■ 再審請求に関する救済お願い書 (5) もどる

判決文における争点:(3)IYの辞去時刻について

判決文は検察側の主張をそのまま踏襲して、IYの私方よりの(辞去)時刻を0時15分と仮定(敢えてそう申し上げます)して、その直前に青酸化合物入りのカプセルを飲まされ、同20分頃帰宅、22、3分頃発病したものである、と断定しております。

然しそれを容認するためには先ず、以下に申し上げるような幾つかの矛盾を、万人を納得させ得るような、合理的な方法でこれを解明して頂かなければならないのではないかと存じます。

 当夜IYの家には時刻を確認できるような何らの媒体もなかった筈にもかかわらず、何を基準にそんなにも正確な時刻の特定が出来たのか。
(イ)唯一それが出来た柱時計は修理のため外に出してあって自宅にはなかった。
(ロ)その他の置時計、腕時計の類なども存在しなかった。
(ハ)テレビはありましたけれども、家人は皆就寝中でスイッチは切ってあった。

 唯一正しい辞去時刻
ここで検察・警察のでっち上げた辞去時刻と対比させるため、当事者である私の唯一正しい時刻経過を述べさせて頂きたいと存じます。IYとTさんの2人が、八日市場より私の家に帰り着いたのは、
(イ)昭和38年8月25日の午後11時30分頃。Tさんが八日市場での交渉経過を掻い摘んで報告の後「ただいま申し上げたような訳で、明日また出向かなければなりませんので、ご都合が宜しかったら、明日また一日おクルマを拝借できませんでしょうか」と私の承諾を得てから「じゃあそういうことで、私はこれで」と腰を上げたのが概ね、
(ロ)11時40分頃。
そしてIYもまたそれにつられたような形で、それまで組んでいた胡坐の膝を解いて、両手のひらを座卓の上について、両膝は畳についたままで尻を上げた形のまま「俺いま乗るもんがねえし、このまま家までクルマ貸しては貰えねえべか」と申しますので「ああ良かんべ、でも明日はAたちが店へ行かねばなんねえんだから、直接行っちまっては駄目だぞ」と念を押して、IYが「うん分かった。じゃこのまま借りてくわ」とそのまま土間へ下り立ったものであり、そのあと先ほど申し上げたような短い会話があって、そのまま直ぐに出発したものであり、Tさんの辞去後わずか数分にしか過ぎず、遅くともせいぜい、
(ハ)11時45分以上にはなっていなかった筈です。

 消し去られた30分
私のとり調べにあたった、市*警部補以下の県警の面々は、その当初、INの証言として「IYは12時一寸前に帰宅して、若干の話しの後、一たん床に入り一眠りしてから飛び起きた」ということを基本線に、私から殺人の自白を引き出そうと躍起になっていたわけですが、その余りのでっち上げぶりや矛盾点を私から指摘されるたびに、少しずつそれを修正しながら、ついにINの証言から、IYとの会話部分や当夜病院での診療録に記載されていたような「数分乃至十数分の後・・・」と言ったような部分などを、最終的には「ろくすっぽ喋べる間も無かった」か「座敷へ上がるより早く」とかの証言に変えさせてしまったのであります。

こうした工作は、他の証人達にも行われていたことは明白であり、いろいろと硬軟両用の詐術の限りを尽くしていたであろうことは、想像に難くないところであり、私をして「嗚呼、こんなことならあの時、あんな下手な反駁などしなければ良かったものを」と未だに後悔の臍を噛みしめている最大の痛恨事だったのであります。

 3人の証人
検察、警察は自らでっち上げた26日0時15分辞去説を、あたかも真正なものであるかのように補強しようとして、銚子よりの夜遊び帰りの若者3人を証人として登場させて参りました。

この若者達は帰宅の途中、私の家の前にクルマの駐車しているのを目撃し、その時刻が26日の0時15分頃であったというのです。そして御丁寧にもクルマの何処かを一撫でしながら「おっ箱屋めまたクルマを替えたな」などと話しながら通り過ぎたのである、などと言い出す始末です。然しながら他の人は兎も角、唯一正しい時刻を知っている私には、余りのでっち上げぶりに鼻白む以外の何ものでもありませんでした。

但しそうした事情を知らない人に取りましては、唯そう言っただけでは判断の致しようもないと存じますので、以下どちらの言い分が正しいのかの資料を呈しまして、公正な御判断を賜りたいと存じます。

ここに彼らが最終的に飲んでいたという銚子の「文ちゃん」という屋号の飲み屋から、夫々彼らの自宅へ帰り着くまでの、自転車走行の所要時間を実測した、鹿島警察署主任大**吉作成にかかわる一枚の実況見分調書がございます。

因みに私は事件以来すでに29年も経っておりますので、私サイドの重要な点のほかは殆ど記憶の底に沈んでしまっておりますため、以下に申し上げますような時刻や時間経過等は、すべて、当時現役で朝日新聞の水戸支局に在職中でありました、足立東さんという方の著書「状況証拠」(副題・波崎事件無実の証明)の中から参照させて頂いたものです。

この方は現役を退きましてから、波崎事件の判決そのものに疑問を感じまして、積極的に膨大な資料を精読して下さいまして、それをまとめたものが右の著書だったわけです。その内容の精緻さは、今まで表面にでたこともなかった最高裁内部の機関紙の記事からの関係記事の抜粋にまで及んでおり、唯一点、IYの家から辞去時刻の件だけは、私の主張と若干の齟齬が見られるものの、その他に関する色々につきましては、唯々敬服のほかはございませんでした。

そのような訳で、これから申し上げます、いくつかのかなりの部分におきましても、参考にさせて頂いておりますことを御諒承頂きたいと存じます。

さてその検分調書によりますと、先に申し上げました銚子の飲み屋から夫々の自宅までの、途中におけるいくつかのポイント毎に、自転車走行による実測の所要時間が秒単位で記録されております。

それによりますと、先ず私の家の前までが、(イ)18分5秒、IYの家の前までが、(ロ)27分30秒、かかったことが録取されております。

本来なら、私の反論はこの二点だけで充分なのですが、ついでに、その後の各自宅までの所要時間も申し上げて見ますと、一番近い酒***郎宅までが、(ハ)28分45秒、(ニ)石*修宅までが、32分ジャスト、(ホ)八*茂宅までが、33分10秒であったことが、記録されております。

以上により私の家の前からIYの家の前までの所要時間は(ロ)マイナス(イ)ということで、それが、(ヘ)9分25秒であることが明らかです。

この数字を、検察側のいう0時15分退去説、並びにIYの家までのクルマによる所要実測時間の3分数10秒等と照らし合わせてみると、そのどちらが合理的であり、そのどちらが矛盾を内蔵しているか明らかになると存じます。

▽a ここで又その検証に入るまでに1つの伏線を述べさせて頂きたいと存じます。それはこの時間帯には、IYと私以外に如何なる第三者も存在していなかったことを証明する手段として、国道沿いの民家二千数百軒を対象に「当夜私の家にはIYが立ち寄った事実はございません」という証言を集め、それを証拠として裁判所に提出しようと計っていた事実。

▽b 右と同じ趣旨で、これら3人の証人にも「自宅へ帰り着くまでの途中で、クルマに出会ったり、後ろから追い越されたりした事実はありません」とわざわざ証言をさせていた事実のあることです。

これはこの時間帯の中で、IYと接触できたのは私だけであり、他のいかなる人物とも接触した可能性は、皆無であることを立証しようとしたもので、それはその後における取調べの際に「いいか手前え、こいつらも途中誰れとも出逢ってねえっていうし、これを見ろ、手前えの家から(I)Yん家までの街道二千何百軒分の証明書だ。これでもう手前えも、途中どこかへ寄ったかも知んねえなんて言い逃れは絶対に出来ねえからな」などと口汚く罵りながら、机の上を掌でバンバン叩きながら脅しをかけてきたことからも明らかと存じます。

私もつい「わざわざそんなものを集めたところで、こんな騒ぎの中で誰れだって係わり合いになるのは嫌でしょうし、まして本当にそんな事実があったら尚更じゃないですか」と反論をしてしまい「この野郎ああ言えばこう言うとんでもねえ野郎だ。そんなことあ手前に言われなくとも百も承知の上だ。それでも念には念を入れるのが警察なんだ。生意気なことぬかすんじゃねえ。馬鹿野郎」などと、すっかり思わぬ藪を突ついてしまったような一幕もございました。

いずれに致しましても、彼らのそうした設定が自らの墓穴を掘る結果になりましたことは、皮肉といえば皮肉とも申せましょうが、と言ったところで、それが裁判で無視されてしまいましたのでは何の役にも立ちませんけれども。

(ト)正しい辞去時刻の検証 ▽a 先ず前提として、それを検察側の主張する0時15分と仮定してみます。
▽b そして、発病時刻は、既成事実として0時22、3分頃と置いてみます。
▽c 証人達が私の家の前でクルマを見掛け、そのまま誰れにも追い越されずIYの家の前に達した時刻は、0時15分プラス走行所要時間の9分25秒の0時24分25秒とならざるを得ません計算で、これではIYの発病は自宅ではなく、途中のどこかの道路上ということになってしまいます。
▽d 唯一可能性としては、IYが証人達を追い越すためには、どこか迂回路を利用するよりほかはありませんが、この道路は狭隘な未舗装の砂利道ながら、二級国道124号線の一本道であり、私の家から一たん右の逆方向へ出てからの遠回りの迂回路こそあれ、残念ながら近道の迂回路はありませんでした。

以上に明らかな通り、検察側が主張し、判決文が認めた0時15分辞去説は、所詮SFの世界でしか説明できないでっち上げと指弾されても、致し方ないのではなかろうかと存じます。

 右の矛盾をクリアできる私の仮説
一審では、これらの3人をIYの辞去時刻特定の証人として採用しておりましたが、高裁では何故かこのうちの一人である石*修を証人から外しております。

その理由については別に触れてはおりませんでしたが、多分この証人だけが、他の2人とは時刻の点で余りかけ離れ過ぎていたことが原因であろうかと存じます。

然し私の立てた仮説に従えば、実はこの外された石*修の証言の方こそ最も正しい時刻だったという皮肉な結果になっているような気がしてなりません。この証人は他の2人がいずれも銚子の飲み屋での最終時刻を12時前後だっとしているのに対して、彼はそれを、

(イ)「10時半か11時頃だったかと思う」と述べているからであります。然しそれは私の家までの所要時間18分なにがしを加えましても、私の家の時点で11時18分頃にしかなりません。それではまだIY達は八日市場から帰り着いておりませんので、当然のことながら、そこで私のクルマを目撃できる筈がありません。そこでそれが出来るぎりぎりの線で飲み屋を出た時刻を、

(ロ)11時15分頃とさせて頂きますと、私の家の前での時刻は、

(ハ)11時33分頃となり、この時刻はIY達が私の家に帰着して数分後ということとなる訳ですので、そこでクルマを目撃することは出来ますし、更にそこからIYの家の前までの所要時間を加えますと、そこでの時刻は、

(ニ)11時42、3分頃となる計算になります。これならば、私の主張する通り、IYが私の家を辞去したのを、11時45分頃としても、それからクルマの走行時間の3分なにがしを加算して、自宅前路上での時刻は、せいぜい、

(ホ)11時50分頃であり、この時刻は既に3人の証人達がIYの家の前を通り過ぎてしまっている時刻ですので、ここで初めて「自宅へ帰り着くまでどんなクルマにも追い越されなかった」との証言も無理なくクリア出来ますし、終始主張し続けて参りました、IYの11時45分辞去説も間接的ながら信用して頂けるのではないかと存じます。

 以上にも明らかとなりました通り、検察側は初期における夫婦の会話等を供述したINの調書を徐々に自分たちに都合の良い方向に誘導したり、或いは破棄してしまったり、新しく調書を取り直したりと疑わせるような、数々の不正な手段を弄していたらしいことは、以下に申し上げるような、IM(注:冨山さんの内妻)に対する数々の目に余る工作によって明らかと存じます。


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