入り、そこに生まれ育って死んだ女たちの生き様を描いた物語としては、同じく西日本の旧家を舞台にした岩井志麻子の「べっぴんぢごく」(新潮社、500円)」が直ぐに浮かぶ。昭和をリアルタイムで生きた経験、人生の中で得た愛憎にまみれた経験の差というものが、濃密さと激しさという形となって「べっぴんぢごく」には込められていて、読む人たちの心を激しくこすり上げる。

 夫を自分の意志とは無関係の所で決められ、それに違和感を覚えず諾々と従う万葉や毛鞠といった女たちの、淡泊というべきか、それとも高邁というべき生き方を見るにつけ、己の妄執にも近い想いを存分に発揮しては、混乱の時代を生き抜き時には混乱の渦となった女たちを描いった「べっぴんぢごく」の凄みが浮かび上がってくる。

 もっとも、昭和を記録でしか知らない若い読者、すなわちティーン向け小説の描き手として登場してきた桜庭一樹を好んで読む人たちに限って言えば、突拍子もない赤朽葉毛鞠のキャラクター性や、最後に繰り広げられる謎解きの様子から「赤朽葉家の伝説」に好みの軍配を上げるかもしれない。

 本当の“女”を描いているのはどちらか? 女性はどちらの小説のどちらの女の生き様を憧憬として好むのか? 同族として嫌悪するのか? 少女たちの代弁者的な存在として桜庭一樹を位置づけ、敬愛している女子には是非に「べっぴんぢごく」を手に取って欲しいもの。その凄まじい毒気にあてられ、恋に情に激しく生きようとすることになるかもしれないが。


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