十年後の僕らはまだ物語の終わりを知らない

 書くことと読むことは切り離せないもので、書いている人たちはそれを誰かに読んでもらいたくて書いていて、そして読んでいる人たちはもっと読ませて欲しいと思いながら読んでいる。1対1の関係という訳ではなく、大勢の書いている人たちが綴って放ち、それを大勢の読んでいる人たちが受け止めて読み、返してまた大勢の書いている人たちが綴るような循環の中で、言葉は幸福な生を歩んで広がっていく。

 けれども、時として循環は滞る。あるいは切断される。どれだけ書くことが好きでもそれが素直に読まれるとは限らないし、読んで感じた気持ちが喜びとは逆のものであることも起こりえる。そんな時に生まれるネガティブな感情が、書く人の筆を迷わせ、読む人の手を言葉から遠ざける。

 綴られる言葉があって、初めて読むという行為に至るのだから、読む人に責任の比重を傾けたくなりそうだけれど、それが誰かに読んでもらいたくて書いているものなら、書く人に責任から逃げられては、読む人も困ってしまう。そこは対等に、対峙して対話をするように言葉を放ち受ける関係が続くよう、どちらも工夫する必要がある。そんな気がする。

 それでもやはり難しい書くことと読むことの対峙と、けれどもとても素晴らしい書く人と読む人の関わりが、尼野ゆたかによる「十年後の僕らはまだ物語の終わりを知らない」(富士見L文庫、620円)という物語に綴られている。読めば、何かを書いている人たちにとっては、書くことへの不安をえぐられつつ、それでも自信を持って書き続けることで得られる喜びがあることを知れる。

 そして、読む人たちにとっても、書く人たちによって書かれたものを真摯に受け止め、書かれたことについて真剣に考えて、その意味を感じ取り思いを探っていく行為をおろそかにはできないと思わせる。そんな物語になっている

 中学校で教師をしながら図書館司書もしている篠島孝平という青年がいて、図書館便りを切り盛りしていて、そこに小此木香耶という人気の女性作家が出した新刊「ファランブルクの魔女」の書評を掲載したら大炎上してしまった。別にけなした訳ではなく、むしろ褒めた方で、デビュー時からの雰囲気が新刊で変わったことに対して世間で批判の嵐が吹き荒れているのに反意を示し、変わろうとしていることへの肯定を書き綴っていた。

 それがネットで叩かれ大炎上した。中学校で出している図書館だよりがどうしてネットで批判されたかというと、ちょうどその号から教頭がいらぬお節介を焼き、図書館だよりをPDFにしてネットで公開し始めた。それが世間の好奇と悪意にさらされて、激しい非難を浴びてしまった。

 哀れ孝平は職員会議で問題視され、図書館便りもそのまま廃止されるかと思ったら、孝平による書評を小此木香耶自身が読んで中学校に接触を図ってきた。書評を書いた人に会ってみたい。そう言って孝平の前に現れた小此木香耶は評判通りの美人で、教頭によって図書館だよりが廃止させられそうになっていたことも知って、自分がリニューアルに協力したいと言い出した。

 そして寄せられたのが新作の小説。デビュー時から大評判で、新作「ファランブルクの魔女」の売れ行きも毀誉褒貶ありながら好評という小此木香耶の新作なら、出版社だってのどから手が欲しいと思われるだろう。それを中学校の図書館だよりに本人名義ではなく孝平の名前でもない匿名で掲載し始めた。どうしてそこまで? 孝平による書評が嬉しかったのか? 作家の意外な心境への想像が浮かぶ。

 もっとも、そうあっさりとした事情でもなかったことが、物語の進展とももに見えてくる。図書館だよりで始まった小此木香耶の連載には元となるエピソードがあった。それは、孝平が小此木香耶に語って聞かせた中学時代の思い出話だった。転校が多かった孝平には、今赴任している中学校に通っていた時期あって、当時も発行されていた図書館だよりに連載されていた小説に興味を持って、読めなかった分を求めて図書館に行ったことがあった。

 そこで出会ったのが、図書委員をしていた佳子という先輩で、読みたがる孝平から小説の感想を聞きたがる。それもそのはず、書いていたのがその佳子先輩で、驚きつつも孝平は、感動はするけれどもちょっとわからない部分もあるその小説の、ぼんやりとした印象を話して喜ばれてしまい、しばらく図書館に通って佳子先輩と話すようになる。

 そこに割り込むように現れたのが、佳子とは同級の芽衣という先輩で、孝平の佳子が図書館だよりに書いた小説に対する感想に、あれやこれや難癖をつけてくる。もっと読まれるようにすればと言えば、それは佳子の作風ではないといった具合。どうして芽衣はそこまで佳子を守ろうとするのか? 2人はどういう関係なのか? そこから進んでいって明らかになる2人の役割。だから芽衣は佳子の小説に強いこだわりを見せたのかと分かる。

 そんな、図書館を舞台にした男子高校生と女子高校生たちの物語が孝平の口から語られ、小此木香耶の手によって小説の形になって紡がれていく。それを読むうちに孝平は気付いてしまう。小此木香耶が誰なのかに。

 10年前に起こった心のすれ違い。そして悲劇。感じただろう激しい痛みを乗り越えて、残された思いを言葉として紡いでいったことが、10年を経て離ればなれになっていた人たちを結びつけた。贖罪とも言えそうなその行為を、どうして自分がという疚しさを抱えがながらも続けられたのは、書かなくてはいけない、書いて思いを言葉にして多くに読んで欲しいという書く人としての意志が、そこにあったからなのかもしれない。書きたい人は書くことから逃れられないものなのだ。

 すべてが分かってから小此木香耶が書き、作風が変わったと言われ、そして孝平が書評した「ファランブルクの魔女」という小説のあらすじを読み返すと、小此木香耶がその小説に何を込めようとしたのかが分かる。最初、孝平は挑戦して作風を変えようとしたのだと感じた。後に小此木香耶が誰なのかを知って、作風が変わったのも当然だと知っただろう。

 そうして書かれた物語自体に、作家の内なる心情が強く込められていたのだということも見えてきた。心をかきむしるように、思いを吐き出すように綴った物語を世間はそうとは読まなかった。純粋に物語としての面白さを求めているなら、裏事情を知ることなど必要ないとは言える。ただ、書く人がそこに何かを込めたのなら、誰かに知って欲しいという望みはきっとあるだろう。背景を知った孝平は何を思ったか? 改めて「ファランブルクの魔女」への感想を聞いてみたい。

 書くことしかできなかった小此木香耶が、吐き出すように、絞り出すようにして書いた「ファランブルクの魔女」の次にいったい何を書くのだろう。もう書けなくなっていたのかもしれないところで得た出会い、知った思いから、どうしても書かなくてはいけないという意志を改めて受け継いだことで、書くことを続けてくれると思いたい。

 そんな彼女の再生の物語を読んだ人たちが、何を思うのかも少し知りたい。この物語を読んだ後では、書かれたものに対して読む人として、安易な言葉は吐けないといった感情も浮かぶけれど、そこは自由に考えることが、読むという行為を枠に収めず、そして書くという行為への真剣さをもたらして、書かれるものの広がりを生むと思うから。


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