86 −エイティシックス−

 “ABCD包囲網”が繰り出された辺りから後、大日本帝国が中国大陸や東南アジア、そして南洋へと領土的野心を見せ始めたのをひとつのきっかけに、日本人やアメリカ合衆国に暮らしている日系人への懸念、あるいは不信といったものがアメリカ政府の中に育まれていった。そして日中戦争が進み、仏領インドシナ進出もあって警戒感を強めたアメリカ合衆国によって、日系人の資産凍結などが行われたけれど、まだ差別とか弾圧といった感じではなかった。

 それが大日本帝国海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発すると、一挙にアメリカにおける日系人への敵対意識は膨らんで、日系人は収容所へと送り込まれて仕事も財産も放り出さざるを得なかった。そのことに異論をとなえたアメリカ人もいただろうけれど、大半はそれが当然と感じて隣人だった日系人が収容所へ行くことに積極的な反対はしなかった。

 太平洋戦争が終わって後、すぐではなくてもアメリカ人たちはだんだんと自分たちがしでかしたことに気付き、国を挙げて謝罪し補償も行った。そうやってアメリカ合衆国に取り戻されたはずの人種とか、出身国とかによって分け隔てして差別するような事態がもう起こらない、自由で平等な社会が今、だんだんと失われようとしている。

 第45代アメリカ合衆国大統領にドナルド・トランプトランプが就任するなり繰り出した大統領令は、特定の国をあげつらって入国を禁じ、そして特定の宗教を信奉する人たちへの不信感を煽っている。今はまだ、反対する人の声も多いけれども日系人への不信が芽生えてから10年を待たずして、強制収容所を作って追いやった過去を思い出すなら、数年を経ずしてアメリカで新たな差別と弾圧、そして排斥差別が起こっても不思議はないい。

 それはもちろんアメリカに限った話ではない。世界のどの国でも起こりえること。もちろん日本でも。そう、人は簡単に差別主義者へと転ぶ。自分と違うものを区別して排除して平気になる。アメリカ合衆国で日系人は瞬く間に敵国人とされ、差別されて隔離された。日本でももやもやとした違和感が、震災という事態の中で間を置かず排撃というベクトルを持って立ちあがった。

 そういう過去を振り返ると、同じ共和国の国民だった有色人種が10年を待たずして人権を剥奪され、豚と蔑まれ、絶望的な戦場の最前線へと送り込まれて次々に死んで行く世界が舞台となった物語も、決して絵空事ではないと思えてくる。第23回電撃小説大賞の大賞を受賞した安里アサトによる「86 −エイティシックス−」(アスキー・メディアワークス、630円)という物語。9年前、隣国のギアーデ帝国によって開発された無人兵器に襲撃されたサンマグノリア共和国では、有色人種の人権を奪って収容所へと送り徴用しては最前線へと連れて行き、貧弱な兵器に乗せて帝国の頑強な兵器の相手をさせた。

 当然に負ける。そして死ぬ。けれども戦死と入った報じ方はされない。なぜなら共和国で安閑とした生活を営む白系種の人たちは、最前線で戦っているのは無人機だと思っているから。あるいはそう思うことにされているから。内実は人が乗っている。けれどもそれは人権のない有色種。だから人など乗っていない無人機として認識され、破壊されても乗っていた兵士が戦死したという事実も存在されない。

 なんという非道。それでも反乱を起こすことなく有色種たちは家族のため、仲間のために戦場で戦って命を散らしていった。9年が経って親の世代も青年の世代もすでに死んで、今は徴用された少年少女たちが最前線でジャガーノートと呼ばれる兵器に乗り込み、押し寄せる帝国の無人兵器と戦っている。そうした少年少女たちが生きようと死のうと、共和国の白系種人たちは憐憫はおろか何の感情も抱かない。むしろ侮蔑と嘲笑すら向けているか。

 とはいえ、そんな兵士であってもいなければすぐに国が攻められるとあって、共和国では遠方から指揮官が、意識を共有する特殊通信で指示をして戦わせている。大抵は見放され勝手に死ねと言われるが如く。そんな中でひとり、レーナという元貴族らしい少女は前線の少年少女と共感したいと願っていた。

 そんな設定を持って始まる物語。自分たちを差別し戦場に送り込んで間接的に虐殺している白系に同意は出来ない最前線の少年少女たちだったけれど、決して見捨てようとせず、積極的に接触を深めようとしているレーナの執心に、最初は何かの同情なり愛玩と感じて反発していたものの、その熱意と謝意を感じ取るようになって、同意はせずとも理解は見せるようになる。

 そんな中で激化する戦い。帝国の無人兵器のとてつもない攻勢。けれども後方は気づかない。知ろうとしない。最前線で生き延びている歴戦の勇士であっても、存命によって差別が露見するのを恐れるあまりに苛酷な偵察任務へと送り出して命を散らせようとする。

 悲劇への慟哭すら通り越して暴政への憤りが浮かぶ展開。今の社会が決してそうならないとは限らないだけに、照らして身が振るえてくる。もうひとつ、敵の無人兵器が言われているように残り数年で老朽化して活動を停止することにはならず、驚くべき“進化”によってさらなる戦いを続けようとしていると分かって戦慄が浮かぶ。AIの悲劇的な将来を伺うSFとしても、人類が過ちを繰り返して悲劇を呼ぶ政治的、社会的な要素を持ったフィクションとしても、興味をそそられる設定だ。

 もはや絶体絶命の状況。けれども銃後では迫る危機から目を向けるようにして差別だけが増大し、白系種たちの多くは安閑とした暮らしの中に怠惰な暮らしを改めようとはしない。あまりに苛烈なシチュエーションで、リーナは、そして最前線でアンダーテイカーと呼ばれて仲間たちの死を記録し続ける少年、シンは生き延びるこできるのか?

 前線も後方も見えない未来の先、描かれる結末に感慨し、落涙し、そして決意しよう、誰かのために戦い続けることを。


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