超空客室乗務員 ストラトスッチー

      〜 ヒロインは春風に乗って 〜      石垣一期

「ほらヲジーちゃんてば。飛行機飛んでっちゃうよ。はやくはやくぅ」
 朝の空港ロビーに、ぱたぱたと走る足音とともに、びーだまをぶちまけたようなコロコロ声が響く。それに悠々と歩きながら応じるのは、なんかもう水分の抜けきった男の声である。
「これつばさ、まだ出発まで時間はあるじゃろうが。そんなに走っては危なかろ」
「まったくもーどこ行ってたの? いくら早く着きすぎたからってふらふらしてさ。おかげで約束の『空飛ぶミニどら』買う時間なくなっちゃったよ」
 つばさ、と呼ばれた少女は、不満げに頬をふくらます。
「まあそう慌てるでないわ。もう荷物は預けてあるんじゃから、わしらを置いてっちまう心配はないわい」
「へ? そうゆーもんなの?」
「そうじゃ。たとえばわしらが変な宗教にでも凝っておって、とらわれの教祖様の開放を要求すべくテロ行為なぞを企んで、荷物に爆弾を忍ばせて預けたとしたらどうじゃ。もしそれがつばさだったら、そんな荷物といっしょに飛行機に乗るかな?」
「そりゃ乗るわけないよ」
「そうじゃろう。荷物だけ積んであって持主がいないてえことは、それほど怪しいものなんじゃ。かといって一度つみ込んだ荷物を全部降ろして、その中からわしらの分だけ探し回るのも大変じゃから、飛行機を待たせてでも航空会社の連中が探しにくるわ。あるいは爆弾じゃなく飛行中に作動するようにした強力な電波源でもいい。飛行機の電子装置が狂えば一発じゃろ」
「ヲ、ヲジーちゃんてば、こーゆーとこでそーゆー危ない話はやめてってば」
 つばさはポニーテールを振り回しておどおどと周りを見回す。案の定、そこそこ人出があるロビーの中で、二人の周囲にいる一般客は、彼女らにまるで爆弾魔でも見るような目つきを投げかけている。
「ふん。いわゆる爆弾発言てやつじゃな。なに、気にするでない。やましい所があるでなし。ほれ『ミニどら』じゃ」
 ヲジーは後ろ手に提げていた紙袋から、空港土産のミニサイズどら焼き12個入りの箱を出す。
「えっ、なんだ買ってあったんだ。わーい、ありがとっ」
 現金なつばさはたちまち笑顔になり、どら焼きの封を切って3個一度に口に放り込む。その拍子に、ロビーの端にこれから参加するツアーを主催している旅行会社の旗を発見した。
「はっ、ホヒーひゃん。あへひゃないの?」
 頬張ったままでしゃべるのは(いやそれ以前に歩きながらどら焼きを食べる事からして)行儀がよくないが、それでも言いたいことはヲジーに通じた。
「おお、そうじゃあれじゃ。しかし『スーパー・スッチー御一行様』なんて書かれると、まるでわしらがスッチーみたいじゃの。ふぉふぉふぉ」

 ヲジーちゃん、本名は深山護(みやままもる)八十八歳は嬉々としてそちらに爪先を向ける。
 このヲジーはもと大日本帝国海軍の技術士官で、戦後はとある重機械メーカーの研究所に勤めていた。しかしそれもとっくの昔に引退して、現在はヒーロー、ヒロインものの特撮TV番組を中心に攻める老年ヲタクとして余生をおくっている。
 ちなみにつばさはこのヲジーちゃんの直系の孫だが、嫁にいった娘の娘なので姓が違って、白菊つばさと言う実にお嬢様風の名前である。その実態もまたお嬢様かどうかは別として、ともかく十五歳の女子高生だ。
 ヲジーは妻を亡くしてから娘の家に移った。その家はそもそも設計図をヲジーが自らひいて、娘に新居として贈ったのである。だからそこに住む権利があると言うわけでもあるまいが、とにかくつばさと同じ家に同居しているのだ。そんなこともあって、つばさは孫の中では一番よくなついている。

 ツアーの旗を見ていかにも楽しげなヲジーちゃんに対して、つばさはちょっと顔をしかめている。
「でもさでもさ、スーパー・スッチーって確か子供向けの特撮スーパーヒロイン番組だよね。で、このツアーってそのファンの集いでしょ。でもなんかこの集りってヘンだよ。なんかあの辺だけ空気がどよ〜んてしてるよ」
「そうかの? みんな若い青少年たちじゃないかね」
「そりゃヲジーちゃんから見たら誰だって子供かしんないけど……」
 つばさはヲジーが肩からたすきにかけたカメラの紐をつかんでひきとめ、その場を動かない。なぜならそのツアーの旗の下にたむろしているのは、歳の頃なら二十か三十、いちばん若いのでも十五より下ではなさそうな野郎共ばかりなのだ。
「ほれ、あっちには正真正銘の子供もおるよ。それはええから放さんかい。息苦しい」
 ヲジーが指差す方向には、集団から少し離れて小学生くらいの男の子とその親らしいのが何組か、こころなしか脅えたような感じで寄添っている。
 やっと襟を放されたヲジーは「や、や、」と会釈しながら、ツアーの集団の中でも最も空気の比重が高そうなあたりに加わる。本人はまるで平気なようだが、はっきりいってこの状況に、薄くなった白髪頭に歳のせいで背丈も縮んできたヲジーの存在は、これ以上ないくらいに浮きまくっている。
 つばさはこんなに空気が重いと、飛行機も飛びたてないんじゃないかと心配しつつ、しぶしぶヲジーの後について行った。
「もしかして、まわりの人にはあたしがスーパー・スッチーのファンで、ヲジーちゃんはあたしの付添いって思われちゃってんのかな。ほんとはまるっきし逆なんだけどな。んうう〜」
 まあ確かにスッチーのファンの集いであることは承知の上でつばさもついてきたのだし、「少しはヲタクな人たちもいるかなー」と言う程度は彼女とて覚悟していないでもなかった。それでもなお夏の沖縄2泊3日で中一日は自由行動、しかも費用は全額ヲジーちゃん持ち、ダメ押しに「空飛ぶミニどら買ってやるから」という条件は、つばさにとって他の一切に対して充分なめくらましになるくらい魅力的だったのだ。自由行動中のオプショナル・ツアーが『スッチー役の池田春香ちゃんと一緒に』なんたらかんたらというのばっかりだったのは、さすがにちょっと気になってはいたが。
 つばさはミニどらの箱を握ったまま床にしゃがんで頭を抱え、一人つぶやいた。
「ダシにされた……」
 つばさがふ目を上げると、一メートルほど離れて座っていた少年……というにはやや歳のいった青年と目が合った。と思ったとたんに目を逸らされた。反射的に微笑を取繕って「こんにちは」と言いかけたつばさは、その笑顔がまだ完成しないうちに取残された。
 場を持余した彼女は、できかけの笑顔で口を「こ」を発音する形に開いたまま、溜息を吐いた。
「ほ〜ぅお」

 さて搭乗の時間も迫り、ツアーの一同は最後の点呼を済ませた。結局ツアー参加者は全部で三百人いて、要するに飛行機一機がこのツアーで貸切り状態なのだ。かなりの巨大ツアーと言える。そしてその参加者のほとんどがスッチー・ヲタクとおぼしき男性の単独参加、もしくはファンクラブかなにかの参加者だった。
 残りのメンバーは親子連れが十組ほどで、ヲジーとつばさもその中に入る。そしてやや場違いな雰囲気を漂わせている二十代後半くらいの女性一人を含む五人組がいた。つばさはなるべくこういうヲタク離れした人々の方に身を寄せる。
 ツアー旅行の常で、まだ集ったばかりの参加者同士は、同じグループのメンバー以外にはお互いに口をきく事もあまりない。しかしそれを考慮しても、この五人組は仲間内ですらほとんど会話らしい会話をしていない。少数派の同じ非ヲタクとして、彼らになんとなく期待を寄せていたつばさにも、なんだかちょっとヘンに思えた。

「さーみなさん、スーパー・スッチー・ジェット就航記念、池田春香ちゃんと行く沖縄の旅に御参加くださいましてありがとうございます。皆様を御案内させていただきますのは私、三橋でございます。さーそれでは参りましょう」と、なんだかテレビのバラエティ番組の司会みたいに妙に明るいツアー・コンダクターに率いられ、一行は搭乗口をくぐって機内持込み荷物のチェックをするカウンターにむかう。
 ところがこのチェックがすんなりとは進まなかった。ツアー参加者の大部分を占めるヲタクども(いまやつばさはそう信じていた)の、そのまた大半が、スーパー・スッチーが変身するときに使うアイテム、『航空精神注入バトン』をかばんの中に忍ばせていたのだ。
 池田春香演じるドジでのろまなカメの高校生つぐみちゃんが、怒りに燃えて航空精神注入バトンをふるうとき、スチュワーデスの制服とバニーガールを足して二で割ったみたいなコスチュームに包まれて、大空駆ける正義の客室乗務員『スーパー・スッチー』に変身するのだ……が……もちろんヲタクどもが持っているのは、番組とタイアップしたおもちゃメーカーが子供向けに作っているおもちゃだ。それがことごとくX線で引っかかった。
「いやー皆さん熱心ですねー。さすがですねー」とツアコンも時計を気にしつつ、褒めているのか呆れているのかよくわからないコメントをしている。
 バトン本体は成型したプラスチックをもなか式に貼り合わせたものだったが、なにかの加減で先端の翼をかたどった鍍金パーツや金属部品が拳銃のような影を落すのだった。つばさが呆れたことに、ヲジーまでもがいい歳をしてそのバトンを隠し持っていた。
「い、いやこ、これはな、科学者として、この玩具が及ぼす、こ、効果というものを研究するためにな。おっとっと落としてしもうた。バトンがばっ飛んだ。なんちて」などとバトンを取り落としたりしつつ脂汗をかきながらよくわからない言い訳をするヲジーちゃんを尻目に、つばさは必死で他人の振りをしてさっさと通り過ぎる。
 始めのうちは苦笑しつつもいちいち手荷物を開けて確認していた空港係官だが、もうツアーの列を半分消化してヲジーちゃんの番が回ってきたころには、いいかげんバトンに麻痺してしまっていた。
「ああ、あんたもバトンね、はいはい行って行って」と、ろくにチェックもしないでヲジーを追立てる。
「ふぃ〜助かったわい。一時はどうなることかと思った」
 ゲートをくぐって待っているつばさにヲジーちゃんが追いついた。おもわず他人のふりを忘れて振向いたつばさの目に、さっきの五人組がやっぱりバトンを見つけられている光景が映った。しかも彼らは見つかってもヲジーのようにじたばたしない。他のヲタク達の態度と比べても堂々としすぎるくらいだ。
 つばさは、彼らもやっぱりヲタク(それもかなり年季の入った)だったのかと失望したような、さっきの妙に人見知りしたヲタク的と言えない事もない態度に納得がいって安心したような、複雑な気持になった。

 出発ロビーに入るとこれから乗る飛行機は目の前だ。ボーイングのB777−300。しかもつばさ達が乗るこの機体は、やたらと長い胴体の全面に『スーパー・スッチー』の登場人物が描かれている。テレビ版のスッチーは実写と特撮だが、もともとは雑誌の連載漫画だったので、テレビでもオープニングやアイキャッチには漫画版の絵柄が使われている。機体に描き出されているのもこの絵だった。
 まあこのツアー自体、さっきツアコンが言っていたように、このスッチー塗装B777の就航記念なので、こういうのに乗るんだということはつばさも承知していた。それでもなお、垂直安定板に描かれたウィンクしているスッチーの巨大なアニメ顔はつばさを圧倒した。つばさはふらふらとロビーの椅子に座り込む。
 周囲のヲタクどもは窓際に群がって、ここぞとばかり写真を撮りまくる。どうやらスッチー・ヲタクの他に、飛行機ヲタクやその両方を兼ねてるのもいるらしい。ヲジーもその中で先頭をきってカメラを構えている。考えてみれば無理もないので、なにしろこれに乗ってしまえば外側の絵は見えないのだ。撮るなら今のうちだ。
「うー反対側のイラストも見たいな」
「俺、外に出て撮ってこようか」
 などとできもしない事を本気でやりそうな勢いで話している彼らは、みな同じ事を考える仲間同士、機体をバックに互いの写真を撮ったり撮られたりして、いくらかうちとけてきたようだ。
 そんな中でも、さっきの五人組はカメラを構えるでもなく、群から少し離れていた。つばさのように飛行機なんかどうでもいいから離れているのとも違って、彼らはそろってじっと飛行機を見つめていた。こころなしか緊張した面持で、ぼそぼそとうちわの会話を交す姿がなんだか不気味だ。

 やがてフィルムを一本使い尽くしたヲジーちゃんがつばさの隣に戻ってきた。
「いやよく描いたもんじゃの。機内の内装なんぞもみんなこの調子でスッチー仕様になっとるんじゃろうな」
 さすがにこれだけあからさまに話しかけられると、つばさの秘技『他人の振り』も通用しない。
「もう、ヲジーちゃんてばもうちょっと自分の歳をわきまえてよぉ。いい歳してあんなヲタクのガキといっしょんなってさ……」
 言葉の途中でいまや自分はヲタクのガキに包囲されてるのを思い出し、つばさの声は小さくなる。しかしヲジーはそんな事にはかまわない。
「ガキと言うがな、あの辺の連中は大概つばさより一回りくらい上じゃよ。話してみればみんな気のいい青年たちじゃ」
「あたしよか歳上ったって、ヲジーちゃんなんかさらに還暦一回りくらい上でしょ。それにあたしが話してもなんか話題とか合いそうもないよ。やっぱあたし帰ろかな」
「まあそう言うでない。沖縄じゃぞ沖縄。つばさの器量なら、そこらの男子にもてもてじゃ」
 つばさは『そこらの男子』をちょっと見回す。
「帰る。やっぱ帰る」
「まあまあ、現地に着いたらサーターアンダギーをそこにあんだけー買ってやるから。つばさはそういうの好きじゃろ」
「う、サーターアンダギー……行く」
 つばさはヲジーの駄洒落を本能的に無視する。うかつに反応を見せるとエスカレートするのだ。黒糖入りのまんまるドーナツを思い浮べて、思わず条件反射的に顔の筋肉が緩むつばさだった。

 半開きになった口からよだれが垂れそうになったとき、例の五人の中にいた女が、窓から離れて歩いてきた。彼女はつばさと目が合うと、一瞬の間をおいて「ふ」と鼻であしらうような薄笑いを見せて通り過ぎた。つばさはあわててちょっとだらしなかった表情を引締め、その女の後姿を見送る。むこうはそれっきりつばさなど相手にもせず、売店のカウンターで紅茶かなにかを頼んでいる。
「あーなんかバカにされちゃったみたい。なによなによ自分こそヲタクのくせして。根性焼きバトン持ってるくせして」
「根性焼じゃないわい、航空精神注入バトンじゃ。しかしあの娘はスタイルいいのぉ。栄(さかえ)の若いときを思い出すわい」
「えーおばあちゃんに似てる? あの人ってば目が青かったよ。髪の毛もなんか赤っぽいし、外人さんかな」
「さあな。気になるなら話しかけてみればよかろ」
 つばさはちらりとさっきの女に目をやった。
「……やだ。なんか性格悪そーな感じだもん」
「ふぉふぉ。まあ顔だちはどちらかといえば日本的じゃがな。一緒の連中も普通の日本人のようじゃし。それともうっかり話しかけて英語で返事でもされたら往生するかの」
「そりゃヲジーちゃんだって」
「馬鹿にするでない。わしゃ英語だってちっとはできるし、ドイツ語ならペラペラじゃぞ。いっひり〜べでぃっひ〜」
 ヲジーはいきなり声を張上げた。ロビーの人たちが一斉にヲジーを見る。例の女も振返った。ヲジーは彼女に向けて左手をぐーぱーぐーぱーして挨拶する。女も苦笑しつつ、軽く手を振り返す。
「やめなよまったくもー」
 つばさはヲジーの手を取って引きずり下ろした。
「ドイツ語ペラペラったってそれくらいしか知らないくせして」
 ヲジーはつばさの言い草に憤慨して、思わず声が大きくなる。
「何を言うか。わしゃ戦時中ドイツに行ってきたんじゃぞ。あちらの科学者と当時の先端技術の交換のため、潜水艦『ウ800』に乗って……」
「そのウソ八百の話はもういいよぉ。いつか隣にフォーカスさんが越してきたときもその話して、『陸軍の実験部隊ならウ−八〇〇航空隊があったが、日本にウ号なんて潜水艦はなかった』って言われてたじゃん」
「ふん。まあ信じないならそれでもええわい。もう過ぎた遠い昔の思い出じゃ」
 ヲジーは遠い目をして宙を仰ぐ。少し老眼なのだ。そんなヲジーを例の女がまだじっと見つめていたのには、つばさもヲジーも気付かなかった。

 飛行機の内装は、ヲジーの予言どおりスッチー仕様だった。シートカバーや飲み物のプラスチック製カップなどの備品に機体と同様のイラストがついているほか、客室のサービスに回るスチュワーデス達がみなスーパー・スッチーの衣装をまとっているのだ。
 頭には羽根付きの帽子をのせ、白いブラウスに赤いスカーフ、手には白い手袋、スーツ風の上着を羽織って、下はタイト・ミニのスカート(に見えるが本当はアクションシーンに備えて前がぱっくり開く巻きスカート)、そして足元は黒のハイヒールといういでたちである。帽子と上着とスカートは花紺だ。ボタンや所々に付いている飾りが金色に輝いてアクセントを添えている。
 一種のコスチューム・プレイと言うべきかもしれないが、もともとスチュワーデスの制服風にデザインされていただけに、こうしてみても不思議に違和感は少ない。ただし、機内で立ち働いている本職のスチュワーデス達は、ハイヒールの代わりにパンプスなどかかとの低い靴を履いているが。
 機内に乗込んだ一行は、席に着く間もあらばこそ、たちまちスチュワーデスらと写真を撮り始める。もちろんヲジーもだ。スチュワーデスの方も普段なら仕事中を理由に断るところだが、スッチー・ジェット就航記念の今日ばかりは、比較的手の空いた者が営業スマイルでヲタクらと一緒にカメラにおさまっていた。

 そんなこんなで出発は遅れそうな気配である。つばさはさっさと席に着いて、もはや諦めの境地だ。席は主翼より後ろの方だが、窓際ではなく機体のまんなかの列なので眺めはあんまりよくない。やがて騒ぎも一段落して、ヲジーもつばさの隣に腰を下ろす。
「満足した?」とつばさは冷やかに言う。
「まあまあじゃな。なかなか良くできとる衣装じゃわい。こういうのもコスチューム・プレイと呼ぶんじゃろうかの。このお姉さんらにコーヒーをいれてもらったら、コスプレッソ・コーヒーじゃの」
「でもこのお姉さん達もよくやるよね。お仕事って割り切ってるのかな」
「さあのぉ、男のパーサーも二、三人うろうろしとったから、コスプレ志願者が足らんかったのかも知れんの。それにしても春香ちゃんはどこじゃろうな」
「先に現地に行ってんじゃないの?」
「機内でアトラクションがあるはずじゃから、当然乗っとるはずじゃが。どこに乗っとるやら」
 ヲジーの『乗っとる』という言葉にびくっと反応して、前の席に座っていた男が振向いた。彼は、座ったまま背伸びしてきょときょとと春香ちゃんを探すヲジーと目が合うと、どこか脅えた様子で視線をそらして前を向いた。例の五人組の一人だった。
「……なんか怪しいのぉ。前の席の連中は」
「ん〜、でもわりとヲタク離れしてるよね。バトン持ってたけど」
「いやいや、そのヲタク離れが怪しい。こんな飛行機に乗りたがるのはヲタクしかおらんじゃろ」
「つばさ、ヲタクじゃないもん」

 離陸のときは何事もなかった。もっとも乗客も乗務員も全員シートに縛り付けられているから当り前だが。
 ほどなくベルト着用ランプが消え、みんなが動き出すと、前の席から例の女が座席の背もたれ越しに乗り出して、ヲジーに話しかけてきた。
「あの、先ほど戦争中に潜水艦でドイツにいらっしゃったとか、おっしゃってましたよね」
「おや、お聞きでしたかな。そう、行ってきましたとも」とヲジーは美人を相手に顔がほころぶ。
「戦争の話でヲジーちゃんのゆーことって、嘘だよ」
 つばさが混ぜ返すが、女はつばさになど洟もひっかけずにヲジーと会話を続ける。日本語ができないどころか、つばさよりはるかに丁寧な言葉遣いだ。
「『ウ800』と言えば、たしかドイツから日本に送られるはずだった精製ウランと交換するために、ドイツに廻航された海底空母の一隻、『伊405』ですね。ドイツ側の艦籍番号で『U800』を通称でウ800と呼んでいた……」
「おお、おお、良く御存知じゃの。あの歴史の闇に葬り去られたフネを。本来なら『UJ1』になるところを、こいつは最高機密じゃというので、欺瞞のためにドイツ国産のUボート用で欠番じゃった番号が割り振られたんじゃ。今じゃこのわしでさえ、あれは空想の艦だったような気がしかけておると言うに」
「とんでもありません。あの潜水艦は実在します。私の祖父もあのウ800でドイツに渡った海軍の技術士官でした。太刀風響(たちかぜひびき)と申します」
「なんと、あんたは太刀風のお孫さんじゃったか。なつかしいのぉ。あいつとは、まもるちゃん、きょうちゃんと呼び合う仲じゃった。あいつとわしとは一緒に横須賀の空技廠で研究しとったんじゃ。ドイツに渡ってから、赤軍がポーランドに突入して迫ってきたころのどさくさでお互いはぐれてしもうて以来、ずっと音信不通じゃった。しかしこんな美人の孫がおったとはたまげたの」
「私、太刀風エミリーと申します。あの……失礼ですけど、深山さんですよね。深山護さん」
「そうそう、まだ名乗っておらなんだの。失敬失敬」
「よく祖父の話に出ます。まもるちゃんはどうしてるかなって」
 つばさは横でどんどん進む話に面食らって、あいた口がふさがらない。文字どおり口を開けたままで二人をかわるがわる見ている。
「きょうちゃんこそどうじゃ。元気でやっとるかな。当時の噂じゃ例のウ800でドイツを脱出したしないとかとか。わしゃてっきりデマじゃと思うとったが」
「ええ……元気です。ドイツを脱出したときはかなり苦労したようで、あまりその時の事は話したがりませんが」
「そうかそうか。潜水艦での長旅はこたえるからの。往路も大西洋にはアメリカの駆逐艦がうようよしとったが、半分お客さん扱いのわしらには何もできん。実につらいもんじゃった。なにせ潜水艦で敵の攻撃をかわせるか否かは、ひとえに操艦の指示を出す潜水艦長のセンスいかんにかかっておるからの。ふぉふぉふぉ」
「……………………」
 いまや名前も明らかになったエミリーはヲジーのだじゃれに凍り付いた。つばさは目を伏せてヲジーの袖を引張る。直前にヲヤジギャグの兆候を察知してやめさせようとしてたのだが、もう手後れだ。
「して、きょうちゃんは今はどこに?」とヲジーはめげもせずに聞く。
「アル……あの、南米のある国に住んでおります。何かの機会があったら、ぜひおたずねください。それからあの、よろしければ住所など教えていただけませんか? 祖父に知らせてあげたいので」
「うんうん、何か書くものはあるかの」
 エミリーは自分の席の下の手荷物からアドレス帳を取り出す。そのとき仲間の男が彼女に「しゃべり過ぎだぞ」とささやいたのを、つばさは聞き逃さなかった。

 仲間に諌められたためか、エミリーはヲジーと住所を交換した後はおとなしくなった。ヲジーは戦時中の隠された歴史について話が合う相手を久しぶりに見つけて、大いに満足したようだ。つばさはなんでこの女はこんな事に詳しいんだろうと怪しんでいた。エミリーとヲジーではそれこそ還暦一回りくらい離れているのは確実だ。もしかしてヲジーの妄想に適当に合せて、二人でアドリブを展開してたんじゃないの? とまで疑っているつばさだった。
 スチュワーデスが飲み物を一通り配り終ったころ、この便を操縦している山田機長から到着予定時刻のアナウンスが入った。現地沖縄は快晴だ。おかげでつばさの心も少し晴れてきた。
 続いてスーパー・スッチーのテーマソングが流れ、映画のビデオなどを上映するスクリーンに、テレビでおなじみスッチーこと池田春香の姿が映る。機内に充満するヲタクどもが一斉に歓声を上げる。春香ちゃんは役柄そのままの声でキャビンに話しかけた。
「みなさ〜ん。元気ですか〜。スーパースッチーこと、春香で〜す。今日はこの沖縄ツアーに参加してくれてありがと〜。なんか大きいお友達が多いって聞いてますけど、誰でも楽しんでもらえるいろ〜んなイベントを用意してま〜す。お楽しみにね。そう、ツアーはもう始ってるんですよ〜。それじゃまたあとでね」
 なんだか台本では句点のマルがハート形になっていそうな媚び媚びな声を聞いて、つばさの心は晴れのち曇りだ。ところにより雨かもしれない。

 アナウンスが終るのを待っていたように、前の席の五人が一斉に持ち込んだ手荷物をごそごそと探り始めた。取出したのは空港のX線で引っかかっていた航空精神注入バトンだった。彼らは無言で視線を交し、互いにうなずきあったりして、通路をぞろぞろと機首の方に歩いて行った。なかには小さなアタッシュケースのような鞄を持って行く者もいる。
「なんじゃ、あやつら。みんなそろってどこへ行くんじゃろ」とヲジー。
「トイレでも行ったんじゃないの〜?」
「バトンを持ってか?」
「きっとあれだよ」とヲジーと通路を挟んで隣の席に座っている男が大声で言った。「機内アトラクション。いまイベントとか『ツアーはもう始ってる』とか言ってたじゃん。あの人たち、きっとサクラというかツアーのスタッフの仕込みで、これからなんかやるんだ」
 彼は別にヲジーに返事をしたわけではなく、単に彼の仲間内で話していただけだったが、その解釈のあまりのもっともらしさに「そろそろアトラクション開始」の噂はたちまち機内中に広まった。あるいはあのバトンを持った五人が連れ立って行くのを見て、同じ事を考えた者があちこちに居たのかもしれない。
 しかし、乗客一同の期待をよそに、それっきりなにも起きる気配がなかった。変った事と言えばスッチー達(というのはつまりスーパー・スッチーのコスチュームをまとった本物のスチュワーデス)がぱったりと姿を見せなくなった事くらいだったが、これはまあスッチーのアトラクションをやるんなら紛らわしいのが居ないほうがいいのは明らかではあるし、誰も気に留めていなかった。

 そのまま二十分ばかり宙ぶらりんな時間が過ぎた。座席についているアテンダント・コールのボタンを押しても誰も来ないので、乗客のなかにはわざわざスチュワーデスを探しに行くものも出はじめ、そんな乗客までが戻ってこなくなったりした。
 こうなるとみんな不審がってざわざわと言葉を交しはじめる。そんな状況のなか、再び機長からの機内放送が流れた。客室が一瞬のうちに静まる。機長の声にはなんとなくぎこちなさというか、妙な緊迫感が漂っている。
「じょ、乗客の皆様にお知らせ、致します。機長の山田です。当機はさきほど、大ドイツ第四帝国、とう、とあ、とあ、東亜特務隊と名乗るグループによって、ハイジャックされて……されました。目下のところ、彼らグループの要求としては、当機の目的地を変更しろと要求されました。目的地はアルゼンチン内のどこかとの事ですが、当機にはアルゼンチンのどこかまで行き着けるだけの燃料を積んでおりませんので、ひとまず国内のどこかの空港に緊急着陸する事になるかと思います。それ、それでは犯人、あ、いや東亜特務隊の方とかわります」
 客席ではこのメッセージを聞いて「おお、そう来たかぁ」「なんかありがちだよね」と声が上がったが、次の特務隊の男のよる犯行声明(?)が始るとまたさっと静かになる。マナーのいい乗客と言えるだろう。
「えー、ただいま御紹介にあずかりました大ドイツ第四帝国東亜特務隊です」
 一瞬の間があって、客席は大爆笑となった。おかげでその後に続く声明の一部は、しばらくのあいだ聞えなくなった。
「……の理想を実現すべく活動を続けていた諸勢力を糾合し、第二次世界大戦後の思想弾圧による犠牲者を救済するとともに、ここに総統の名において本国への帰還を宣言、世界帝国の樹立を目指すものである。当機に乗り合せた諸君にはまことに気の毒であるが、かつての同盟国のよしみと思って、我々の捕虜となってもらう。なお、ともに人類の進歩と調和のために闘おうという勇気のある者は、よろこんで義勇兵として迎える用意がある。考えてもらいたい。なお、今後諸君らは我々の指揮の下、秩序ある行動を保ち、用便等のやむを得ない場合を除いて、みだりに席を立つようなことをせぬよう命令する。反動分子に対しては我々は最終的解決を図る用意がある」
 声明が終っても無駄口をたたく者は少なかった。続いてこの『アトラクション』がどういう展開を見せるか期待しているのだ。つばさはと言えば、さっきの声明はあの女をしゃべり過ぎだと叱ってた男の声だったなー、とぼんやり考えていた。ヲジーちゃんは特に何も言わないが、声明が終って「ふぉふぉふぉ」と笑ったところを見ると、やはり続きが楽しみらしい。
 スッチーに興味のないつばさは退屈で大あくびである。

 ここでちょっとつばさ達を離れて、お話の舞台は時間的に少々さかのぼったコクピットに移る。

 機体が上昇を終えて巡航を始め、山田機長が到着時刻などのアナウンスを終えてしばらくすると、チーフ・パーサーがコクピットの二人、つまり機長と副操縦士の藤田にコーヒーなど持ってきた。ちなみにこのパーサー、田中氏は男性なので、スッチーの格好はしていない。
「ごくろうさま」とパーサー。
「や、ありがとう。たまには男のサービスもいいもんだね」と機長がお愛想を言う。
「女性陣はみんなキャビンにまわしましたんです。もし機長もスーパースッチーのファンでしたら、あとでこちらによこしましょうか?」
「いやいや、お客様第一、いいことです」
「それじゃ、またあとで」
 パーサーはキャビンに帰ろうとしたが、どやどやとキャビンからコクピットへの通路を通ってきた得体の知れない集団によって押し戻された。言うまでもなくこれが大ドイツ第四帝国東亜特務隊であった。
 彼らは二人がエコノミー・クラスとビジネス・クラスをつなぐ通路の、カーテンで隔ててビジネスクラス側に陣取り、唯一の女性、すなわちエミリーがコクピットの入口を押え、残る二人がコクピット内に入った。全員が例の航空精神注入バトンを携えているが、バトン本来のグリップはとり外され、翼の形をした先端部を握って、中空のパイプの部分を前の方に向けている。
 コクピットに入ったうちの一人が、パーサーの胸にバトンの先――もとはグリップがあった方――を押し当てて言った。
「動くな。この飛行機はわれわれ大ドイツ第四帝国東亜特務隊が占拠した。このバトンは一見おもちゃに見えるが、立派に殺傷力のある偽装カービン銃だ。今後あなたがたは我々の指示に従ってもらう。いいな」
 パーサーは「くそっ」と声を上げて突きつけられたバトンを、と言うより銃身を両手で握り、ひねり上げて奪おうとした。しかし男はバトンから外したグリップをパーサーの横腹に押付けた。左手に隠し持っていたのだ。パチッと電気火花のスパーク音がして、パーサーはよろめいた。銃から手を放した隙に、パーサーはリーダー格の特務隊員によって壁に押付けられ、動きが取れなくなった。
 副操縦士があわてて立ち上ろうとすると、もう一人の特務隊員がバトンを床に向け、手の中の翼部分から跳ね上っている引鉄を絞った。バチッという破裂音が轟き、床に直径5ミリほどの穴があいた。火薬の匂いが狭いコクピットに漂う。副操縦士は腰を浮かせたまま凍り付く。パーサーの膝から力が抜け、床にへたり込んだ。
 発砲した特務隊員が「けっ、だらしねぇの」とパーサーの顔を蹴りつける。パーサーを抑えて名乗りをあげていたリーダー格の男が「おいこらやめないか中村っ」とその隊員の横面を張って止めに入ったが、すでにパーサーは唇が切れ、鼻からも血を流していた。
「ちょっと邪魔よ。あなたあっちに行って、乗務員を全員ビジネスクラスに集めなさい。ツアーのスタッフも一緒にね」
 コクピットを覗き込んだエミリーが、パーサーを爪先でつついて命令する。パーサーはなかば腰を抜かしたまま、顔にハンカチをあててよたよたと通路をはって行く。エミリーもバトンの銃口をパーサーの背中に向けてついて行く。去り際にエミリーはリーダー格の男に声をかけた。
「じゃ加藤隊長、あとは頼むわね」
 加藤と呼ばれた男が言った。
「カンパニー・コールはちょっとまってもらおうか。管制官にも普通に答えていろ。日本語でも英語でも構わないが、妙なことを口走ってもちゃんとわかるからな。それから、この機体に積んでいる燃料でどこまで行ける?」
「な、那覇、那覇……」と機長が困惑したような声で答える。
「おい、ナハ、ナハってせんだみつおじゃないんだから。ぎりぎりの燃料しか積まずに那覇の直前まできて、急に空港が使えなくなくなったらどうするんだ? まさか海に突っ込むわけじゃないだろう。どこまで行けるんだ?」
 副操縦士が自分の前に並ぶ計器類に目を走らせ、すこし思案して答えた。
「那覇以外だと九州のどこかに戻るか、国外なら台北、上海まではなんとかもつだろう。台湾や中国が着陸を許可すればだが」
「こ、こら、藤田君……」と機長は副操縦士を止めにかかるが、特務隊の加藤に睨まれて黙ってしまった。
「ふん。しょうがない。まず那覇で給油かな」と特務隊員らは顔を見合せる。
「いったいどこまで行きたいんだ?」と藤田。
「アルゼンチンだ。これ以上は言えない」
 エミリーがコクピットに戻ってきて男達に声をかけた。
「向うは大丈夫よ。燃料は?」
「上海までもっていいとこだそうだ。あるいは台湾か九州か」
「上海ねえ。国外の方がなにかと都合はいいけど……」
 エミリーはちょっと目を伏せて考えていたが、すぐに顔を上げてあれこれと指示を始めた。
「わかった。ひとまず予定の航路を維持しなさい。無線で余計な事を言ったりしないでね。それからお客さんにアナウンス。それから中村君はこっちに来て」
 エミリーは再び客席に向う。
「へっ。お目付け役も大変だな」
 中村がエミリーの後ろ姿に向かって小声で言う。
 加藤隊長は中村をひと睨みしてから、機長に命じた。
「機内放送を入れろ。我々大ドイツ第四帝国東亜特務隊が乗っ取ったとな。その後で俺にかわるんだ」
 山田機長はヘッドセットのマイクを機内放送に切換えようとして、ふと手を止めて男達の方に振向いた。
「き、君達は、なんと言ったかな。ド、ドイツ帝国……」
「都都逸帝国じゃないっ。大ドイツ第四帝国東亜特務隊だっ。憶えられないなら紙に書いてやる。時間稼ぎなんかしても意味がないからな。くれぐれも変な気を起すんじゃないぞ。我々の武器はこの銃だけではない」
 中村が、着ているパーカーの下からなにかの液体で膨らんだ青いゴム風船と、アイスピックのようなものを取出して見せた。風船は夜店の風船つりのものくらいの大きさだが、中身は液体ばかりで空気はほとんど入っておらず、ぷよぷよと弾力を保っている。
「これがなんだか判るか?」
 山田機長と藤田副操縦士は首を横に振る。
「ふん。まあ判らなくともいい。ただこいつが割れて中身が出ると、大変なことになるとだけ言っておこう。うっかり落しただけでも割れるかも知れないからな。それに武器はまだこれだけではない。我々に刃向う事はやめておいた方がいいぞ。お互いのためにな」
 風船を持った男は縛ってある風船の口をつまんで、ヨーヨーのようにビヨンビヨンと揺らす。それを見ている機長らの首も一緒に縦に揺れる。
「ほら早く放送を入れろ」
 機長はびくっと反応してマイクにしゃべり出した。
「じょ、乗客の皆様にお知らせ、いたします……」

 そのころビジネス・クラスでは、客室から呼び集められたスチュワーデス達と、池田春香始めツアーのスタッフを前にして、だいたいコクピットでやっていたのと同じ乗っ取り宣言と、武器の見せびらかしが終ったところだった。血まみれのパーサーの顔はなにより雄弁に事態を証明していたので、コクピット同様、容易に制圧できた。
 抵抗と言えば、もともと予定されていたアトラクションでハイジャック犯役をやるはずだったスタントマンが、やはりアトラクションで使う予定だったプロップ・ガン――まあおもちゃと言うか模型の拳銃――を通路をおさえていた特務隊員の伊東に向けて抵抗する態度を見せ、逆に伊東に発砲された事くらいだ。スタントマンは自分のジーンズの裾に穴が空いたのを見て、そこに指先を通してみたりして、それからようやく腰を抜かした。
 エミリーがコクピットから戻ってきたのに合わせて、伊東が改めてその場に集まっているスタッフたちに命じる。
「ほらツアーの主催者は全員席に座ってろ。シートベルトを締めるんだ。これからは許可なく立ち上がるんじゃないぞ。乗務員は我々と乗客との連絡窓口をやってもらう。当面は普通にサービスしていろ。ただし客を騒がせるんじゃないぞ」
「なによ。あんたたち、ハイジャックなんてしても、すぐ警察の特殊部隊に制圧されちゃうんだからね」
 勝ち気な声を上げたのはスーパー・スッチーこと池田春香だ。さすがにさっきの機内放送のような営業用カマトト口調ではない。彼女は子供の頃に空手を習っていたこともあり、アクション・シーンでもスタントを使わなずに臨むくらいで、ちょっとした男が相手でも一対一ならぶちのめせるくらいの自信はあるのだ。
 席を立ち、いまにも食って掛かりそうな春香の様子を見て、周囲は気が気でない。このドル箱娘が傷物になってしまうと、スタッフとしてはまさにおまんまの食い上げである。
「いや、あの、ほらね、こちらの方は武器も持っておいでだし、あんまり、こう、ひどいことは言わないでね」
 ツアコンの三橋が春香と伊東の間に割って入ってなだめにかかる。その背後にゆらりと伊東が歩み寄り、三橋の首筋にスタンガンをあてた。
「ほげっ?」と三橋が妙な叫びを上げ、宙を仰いでのけぞるとそのまま春香の胸に倒れ込んできた。春香はさっと彼の身体をかわし、あわれ三橋は通路に転がった。
 伊東はこれ見よがしにスタンガンをばちばちと放電させ、無言のまま顎で座席を示す。
 こうなっては、いかにスッチー衣装に着替えた春香と言えど、まともに相手はできない。だいたい衣装を着たからと言って、番組のスッチーのように強くなるわけでもなんでもないので、多少の空手の心得くらいではどうにもならない。結局、春香の反抗は口先だけで終わり、上目遣いに伊東をにらみながらも指示通り席に着く。
 伊東はもう一人の鞄を持っている特務隊員を呼ぶ。
「おい江口、ビデオを出せ」
 特務隊員江口は、鞄の中からラベルに手書きで『Japanish』とだけ記されたビデオ・テープを取り出し、スチュワーデスの一人に渡した。
「機内でビデオを流すスクリーンにこいつを映すんだ。最後まで終ったら巻戻してもう一度始めからかけろ」
 命じられたスチュワーデスが作業にかかったとき、ハイジャックに遭ったことを告げる機長のアナウンスが入った。それに続いて特務隊の声明が流れる。
「えー、ただいま御紹介にあずかりました大ドイツ第四帝国東亜特務隊です」
 エコノミー・クラスの方から一般客の爆笑が届く。しかしコクピットとビジネス・クラスでは笑い事ではない。特務隊の三人は少しむっとしたようだ。声明はよどみなく続く。
「我々は、第二次世界大戦終結後にアルゼンチンに亡命した旧ドイツ第三帝国を核とし、ヒトラー総統の御遺志を継いで、現在まで長らく雌伏していたものである。総統閣下はベルリンの地下司令部で自害したとされていたが、御遺体の一部は密かに持ち出され、我々第四帝国が保管していた。そしていまや、我々は第三帝国より受け継いだ高度な医学を独自に発展させ、世界の水準をはるかに凌駕する生命工学技術によって、総統閣下は復活なさったのである。我々は総統閣下の御意志のもと、本国ドイツをはじめ世界各地において総統閣下の理想を実現すべく活動を続けていた諸勢力を糾合し、第二次世界大戦後の……」
 声明の続くなか、伊東はスチュワーデス達に、乗客から携帯電話の類を回収するように命じている。

 と、ここで時間軸が一致して場面はキャビンに戻る。

 ツアー参加者がこれから始ると期待しているこの手のヒーローもの(まあスッチーはヒロインだが)のショウの場合、だいたい悪役側がまず会場を乗っ取って、集っている子供たちを自分の組織に組み入れようとするなどいろいろやっているところに、颯爽とヒーローが現れてみんなを開放する、と言うのがおきまりのパターンだ。つまりデパートの屋上や遊園地の一郭でよくやるあれだ。
 事実スタッフは、この機がハイジャックされてそれをスッチーが救う、というアトラクションを企画していたわけである。それだからこそプロップ・ガンを持った悪役スタントマンがいたりするのだ。
 この東亜特務隊も、とりあえず飛行機を乗っ取って味方を募ったところまではアトラクションの型通りである。乗客の大部分を占める『大きなお友達』であるヲタク達は、当然そういうパターンを熟知しているから、これから特務隊が出てきてひとしきり騒いだ後、スッチーが現れて彼らをやっつける、と言うアトラクションが始まったと解釈した。
 主な客層がこのようなもののわかった(?)連中だけに、アトラクションをやるなら悪役はいかにもリアルな悪役然とした行動をとるべきだし、本物のハイジャックと勘違いしかねないくらいでなければ演出的にもうまくない。それもまたヲタク達の承知しているところだ。
 そして特務隊は本物のハイジャック犯であるだけに、いかにもリアルな悪役然とした行動をとっていた。かくして乗客は、彼らの行動を『本物のハイジャックと勘違いしかねないくらい良くできたアトラクション』だと思っている。

 やがてスピーカーからワグナーの『ジークフリートの葬送行進曲』が流れると、雑談にざわついていた客席がまた静まる。機内のプロジェクタ・スクリーンや座席の背に一つ一つ取り付けられている液晶パネルに、古いモノクロの映像が映し出された。第一次世界大戦後、未曾有のインフレに冒され、パン一つ買うのに札束を積上げねばならないくらいに経済が破綻したドイツの光景である。落着いた男の声のナレーション(日本語だ)が当時の世界情勢と、ベルサイユ条約による軍事的束縛、莫大な戦時賠償金、インフレに続く世界恐慌など、当時のドイツの状況を説明する。まるでNHK特集のような作りである。
 続いて選挙によってドイツ国家社会主義労働者党――いわゆるナチス――が政権をとると、BGMが『ケーニヒグレッツ行進曲』に変って、ニュルンベルクで開かれた党大会の記録映像が出てきた。要するにナチの集会である。
 だだっ広い会場で分列行進する兵士。その正面の演壇には巨大なハーケン・クロイツの旗が垂らされ、その下に独裁者アドルフ・ヒトラーの姿がある。熱弁を振るうヒトラーに、右手を挙げて歓声を送るスタンドの観客。一連の映像の中には、焚書の行われている前で一兵卒に手帳を差し出され、そこにサインする総統の姿なども混じっている。
 ビデオではヒトラーの台詞に字幕や吹替えを付けず、代りにかぶさったナレーションが、ヒトラーのことをあたかも強力なリーダー・シップで疲弊したドイツを破滅の淵から救った救世主であるかのように褒め称える。おそらくヒトラーは原語ではドイツ国民の千年王国の類の話ばかりしていて、そのまま翻訳しても日本人向きではないからであろう。もちろんユダヤ人問題などの暗部は薬にしたくとも出てこない。
 さすがのヲタク達もこんな洗脳ビデオが流れるとは予想外だったようだ。あっけに取られているのか、まだこれもアトラクションの一部と思っているのか、まあまあおとなしく鑑賞している。

 ビデオが続いている中、数人のスチュワーデスが飲物などのサービスにつかうカートを押して通路を回り、乗客が持っている携帯電話やPHSを集め始めた。ここに至ってようやく様子がおかしい事に気付いた乗客が、あちこちで電話を渡すの渡さないのともめ始めた。スチュワーデスは青い顔で、ただ「どうか御協力をお願いします」としか言えずにひたすら頭を下げている。
 乗客がなかなか言う事を聞かない様子を、通路のカーテン越しに見て取った伊東は、コクピットの加藤を呼ぶ。そしてツアーのスタッフからビデオカメラを取り上げて機内のプロジェクタに直結し、ビジネス・クラスの光景をスクリーンに映した。そこにはシャツを朱に染めてスチュワーデスに介抱されているパーサーの姿、そしていまや床にへたりこんで失禁しているハイジャック犯役、相変わらず通路に転がっているツアー・コンダクター、蒼ざめた表情で座席にかしこまっているその他のスタッフ……その中にはこの事態を解決すべき肝心のヒロインたるスッチーこと、春香ちゃんまでがいた。しかもすでにスッチーのコスチュームに着替えた上でだ。
 伊東はやってきた加藤にカメラを向けた。リーダーの加藤がおもむろにマイクを取って、キャビンに放送を入れる。
「君らはなにか勘違いしているようだが、我々はツアーの演出で乗っ取ったわけではない。我々は銃を持っている。すでに二発発射したが、これ以上使わせて欲しいとは思わない。もちろん弾丸は諸君ら全員の体内に十発ずつ進呈しても、まだあまるくらい準備してあるがね。おとなしく我々の指示に従う事だ」
 加藤はいったん言葉を切って、マイクを春香にむけた。
「さあスーパー・スッチーさん。愛しのファンの諸君になにか言いたい事はあるかな?」
 春香はマイクを避けようとしたが、シートベルトを締めさせられているために動きが取れない。始めのうちこそ強気に加藤を睨み付けていた春香だが、なおも突出されるマイクの前で、とうとう声を上げて泣き出してしまった。いつもドラマのアクションシーンで堂々たる立回りを見せる彼女が。
「おやおや困ったね。諸君も彼女を泣かせるようなことは慎んでもらいたい。これから我々は時折客席に見回りに行くが、くれぐれも余計な抵抗はしないように。我々が持っている『風船』が割れると大爆発を起こすからな」
 カメラが切られて、機内のスクリーンが一斉にノイズで溢れた。チャイムの音とともにシートベルト着用サインがともる。
 やがて電話機を回収するスチュワーデスに、バトン銃を擬した特務隊の江口が一緒についてまわり、さすがにこんどはほとんど抵抗もなく、電話は次々に差し出された。江口はいちいち手荷物の中までチェックし、疑わしいものには身体検査までする念の入れようだ。まれに抵抗するそぶりを見せたものには、例のスタンガンをあてて悲鳴を上げさせている。

「おやおや、どうやら本物のハイジャックらしいのぉ。ふぉふぉふぉ」
 江口が通り過ぎると、ヲジーは呑気につばさに話しかけた。こんな場合にも関わらず、こころなしか楽しそうにさえ見える。
「のぉ、つばさや。厠に行きたくはないかの? これつばさ」
「ほえ?」とつばさは気の抜けた返事をする。
 実は、つばさはさっきのヒトラーのビデオが始ったころから寝ていたのだった。コクピットの描写からキャビンに戻って以来、これまでつばさに関する記述がなかったのはそういうわけだ。したがって彼女は、このハイジャックをアトラクションの茶番劇としか思っていない。
「別にトイレなんて行きたくないよ?」
「行きたくなくても行っておくれ。このスッチー・バッグと航空精神注入バトンを持ってな」
「やだ。……ってゆーか、ヲジーちゃんてばそんなバッグまで持ってたの」
 つばさはヲジーに冷たい視線を注ぐ。ヲジーがつばさに押し付けたバッグは、どう見ても男物ではない小さな赤い肩掛バッグで、変身後のスーパー・スッチーが肩から下げている黒いバッグと同じデザインだ。アクセサリーのようなもので、時々スッチーが振り回して敵をひっぱたくのを除けば大した機能はない。
「そんなこと言わずに、な? それでこのバッグに正義のヒロイン、ストラト・スッチーの衣装が入っとるから、そいつに着替えて……」
「え〜っ! 絶対、ぜえぇっっっっったい、やだ!」
 つばさはヲジーの言葉を遮って叫ぶ。通路の遠くから江口が彼女を睨み付ける。
「これ。そんな大声出すでない」
 ヲジーは声をひそめて、ついでに頭も前の座席の陰に隠して密談スタイルになる。しかしつばさはつきあわない。
「だって、これから本物のスッチーの出番でしょ。お芝居の邪魔しちゃ悪いよ」
「本物のスッチーは出てこん。もうとっくに敵にやられて縛り上げられとるわ」
「へぇ。なんかそれって二話連続の回みたいな演出だね。それで新しい仲間が登場してピンチのスッチーを救うとか」
「違う。本物なのはハイジャックの方なんじゃ」
「またまたぁ、ヲジーちゃんてば」
「かついどるわけじゃないわい。周りの様子を見てみい。スッチーを待ってるような感じじゃなかろうが」
 つばさはそう言われてきろきろとまわりを見回し、初めてあたりにみなぎる緊張感に気付いた。なんとなくヤバげな雰囲気に、つばさもヲジーと同様に頭を下げて言った。
「……でもさ、もしほんとにハイジャックされてるとしても、あたしがスッチーのかっこしたからってどーにもなんないでしょ?」
「それがどうにかなるんじゃ。このバッグに入っとるのは、ただのコスプレ衣装じゃあない。わしがひそかに開発しとった重力制御繊維で作った強化服、Gスーツなんじゃ。繊維の周囲数サンチの重力場を歪めて、普通なら下向きの重力を自由な方向に向ける機能をもっとる。空も飛べるし、銃で撃たれても、拳銃弾くらいのエネルギーじゃったら、当る直前に弾を止めてそのエネルギーを全身に分散させることができる。言ってみりゃ弾丸に重力加速度で受身をとらせるようなもんじゃ。それに、衝撃を受けると繊維が瞬間的に硬化するから、万が一弾丸や刃物がスーツに到達しても、到底突き通すことはできん。さらに、手足をすばやく動かすと、スーツがそれを自動的に感知して、局所的にポテンシャルを集中させて加速度を増大させるから、パンチやキックも威力百倍じゃ」
「銃弾くらいって、相手が大砲とか持ってて撃たれたら?」
「その時は力積がでっかいから、まずすっ飛ばされるじゃろうな。大きさにもよるが、青あざくらいはできるかもしれん」
「うーん。なんか嘘っぽいなぁ。だって、なんでヲジーちゃんがそんなすごいの開発してんのよ。それにいつ開発したの。どこで開発したの。何時何分何曜日?」
 ヲジーはいきなり遠い目になった。昔の話が始る。

「わしがドイツに行った話はしたろう。あの当時、ドイツのGG(ゲーゲー)ファルベンという化学工業会社では、時の政府や空軍からの委嘱をうけ、秘密裏に反重力の研究をしとったんじゃ。たとえば失敗には終ったが、戦車の砲塔をつけた円盤型の攻撃機なんぞを試作しとった。わしときょうちゃんの任務は、その反重力技術を習得して日本に持ちかえる事じゃった。帝国海軍じゃその技術で反重力重爆撃機『雄峰』なんぞを計画しとったが……結局すべては遅すぎたんじゃ……」
 つばさはちょっとこける。
「遅すぎたって、それじゃ答になってないじゃん」
 つばさの茶々など相手にせず、ヲジーの話は続いた。
「昭和二十年の二月も末の頃じゃ。迫りくる赤軍からわしらは逃げた。そのころはまだ不完全じゃった重力遮断樹脂の実験を行っていたペーネミュンデから、樹脂のかけらを持っての。
 中立国のスイスをめざして逃げまどい、夜の闇に紛れて空襲下のベルリンを出て、ライプツィヒを通り、チューリンゲンの森を越え、あるときは国防軍のトラックに便乗し、あるときはソ連軍に追われた避難民に混じって歩き、バイロイトからニュルンベルクを抜けてミュンヘンへと向かう途中じゃった。あのウ800、帝国海軍の誇る伊号405潜が、ヴィルヘルムスハーフェンの港にまだ沈みもせずに残っとると言う噂を耳にした。聞けばベルリンを脱出するヒットラー総統を日本まで落ち延びさせるべく待っているとか。
 わしらは考えた。二人で別の経路をとれば、どちらかは日本にたどり着けるかもしれん。このまま行動を共にして、一網打尽に捕まってはそれまでじゃ。わしらは互いの無事を祈り、生きて再び日本で合いまみえようと、もし敵の手に落ちるがごとき事あらば、その時は靖国でと誓って別れたんじゃよ。そしてきょうちゃんはウ800のある北へ、わしは南へ……。
 あいつとはそれっきりになってしもうた。きょうちゃんがウ800でそのままアルゼンチンに落ち延びたとすると、あやつめついにわしとの約束を守らんかったわけじゃ」
「だってヲジーちゃんてば、アメリカの捕虜になったとかっていつも言ってなかったっけ? もしヲジーちゃんが約束守ってればとっくに靖国神社にいるはずだよね」
「う、うるさいわ。もしあの時わしが靖国に行っとったら、つばさのパパも生まれとらん。今頃はわしもろともに九段のパパじゃ。当然つばさだとてこの世におらんのじゃぞ。とにかくわしゃ米兵の目からも重力遮断樹脂を隠し通して、なんとか日本に持って帰ってきたんじゃい。そして記憶に焼き付けておった化学式や合成法をもとに、うちの地下室で研究改良を続け、ついに繊維として実用化にこぎつけたというわけじゃ」
「でもうちに地下室なんてないよ」
「あるんじゃ。つばさが知らんだけじゃ」
「そ、そんな……うちにあたしの知らない秘密があったなんて……」とつばさは一瞬うちひしがれた仕種のあと、けろっとして「てゆーか、つまり嘘なんでしょ」
「まあ信じないならそれでもええわい。もう過ぎた遠い昔……いかんいかん、自己完結しとる場合じゃないわい。とにかくつばさや、だまされたと思って着ておくれ。そのバトンの羽のところに入っとるイヤホンを耳につければわしと話ができるから、あとは操作の方法をわしが無線で教える。なに簡単なもんじゃ」
「やだ」
「まあそう言わずに。無事帰ったらドテラおばさんのクッキー山ほど食わしてやるから」
「う、ドテラおばさんのシナモン・レーズン・クッキー……」
「ほらどうじゃ。やっておくれ」
「あ……あとね、あとダンナ・キラーズのブルーベリー・ミルフィーユ。ホールで一枚まるごとっ」
「しかたないのぉ」
「やたっ」

 ヲジーとつばさの交渉の結果、二人のあいだにはなんらかの合意が成立しつつあったが、いつのまにかその横の通路には特務隊の江口が立っていた。
「おいこらおまえ達、さっきからなにをごちゃごちゃと話してるんだ」
 二人は額を突き合わせたまま、首だけ回して振向いた。ただでさえ鬼瓦のような顔付きの江口が、怒りの形相もあらわにバトン銃を向けているのを見て、二人はばね仕掛のようにぴたっと姿勢を正す。
「あ、あははは。いやなに孫娘がな、ちと用足しに行きたいがあんた方が恐いと言うのでな、あんた方のような高邁な思想を掲げてらっしゃる人が恐いはずがあるまい、と諭しとったんじゃ。と言うわけで、行かせてやってくれんかの」
 あからさまなお世辞ではあるが、男の表情は少し緩んだ。
「ふん、そうか。こればかりはしかたあるまい。ただしトイレまでは俺がついていく」
 ヲジーが動こうとしないつばさをひじでつつく。しかたなくつばさは作り笑いを男に向ける。
「あ、ああ、ありがとー」
 つばさはスッチー・バッグとバトンをかかえ、へっぴり腰で席を立った。男は当然バッグを見咎める。
「まて。その鞄の中を見せてみろ」
「や、やぁねぇ。トイレに行く女の子のバッグを見たがるなんて。えっちぃ」
 つばさが上目使いに甘ったるい声を出すと、これが意外に効いた。男は真赤になってしどろもどろに言った。
「わかったわかった。早くしろこら」
 内心「こら」はないでしょと思いつつ、つばさは男を従えて客席前方のトイレに向う。こうなったらしょうがない。クッキーのためミルフィーユのため、ではなくて世のため人のため、悪を蹴散らす正義のヒロインをやるしかない。トイレに入って鍵をかけ、つばさは、ふんっ、と気合を入れた。

 トイレに入ったつばさは、とりあえずヲジーが言っていたイヤホンを探し出し、右の耳に押込んだ。
 バッグの中には、たしかに小さくたたんだ衣装がぎっしりと詰込んである。取出してみると、上は両脇に白い羽根の付いた帽子から、ブラウスにスカーフ、スーツ、下はタイトスカートとハイヒールまで一通り揃っている。番組に出てくる本物のスーパー・スッチーと同じデザインで色違いだ。本物は帽子や上着やスカートが花紺なのに対して、このヲジー作のは臙脂でまとめている。赤いはずのスカーフは黄色だし、ヒールは黒の代りに赤。同じ色なのは白いブラウスと手袋くらいだ。
「ヲジーちゃん?」とつばさは呼びかけてみる。
《なんじゃ。もう着替えたかの》とヲジーの応答がイヤホンに帰ってくる。
「なんかヲジーちゃんの声にかちかちって変な音が入るけど、なに?」
《そりゃ入れ歯の音じゃ。わしの入れ歯がつばさとやり取りする通信機になっとるでな》
 つばさはヲジーに耳をかじられているような気分になった。
「やめてよー。お願いだからもっとましなの使って」
《わかったわかった、それは今後の課題として憶えておくわい》
「でもさ、ほんとにこれ着んの? なんか生地が薄いんだけど」
《いまさらなにを言うとるんじゃ。薄いのは、まあそのバッグに詰め込む都合じゃ。ちと窮屈じゃが、きゅうっと靴まで入れておかねばならんかったしの。さあ早く着替えんか》
「着替えって……正義のヒロインがトイレで着替え? なんかさぁ、本物みたくバトン振って呪文一発で変身ってできないの?」
《そ、それも今後の課題じゃ》
「まったくもー。これだからヲジーちゃんてば『護さんの作るものは出来がよくない』とか言われるんだよ。いつか修理してた車のエンジンだってすぐ壊れたし、去年の扇風機だってプロペラが……」
《うるさいわい》
 つばさはなおもぶつぶつ文句を言いながら、それでも服を脱ぎ始める。
 しかしトイレは狭いので着替えも大変だ。脱いだ服をコスチュームの代りにスッチー・バッグへ押込むが、履いていたスニーカーはどうしようもない。他の服と一緒にすると服が汚れるし、そもそも大きさからしてどう考えても入らない。しかたないのでスニーカーはヲジーちゃんにでも預けておくことにした。
 さすがに下着まではバッグに入っていなかったので、いま身に着けているのをそのままにして、ひとまずスッチーのブラウスを着てスカートをはいてみる。
 帽子を頭にのっけるのにじゃまなので、ポニーテールはほどいた。黒く長い髪が肩甲骨のあたりまでふわりと垂れる。これで見た目の印象はだいぶ変り、つばさをよく知らないものには『年寄に引率されてツアーに参加していた女の子』と同一人物には見えなくなった。
 スーツに袖を通してヒールを履き、スカーフの結びかたに迷っていると、外で見張りに立っている江口がしびれを切らしてどかどかとドアをたたき始めた。
「おいこら。いつまで入ってるんだ」とドア越しに怒鳴る声が聞える。
「もうちょっと〜」とつばさも大声をはりあげ、ついでにヲジーに連絡を取る。
「ヲジーちゃん、着替えたけど、それからどーすんの」
《バトンがコントローラーになっとる。握りがスイッチになっとるから、右にひねるんじゃ》
「こう?」
 つばさはヲジーに見えるわけでもないのに尋ねながら、言われたようにグリップをひねる。バトン先端の羽根の付け根にある宝石(と言ってもプラスチック製だが)の部分が青く光る。かすかに上着の裾が揺れて、服全体がほんのりと暖かくなり、足の裏にかかる体重が減ったような気がした。
 つばさは光っている宝石部分を見ようと、なんの気なしにバトンをひょいと振り上げた。そのとたん、つばさの身体はぶわっと飛び上って、天井に激突した。
「ふぎゃっ!」
 激突した拍子にバトンを落したため、こんどは床に叩き付けられる。どたんばたんとえらい騒ぎだ。
《どうしたつばさや》
「ひ、ひたかんた」
《なんじゃと?》
 つばさは「舌噛んだ」と言っているのだが、まともに発音できないのでヲジーには通じない。つばさは便器に片足を半分突っ込んだ状態で床に転がった姿勢のまま、頭のたんこぶをおさえる。
「もー。てんしょうに頭ぶてぃけてぃったのよ。いたたた」
《さては航空精神注入バトンを上に振ったんじゃな。そのバトンは飛行中の方向制御に使うんじゃ。不用意に振り回しちゃいかん》
「そーゆーころは、スイッヒ入えるまえにいっへよめ」
《すまんすまん。狭いところでの誤操作防止機構を考える必要があるの。まあそれ以外はパンチでもキックでも4の字固めでも、つばさの身体の動きを感知して自動で補助するから大丈夫じゃ》
 つばさは「ほんとにだいじょぶなのかな」と口には出さないが心で思う。
 つばさが狭いところで体をひねってなんとか立ち上ろうともがいている時、ドアの外では江口が「おいこら何をしている」とかそれに類する事をわめきつつ、異常な物音を聞きつけてやってきたもう一人の特務隊員、伊東と一緒になって、ドアの鍵をこじ開け始めた。つばさがまだちゃんと立ち上らないうちにドアは開いた。つばさはとりあえず叫ぶ。
「きゃー! えっち!!」
「あっ。すいません」
 伊東は条件反射的にドアを閉める。しかしお互いに顔を見合せた彼らは、すぐに何をするはずだったか思い出し、「このやろ」と再び江口がドアのノブに手をかけた。その瞬間、なんとか体勢を整えたつばさは内側から思いっきりドアを蹴った。
 ドラム缶が潰れるような音とともにトイレのドアがはじける。伊東は跳ね飛ばされて通路に転がり、江口はトイレのドアと機外に出るドアとの間に挟まれた。どちらも失神して床に伸びてしまった。
 つばさとしては、ちょっと力を入れ過ぎたかな、くらいのつもりで蹴ったのだが、蹴破られたトイレのドアは大きくへこんで、かろうじて天井近くのヒンジ一個でぶら下っている。人間業とは思えない。吹っ飛ぶ一歩手前の状態だ。

        つづく