超空客室乗務員 ストラトスッチー

        承前

 突然の大音響に、そばのギャレーにいた本職のスチュワーデスが驚いて飛びすさる。乗客も特務隊員も一斉につばさの方を振り返った。トイレが見える範囲にいる者たちの視線が一個所に注がれる。そこには色違いのスッチー衣装に身を包んだ素人くさい少女が立っている。全員の頭にある考えが浮ぶ。
「ニセスッチーだ……」
「ニセスッチーが現れたぞ」
「ニセモノが出たってよ」
 ニセスッチー出現の報は瞬く間にキャビンを駆け巡った。もちろん当のつばさにも聞こえている。
 普通なら、ニセヒーローやニセヒロインは悪の組織の側が繰出して、コスチュームの色が黒かったりしてあきらかに本物とは違うのに、なぜかみんな本物と区別できないのがお約束だ。したがって、オリジナルと識別できて、しかも悪役であるハイジャック犯をぶちのめしたつばさは、どちらかと言うとピンチのスッチーを救うスッチー2号――正確にはスーパー・スッチー自身が先代フライング・スッチーの二代目なので、つばさはスッチー3号――となるべき役回りだ。しかしそんな発想は誰一人として抱かなかったらしい。それがつばさはとても不満だ。
「な、なによなによ、あたしはねー、あたしは、えーと……なんだっけ?」
《ストラト・スッチーじゃ》
「す、すと?」
 つばさは「成層(圏)」を意味する「ストラト」という接頭辞を知らないので、ちゃんと聞き取れない。
《ストラト・スッチーじゃと言うに》
「ストレス・スッチー」
《ス・ト・ラ・ト》
 ヲジーは懸命になって訂正にこれつとめるが、ヲジーの声はつばさにしか聞えない。そのつばさがうっかり間違った名を口にしてしまったため、もはや事態は手後れになった。
「ストレス・スッチーだってよ」
「ストレス・スッチー? あははは、なにそれ」
「ニセのやつはストレス・スッチー……」
 ヲタクどもの伝言は爆笑を伴って勝手に増殖、伝播し、ヲジーの傍らも通りすぎて行く。ヲジーは頭を抱えた。
「あああ、もうストラトでもストレスでもどうでもいいわい。ストレスで圧力隔壁が破れようが地球がダメになろうが、わしの知った事かい」
 一方つばさもやっと意味不明ながら「ストラト」を聞き取って言い直した。
「あたしはストラト・スッチーよ」
 しかし「ストレス・スッチー」というあまりにへっぽこなネーミングは、かえってインパクトがありすぎて、乗客に忘れがたい印象を残した。これではちょっとやそっとで訂正などききそうにない。
 それに特務隊員が二人まで倒された今、ふたたびこのハイジャックがツアーの演出らしく思えてきて、客席のあちこちから「ストレス・スッチー」を連呼する声が聞える。つばさはだんだん腹が立ってきた。
 ニセスッチー現わるの噂は、当然ビジネスクラスにいる残りの特務隊員達の耳にもすぐに届いた。トイレのドアが蹴破られる音ももちろん聞こえていて、エミリーの命令を受けて隊員の中浦が押取り刀で通路をつばさの方に向ってくる。
 ちょうどその時、ついに業を煮やしたつばさは、手近の座席の背に拳骨を振り下ろして怒鳴った。
「ストラト・スッチーなんだってば!」
 座席は「どすん」という振動とともにひしゃげて床にめりこんだ。そこに座っていた客は、つばさの拳で座席が潰れた反動で前の席の背に頭をぶつけ、「きゅう」と古典的に気を失った。駆けつけた中浦も思わず途中で立ちすくむ。
「やっぱりストレス・スッチーは悪の手先だな」
「ストレス溜まってるみたいだな」
 通路を隔てた席のヲタクが隣とひそひそ話す。それをつばさは聞き逃さなかった。
「まだストレスってゆーかぁぁ」
 つばさはそいつの胸ぐらをつかんでぐいっと持ち上げる。しかしシートベルトに腰を固定されているためからだは動かず、つかまれた周辺の服地だけがGスーツの作用をうけて、べりっと破れてしまった。そのヲタクは座席についたまま「ひええええ」と脅えた声を上げて座り小便を漏らした。乗客に危害を加えたら、これでもうスッチー2号も3号もなくニセスッチーに決定だ。

 さっき椅子を殴った衝撃で飛行機はすこし揺れている。揺れた拍子に、通路に倒れている伊東の着ているジャケットの下から、液体のつまった赤いゴム風船がぷよんと転がってつばさの足に触れた。
「なにこれ?」と眠っていて風船の正体を知らないつばさは、無邪気にそれをつまみ上げる。
「うわっ。それに触るなっ」と、後から来た中浦が真青な顔になり、つばさにステッキ銃を向けて叫んだ。
「え? これってただの水風船じゃない」
 つばさは風船を手の上でぽよんぽよんと揺らす。乗客のヲタク達は一斉に悲鳴を上げたが、まだこれが芝居なのか本当のハイジャックなのか見極めが付かないのもあって、席を立って逃げだすほどのものはいない。しかし特務隊員はいよいよ脅えた様子でつばさに言った。
「うわ、やめてくれ。危ないから。さ、それをこっちに渡すんだ」
「なんでこんなのが危ないのよぉ。あたしを撃つ気なら撃ってみればぁ。この風船に当っちゃうかもよ」
 つばさは調子に乗って風船をおてだまのように宙に放る。中浦は今度は必死につばさをなだめにかかる。
「やめろ、頼むからやめてくれ。おとなしく渡してくれれば悪いようにはしないから。な、いい子だからさ」
「なによぉ。人のこと子供扱いして。そんなに欲しけりゃあげるよ。ほ〜ら」
 つばさはひょいと風船を放り投げる。ただし通路に居る中浦の方にではなく、機体中央の客席の方にだ。客席からぎゃあっと悲鳴が上がる。同時に中浦は客席の上に身を躍らせて風船を追う。
 必死の形相の中浦は乗客を二、三人潰しつつ、椅子の肘掛の上に腹から着地した。その瞬間「ぐえっ」と妙な音を発したが、かろうじて風船はいっぱいに伸ばした彼の手の中に収まった。大丈夫、割れていない。
 心の中で「ちっ」と舌打ちしたつばさを除いて全員がほっとした次の瞬間、中浦の着ているパーカーの下からぼとぼとぼとと大量の水風船が落下して、それこそ蜘蛛の子を散すようにぷよぷよぷよぷよとキャビンの床を四方に転がり散って行った。
 風船が転がって行ったあちこちから「うわああああ」と声が上がる。こうなるとさすがに乗客も平静ではいられない。捨て身で風船に飛びついた中浦の様子を見れば、とてもただの水風船とは思えないからだ。パニックは急速に広がり、シートベルトを外して逃げようとするものが続出した。

《なんじゃなんじゃ。何の騒ぎじゃ》
 無線を通じてヲジーの声が届く。
 ヲジーの席からは、つばさが立回りを演じているあたりがギャレーの陰になって見えない。したがってパニックもそこまでは拡大していないのだが、その代わり事情も判らないのだ。
「あのね、風船が……」
「席を立つな!」
 太い男の声が機内を制した。つばさの説明が途切れる。あまりの騒がしさに、特務隊リーダーの加藤がビジネス・クラスから出てきて、機内放送のマイクを通して叫んだのだ。
「風船を踏み潰すと死ぬぞ。赤いのは気化爆弾だ。割れると中の液体が急速に気化して、一定の濃度に達すると爆発する。青いのは刺激性の催涙ガスだ。一個で機内全体がくしゃみの渦になる。我々はマスクを持っているがな。それから中浦っ」
 加藤はよろよろと座席から立ち上った中浦に向き直った。
「なんという体たらくだ。我々はこの平和ボケでたるみきった日本に喝を入れ、同時に全世界にあまねく総統閣下の思想を、あらゆる民族をその体制下で平等に扱う汎世界国家としての第四帝国を知らしめるため、死を賭して決起したのだ。たかが小娘に風船を奪われたくらいであれほど狼狽するとは何事かっ」
「し、しかし赤い爆弾が割れると、計画が……」
「口答えするなっ! 我々の一機くらいものの数ではないっ」
 加藤は中浦隊員を張り倒した。
 中浦は加藤に背を向けて呟いた。
「クソッ。いつか殺してやる」
《なるほど大体わかったわい》ヲジーはマイクを通じて届いた加藤の口上を聞いて、勝手に納得した。
「ヲジーちゃんどう思う? あいつの言ってることほんとかな」
《まあほんとか嘘か判らんうちは、本当だと思っていたほうがええじゃろな。確かめたかったら、その風船とやらをあやつらの向って投げてみるとええじゃろ》
「あ、それならもうやったよ。なんかすっごいあせってた」
《なんじゃと? なんちゅう危ないことをするんじゃ》
「なによぉ。やれって言っといて」
 つばさの足元で、トイレのドアと壁との間に挟まれていた江口が意識を取り戻した。彼はふらふらと立ち上がり、頭がぼんやりしたままあたりを見回した。そこでは色違いのスッチーがリーダーと睨み合っている。彼は懐から青い風船を取出して、そのスッチーもどきにむかって声を振り絞った。
「こいつ。これがなんだか判るか」
 つばさはそちらを振り返ってこともなげに言う。
「催涙ガスでしょ」
 加藤はこのマヌケな展開に思わず顔をしかめる。風船を見せびらかした江口は、愕然とした様子で驚きの声を上げる。
「なっ、なぜそれを」
「なぜでもなんでもいいから、青いのも赤いのもあたしによこしなさい。おとなしく渡せば悪いようにはしないから。ね、いい子だから」と、つばさはどこかで聞いたようなせりふを吐きながら江口に近付く。
「なぜ赤いのまで知ってるんだ。くそっ。こうなったら」
 男は風船を床に叩き付けるようなそぶりを見せた。と同時に間合をとったつばさは、男に回し蹴りを喰らわせ……ようとしたところを間一髪でよけられてしまい、脛を座席の背に強打した。激痛が走る。
「ん!……」
 つばさは声も出せない。
《どうしたつばさ》
 ヲジーが心配そうに声をかけるが、つばさの返事はとぎれとぎれだ。
「べん、けいの、なきど、ころが」
《や、そうかしまった。脚は素肌じゃったの。うむ。そこは反重力繊維の効果がないのじゃ》
「ないの、じゃって、あの、ね」
《わかっとるわい。それも今後の課題じゃ》
 つばさは密かに『今後なんてないもんね』と思う。ヲジーの呑気な言葉に腹が立たないこともなかったが、しかし今はそれどころではない。脛を押えてうずくまったつばさを、江口は勝ち誇ったように足蹴にした。
「ふん。このガキが」
「だれがガキだってっ」
 つばさはうずくまった状態から、男の方に手袋に包まれた拳を闇雲に突き出す。重力制御Gスーツのアシストによって威力が倍加したパンチの行く手には、男の股間があった。無言のまま、江口は放物線を描いて吹っ飛び、ちょうどヲジーの横の通路にどかんと落下した。そのまま白目をむいて全身をぴくぴく痙攣させている。

 江口をふっ飛ばしてもなおつばさが悶えていると、「ぱん」と風船が割れるような音がして、背中にかるい痛みを感じた。いよいよ爆発か? とおそるおそる振り返ったが、痛みの原因は風船ではなかった。特務隊のリーダー、加藤が例のバトン銃をつばさに向けて発射したのだ。しかしつばさにはせいぜいエアガンのBB弾がぶつかったくらいにしか感じられない。ヲジーの説明通り、Gスーツは防弾効果をしっかり発揮したのだ。
 つばさは脛の痛みも忘れてゆらりと立ち上り、加藤と真正面から対峙した。無言のままつかつかと歩み寄るつばさに、加藤は表情も変えずに次々と発砲する。弾丸はすべてつばさの胸や腹に命中するが、ヲジーの説明通り、つばさの服に達する直前で全てマッシュルーム状につぶれて床に落下する。
「痛いじゃない」
 つばさの言葉に加藤は耳も貸さず、超然として撃ちつづける。ついにつばさは加藤の目前に達し、彼の銃をつかんで思いっきりひねり上げた。最後の銃弾はあらぬ方に撃ち出され、飛行機右側の窓の一つを射抜いた。
 二重になったアクリルの窓は簡単に貫通され、空いた穴から機内の与圧された空気が外に噴出する。その激流によって、たまたまそのすぐそばに転がっていた赤い風船の一個が、窓の穴に吸い付けられて破裂した。風船の中身はほとんど一瞬にして機外に吸い出され、そこで爆燃を起こす。ガスの濃度が低いため、爆発と呼べるほどの威力はなかったが、それでもその窓周辺の壁は人が立って通れるくらいに大きく裂けてしまった。

 機内の気圧は一気に下がり、あたり一面たちまち水蒸気の霧で白くなる。百台のパイプオルガンが一斉に鳴り出したような音とともに、さまざまなゴミや荷物や機内備付けの新聞雑誌が、次々に窓から吸い出され、天井から酸素マスクがぽろぽろと降りてくる。
 加藤ともみ合っていたつばさは、彼の手からバトン銃をもぎ取った。それと一緒に自分のバトンも動かした、と言うより動いてしまったため、Gスーツの飛行モードが作動してつばさの身体も床から浮きあがった。あっという間もなくつばさはゴミと一緒に窓から放り出されてしまった。
「うひゃー」
 つばさの悲鳴も本人と一緒に吸い出されたが、ヲジーの耳にだけは届いている。
《どうしたんじゃつばさ》
「きゃー、ひー、ぎぇ〜」
 つばさは機外に投げ出されたあと、巨大なGE90ターボ・ファン・エンジンに吸い込まれかけたのを辛うじて避け、右のエンジン・パイロンに近い主翼前縁にしがみついていた。衝撃を受けると瞬間硬化する重力制御繊維でできた手袋の力を借りて、ジュラルミンの表面に指先を食い込ませ、なんとか飛ばされずにいる。しかし、機内の気圧低下に対処するために機長が急降下を始めたのと、ほとんど親指だけで持っているバトンが風に煽られて動くために、それがGスーツの操縦とみなされて身体が浮きあがるのとで、うっかりすると主翼からはがされそうだ。
 加藤から取り上げたバトン銃はとっくになくなっている。まちがってGスーツ用のコントロール・バトンを手離さなかったのは上出来だ。
 とうとうつばさの手元のジュラルミンの板がちぎれ、右手が主翼から離れた。
「うきゃっ」と、つばさは右手の破片を放り投げて、また主翼に爪を立てる。すると今度は、左手の金属が裂ける。それも投げ捨てて爪を立て直す。そして再び右が破れる。横から見ると、ちょうど空中を下手なクロールで泳ぎながら、一掻きごとに機体を破壊しているように見える。

 機内では乗客が酸素マスクをつけ終わったところだ。ヲジーは相変わらずつばさを呼び続けるが、聞こえてくるのはエンジンのかん高い騒音と、それに輪をかけてかん高い叫び声だけだ。
 ヲジーの右の方で窓際に座っている客の一人がふと外を見て、翼のつばさを発見した。
「なんだありゃ! 大変だ。バケモノがエンジンを壊してるぞ!」
 声の届いた範囲の客が揃って外を見る。ヲジーの席からは残念ながら見えないのだが、それでも一所懸命に低い背を伸ばして様子をうかがう。
 最初につばさを見つけたヲタクが、シートベルトを外して立ち上がると、さっきから通路に倒れている江口からバトン銃を奪った。すかさず窓越しにつばさに狙いをつけて発射する。
 さっきと同じように窓は貫通したが、すでにいいかげん外との気圧差がなくなっているので、穴が空く以上のことは起こらない。銃弾も風に流されてつばさには届かない。しかし《ひーーーー》とほとんどかすれた声がヲジーに届き、なにか臙脂色の物体が窓の外を横切って後方へ飛んでいった。
 ヲタクは飛んでいったなにかを銃で追い、どんどん後ろの方に向けて弾丸を放つ。銃口を向けられた方向の乗客は、前から順番に慌てて頭を下げる。さっきからの急降下や機体の損傷で機内は揺れと振動が激しく、もはやヲタクの銃の照準もでたらめで、窓に限らずトランクやシート・カバーのスッチーのイラストにまで弾痕ができていく。
 やがて弾を撃ち尽くしたヲタクは、酸素不足でぶっ倒れた。あやうく撃たれそうになった周りの乗客が、次々にそのヲタクに襲い掛かって取り押さえた。と言うよりタコ殴りにしはじめた。

 彼の行動にあっけにとられていたヲジーだが、すぐに臙脂のバケモノの正体がつばさであることに気付いた。
「つばさ。大丈夫か。落ち着くんじゃつばさ」
《を、ヲジーちゃん?》
 ようやくつばさから悲鳴以外の言葉が返ってきた。
「つばさ、怪我はありゃせんか。いまどこにいるんじゃ」
《け、怪我はないけど、飛行機のそと出ちゃったよ〜。いちばんしっぽのとこに引っかかってる》
「そうかそうか。航空精神注入バトンはまだ持っとるか?」
《持ってる》
「そいつは良かったわい。それさえあれば自力で空を飛べるからの」
《飛べるったって、やりかたわかんないよぉ》
「そのバトンを飛びたい方向に振るんじゃ。あとは引っ込めるまでバトンが向いとる方向に飛び続ける」
《それって使いにくいよ。ちょっと振っただけで飛んだり跳ねたりしてさ。あたしが外に放り出されたんだってそのせいなんだかんね。せめてスイッチくらいつけといて》
「なるほど。それはいい考えじゃ。それも今後の課題として憶えておくわい」
《課題が多すぎるってば。それより、とりあえずどーしよう》
「ひとまず飛行練習がてら中に戻ってくるがいい。なに、そう難しい事じゃないわい。まずバトンを前方に振ってな」
《こう? うわっ》
 ヲジーにはつばさの状況がわからないが、声の様子でどうやら飛び始めたらしいと察しがつく。さすがに心配ではあるので、最大限のアドバイスをするつもりでいるが、なにしろ姿が見えない上につばさの返事は悲鳴ばかりなのでやりにくくてしかたがない。
 そんなヲジーの視界の隅になにか青いものが転がり込んできた。特務隊員が持っていた催涙ガスの風船だった。ついさっきまではまだぷよぷよと弾力を保っていたのだが、気圧の低下で中のガスが気化しはじめ、ぱつんぱつんに張り詰めた球体になって床を走り回っている。
「や、こりゃいかん」
 拾って捨てる間もあらばこそ、たちまち風船は破裂した。酸素マスクの隙間から遠慮なく催涙ガスが入り込み、付近の乗客は激しいくしゃみに襲われる。もちろんヲジーも例外ではない。そのくしゃみの勢いで、ヲジーの入れ歯は酸素マスクごとふっ飛んでしまった。つばさとの通信が途切れる。

 さっきまで垂直安定板にしがみついていたつばさだが、ヲジーに言われるままバトンを振ったら、とたんに風を切って前に飛び出し、たちまち機体から離れてしまった。なにしろ初めてなので振り方の加減がわからない。
 そんな時、つばさの耳の通信機に「ごとん」と妙な音が響いた。
「なになに。きゃー。ヲジーちゃんてばどーしたの。うひー」
 つばさは自分の悲鳴とまぜこぜに呼びかけるが、ヲジーは返事をしてくれない。
「ヲジーちゃんどーしたの。ヲジーちゃんてばぁ」
 パニック状態でバトンをぶんぶん振り回すと、その通りに身体がぶんぶん飛び回る。いつのまにかつばさは飛行機を追い越し、機首の100mくらい前の方でフライング・サーカスのごとくきりきりまいしている。
 彼女の感覚としては、自分でそうしようと思っているわけではなく、ただ振り回されているだけである。その上、Gスーツの重力制御で上下左右の感覚も混乱しているので、だんだん乗り物酔い状態になってきた。
 とうとうつばさは操縦を誤り、飛行機の鼻先に激突した。
「ぶぎゅ」と、モンティ・パイソンの足に潰されたような声を上げながら、つばさは大の字になって機首にしがみついた。そのまま風に押されて、ずりずりとコクピットの方に滑っていく。ちょうどパイロットと向き合う形だ。衝突のショックが乗り物酔いの彼女の胃袋に最後の一撃を与えた。
「うげげげげ〜」
 つばさは思った。ああ、さっき食べた『空飛ぶミニどら』が空飛んで行く……。

 驚いたのは田中機長だ。
 機を乗っ取られて以来の心労と、さっきの与圧抜けによる疲労と、不安定な機体を操って急降下する苦労とでかなりグロッキーになっていた彼だったが、いつのまにか、なにかが前方で蝿のようにぐるぐる飛び回っているのには気付いていた。それが突然自分の方に向きを変えて飛んできたかと思うと、ごつんとかすかな振動を伴って機首にぶつかった。そのなにかは、まもなく蒼い顔でコクピットの正面にスッチーの姿をあらわし、いきなり嘔吐したのだ。
 一瞬、放心状態に陥った機長は、その変な色のスッチーが気流に煽られて脚の方からめくられるようにさかさまに飛ばされてしまってから、やっと反応した。
「う、うわ、うわ」
 機長はあわあわとまわりを見回したが、コクピットには彼一人しかいない。藤田副操縦士はさっきキャビンの状態を調べに行ったままだ。彼としては自分が本当にあれを見たのかどうか、つまり自分が正気かどうかを確かめたいのだ。しかしもはやあのスッチーの姿はないし、窓の汚物もわずかに小倉あんの乾いた痕跡を残して吹き飛んでいる。誰かに確かめる事もできないし、いまの飛行状態ではうかつに操縦輪から手を放せない。
 それからほどなくして藤田が戻ってきた。ビジネス・クラスに陣取っているエミリーと、エコノミーのキャビンに彼を通す通さないで押し問答していたため、破損個所の確認に余計な時間がかかったのだ。
「いやまったくひどいもんでした。どうやら連中が持っていた例の風船爆弾が破裂したようで、窓のあたりに大穴があいて……どうしたんです?」
「す、す、すっちぃが」
「ああ、クルーは全員無事ですが。さっきも爆発の直後に点呼を取ったじゃないですか」
「違う。赤いやつだ。赤いスッチーがいまそこでげぇっと吐いた」
 機長は正面の風防越しに宙を指差す。副操縦士がいまさらそちらを見ても、当然だがなにもない。それより錯乱しかかっている機長の方が心配だ。
「吐いた……確かにガラスは少し汚れていますね。鳥でもぶつかったんじゃないですか」
「鳥だと? 洋上の高度一万フィートでバード・ストライクだと?」
「それはそうですが、ありえないことではないでしょう。一万なら富士山の頂上より下ですし。それより操縦を私と交代しませんか。いいかげんお疲れでしょう。いまなにか冷たいものでも持ってこさせますから」
「そう。そうだな。頼む」
 藤田副操縦士は再びキャビンに取って返す。なにか飲み物を、と言うのは嘘ではないが、むしろスチュワーデスに機長の容体を伝えて介抱させるのが目的だ。コクピットに呼んで指示したのでは、自分が機長をどう見ているのかを知られてしまう。
 実のところ、彼は乗客の中にバケモノを見たと騒いでいたものがあったのは聞き及んでいた。しかしそれを今の機長に言っても、状況を悪化させるだけだ。

 機長は自分が見たものをとにかく他者に伝えたことで、いくらか気分が落ち着いた。あれが鳥だと言う説は信じ難かったが、スッチーが飛んできてもどしていったと言うよりは合理的だ。
 彼は航空無線の存在を思い出し、震えた声で那覇の管制官を呼び出した。
「コントロール、那覇コントロール、こちらHKZ427。い、いま、スッチー、いや、いま当機となにかニアミスしなかったか?」
《こちら那覇コントロールです。レーダーにはなにも映っていません。ハイジャックの報告を受けてから、他の便はそちらに近付かないように誘導しています》
「そ、そうか。本当だな」
《本当ですよ。またなにかあったんですか》
「い、いや、よくわからないが。機体になにかがぶつかった……らしい」
《そうですか。なんにせよそう大きな物ではないでしょう。レーダーはなにも捕らえていないようです。ボディの破損個所から破片でも飛んだんじゃないですか。さきほどエンジンの近くになにか引っかかっているとおっしゃっていたものは、どうなりましたか?》
 機長はスロットル・レバーの前にある液晶パネルに目をやる。そこには尾翼の付け根にあるカメラでとらえた、エンジンから着陸脚周辺(今は引っ込んでいるが)の映像が映っている。エンジンの近くの『なにか』とはすなわち機外に放り出された直後のつばさのことで、この液晶パネルではその正体まではわからなかったのだ。もちろん現在はなにも引っかかっていない。
「どうやらなくなったようだ。エンジンも正常だ」
《そうですか。他に異常は?》
「多分、ないと思う。破損個所はコパイが見に行ったが、すぐに墜落するようなことはなさそうだ」
《了解。なにかあったら知らせてください。お気をつけて》
 そうだ。破片だ。この機体は外側にでかでかとスッチーのイラストが描かれている。インテリアにだって、これでもかとばかりにあのイラストがついている。機体の損傷個所から飛び出したそういった物が、何かの拍子にコクピットの前に飛んできた可能性……は、バードストライクよりもさらにありそうもなかったが、機長は深く考えないことにした。
 彼は無理やり自分を落ち着かせて、深呼吸をしようと大きく息を吸った。ふと視界の隅で踊る赤いものに気付いて、彼はそのまま息を呑んだ。
 さっきの赤スッチーがコクピットのすぐ横に居た。仰向けになって、犬掻きのようにもがきながら宙に浮いている。このB777とほぼ同じ速度だ。と言うことは対気速度が時速400kmかそこらと言うことになる。
 スッチーはもがきながらくるりと回転し、コクピットの機長と目が合った。彼女は前の開くスカートから脚がはみ出しているのに気付いたらしく、慌てて足を伸ばすとバトンを持っていない手でスカートの前を掻き合わせた。そのままなにか照れ笑いのようなものを浮かべ、すーっと後ろの方に流されていった。
「出たっ。出たぁっ」
 田中機長はついに自分を失って絶叫した。操縦を投げ出してそのままキャビンに逃げ込もうとするが、脚が言うことを聞かない。シートから抜け出すこともままならず、じたばたともがくうちに、操縦輪の端がズボンのベルトに引っかかった。倒れそうになってとっさについた左手がスロットルを全開にした。与圧抜け以来の低速飛行で、フラップはずっと半開きになっている。
 機長の腰に操縦輪を引かれているB777は、ピッチの保護域を越えてどんどん機首を持ち上げていく。ついに機長は腰のベルトで操縦輪からぶら下がるような格好になってしまった。
 機長の叫び声を聞きつけた藤田副操縦士はコクピットにかけ戻ったが、その途中で突然の急加速によって後ろによろけた。そこへ急激な機首上げが始まったせいで体のバランスを崩し、彼はそのままひっくり返ってビジネスクラスの方まで滑り落ちた。そこでなんとか空いた座席にしがみつくことができたが、床の傾斜は増して行くばかりで、通路を登ってコクピットにたどり着くのは絶望的だ。

 一方こちらはつばさの方だが、バトンを無闇に振り回す元気がなくなると、かえってつばさの姿勢は安定した。吐くだけ吐いたことでパニックからも徐々に抜け出し、自由自在とまではいかないにせよ、いくらか操縦のこつもわかってきた。
 要するに、自分自身の対気速度と飛行機との相対速度とを混同しないように注意すればいいのだ。いままで機体の中に乗っていたので、つい機体を基準にして速度を考えてしまったのが混乱の元だ。ついでに上下の見極めもなんとなく付くようになってきた。
 コクピットの機長に挨拶も(心ならずも)すませ、つばさはとりあえずふたたび垂直安定板に戻ろうと後方に漂っていた。漂うと言っても飛行機より少し遅いだけのスピードで並進しているわけだが。とにかく彼女は尾翼に寄りかかって、これからどうやって機内に戻るか落ち着いて考えるつもりだった。
 ところが彼女がそこにたどり着く前に、左右両方の尾翼の昇降舵がくいっと跳ね上がり、機体後部がすっと下の方に下がった。つばさは空中に取り残される。それと前後してエンジンの音が変わり、スピードが上がり始める。
「なに、なに?」
 つばさは危うく垂直安定板を取り逃がしそうになり、急いでバトンを振って追いかける。彼女はぎりぎりのところで飛行機の尻尾の先を捕まえることができた。Gスーツの操縦に慣れてきたとは言うものの、それは水平等速運動に限っての話である。いま起きたようにそれ以外の機動で引き離されたりすると、また追いつくのが一苦労だ。

 さらに他方、ヲジーのいるキャビンでは、極端な機首上げによって、前方からさまざまなものが転がってきていた。通路に倒れていた特務隊員はもちろん、小は機内サービスのおつまみピーナッツから、大は軽食サービス用のカートまで、荷物入れのふたもばたばた開いて、乗客のバッグやおもちゃの航空精神注入バトン、雑誌やヘッドホンなどの備品類、はてはシートベルトを締めていなかった乗客さえも、およそ機内で動くもの全てが通路を後ろへと転落していく。
 催涙ガスはとっくに飛行機の外へ抜けたあとだったが、まだ多くの乗客は涙目で洟水も止まらない。ヲジーはそんななか、ちょうど足元に滑ってきた入れ歯兼通信機をすかさず回収、装着し、洟をすすりながらつばさを呼び出す。
「つばさや、生きとるか。ぐしっ」
《あ、ヲジーちゃんこそ生きてたの。急に黙るから困っちゃたよ》
「すまん。入れ歯が飛んだんじゃ。ぐすっ。しかし無事でよかった。ぐしっ」
《無事だから、ヲジーちゃん泣かないで》
「いや別に泣いちゃおらんのじゃが」
《なんですと?》
「いやいや、心配じゃったよ。ぐすっ。それよりつばさ、今どこにおる?」
《またしっぽのとこ。ねえ、なんか変じゃない? 飛行機がどんどん立ってくけど》
「そうじゃ、どうもおかしい。このままじゃ失速してしまうわい」
《失速ってなに?》
「機体の姿勢が悪いと、空気抵抗が大きくなりすぎて速度が落ちてな、飛んでいられなくなるんじゃ」
《それって大変じゃない》
「大変じゃ。じゃから落ちないように支えておくれ。今しっぽのところにおるんじゃろ。じゃったらまずバトンの羽根のところの青いランプを押すのじゃ、するとランプが赤に変わってGスーツがスーパー・チャージ・モードになる」
《わかった》
「ただしそのモードは3分間くらいしか持たん。使いすぎると加熱するから気をつけるんじゃぞ」
《タイマーとかないの》
「ないのじゃ。熱くなったら通常モードに戻しなさい。うっかりすると重力制御繊維が融けて流れてみな同じになってしまうからの」
《ええっ。そしたらあたしってばハダカんなっちゃうじゃん》
「いやまあ、その前に火傷でそれどころじゃなくなるじゃろう」
「げっ」

「まったくもう、ヲジーちゃんの作るものは中途半端なんだから」と思いながら、つばさは垂直安定板を伝って胴体の最後部に移動する。
 そうこうしているうちに、機体はほぼ真上を向いてしまっており、すでに失速に入っている。素人のつばさにも、飛行機の勢いが明らかに落ちていることがわかる。
 つばさはヲジーに言われた通り、青く光っているバトンの宝石ボタンを押した。おもちゃのバトンでは、ここを押すとスッチー変身時のメロディがちんけな音で流れる。だが、ヲジー作のバトンはメロディの代わりにボタンのランプが赤くなり、服の温度が上昇し始めた。
 赤ランプを確認して、つばさは機体を左肩に担ぐような体勢になり、バトンを真っ直ぐ上に振り上げる。右利きのつばさはほんとうは右肩に担ぎたかったのだが、飛行機のしっぽの左側には変なパイプがあって、そこから熱い排気が吹き出しそうな感じなので左肩にしたのだ。
 ぐぐっとつばさの肩に膨大な重量がのしかかる……かと思いきや、実際につばさが受けた感触はさほどでもない。つばさは以前にママチャリでよそ見運転していてどぶにはまったことがあったが、そのママチャリを肩に担いで這い出した時くらいの重量だった。それでも上昇力を失った機体は、墜ちるでもなくどうにか浮いている。
「ん、意外と軽い」
《そうじゃろ。スーパー・チャージの場合は、服の表面から2m程度の範囲の重力をコントロールできるのじゃ。いまの場合、機体の一部がほとんどの重量を支えとるわけじゃ》
「そっかー。でもさ、この飛行機の壁って、あたしのまわりだけなんか前の方にめり込んでるみたいだけど?」
《なに。そりゃいかん。機体構造に無理なストレスがかかっとる。機体を倒すんじゃ》
「え? 倒しちゃっていいの?」
《機首が下がれば揚力は回復するじゃろ。どのみちスーパー・チャージがそんなに持たんから、いつまでも支えとるわけにはいかん》
「わ、わかった」
 ヲジーは機体を水平に戻せと言う意味で「倒せ」と言ったので、正しくは飛行機の背の方に向けてバトンを振らねばならない。しかしつばさは飛行機の舵の取り方など知らない。つばさはバトンを無造作に横に倒した。『横』と言うのはこの場合、飛行機の腹の方向だ。今まで垂直上方に向いた機体をその軸に沿って支えていた重力が、こんどは機体後端を腹側に押す。
 巨大なB777は空中で一瞬静止し、ゆっくりと尻から降下しつつ背中側に倒れていく。曲技飛行『テール・スライド』の体勢だ。

 機内では、キャビン最後部に落ちるだけ落ちて積み重なっていた物体が、機体の回転にともなって天井側に移動しはじめた。カートや荷物と一緒に折り重なっていた乗客が、荷物の移動で改めて潰され、悲鳴を上げる。
 やがて飛行機は胴体が裏返しの状態で水平になり、それを通り越して機首が下がり始める。床が上、天井が下になり、シートベルトを締めていた乗客も椅子に座ったまま上下逆さになっている。
 ベルトを締めておらず、キャビン後方にも落ちずにいた乗客は、いまや天井に足をつけて頭上の座席にしがみついたりぶら下がったりしている。そこへ機内に散乱するもろもろの残骸が、キャビンの後方から前方に吹っ飛んでいく。辛うじて立っていた乗客も、ほとんどがその巻き添えになって落下していく。
 ベルトを締めていても、逆転した姿勢でしっかり座っていることは不可能だ。耐え兼ねた乗客が次々に脱落してしまう。
 一般客と逆向きに、進行方向に背を向けて座っている乗務員の中には、雹のように降ってくるがらくたをまともに受けて、負傷したものもいるようだ。

 機体がひっくり返るのに従って、つばさの肩にかかる重量は急激に減った。それまでしっぽの方に向かって滑って行こうとする機体に押されつづけていたのが、今度は逆に頭を前にして落下していく飛行機に引っ張られる格好になる。
 ヲジーの予告通りGスーツが熱くなってきたので、つばさはバトンを引っ込めてボタンを押し、青のノーマル・モードに戻す。
 機体尾部は文字どおり振り回され、そこにいるつばさは振り払われないように抱きつくのがやっとだ。バトンを振って加速度をどうこうするなどという余裕はなくなった。

 藤田副操縦士もこの大回転によってすがり付いていたビジネス・クラスのシートから引き剥がされ、さっきとは反対にコクピットに向かって落下する。閉じているドアに激突した藤田の右肩に激痛が走り、ドアが壊れてコクピットの中に落ち込んだ。
 背面から垂直降下の姿勢に移って墜ちて行く機体の中、藤田はコクピットのウィンド・シールドと多目的ディスプレイ・パネルの接するところまで天井を滑り落ちた。まわりを見ると、目を回した機長が自分の下で風防の隅に沿って伸びている。
 彼はこれ以上機長の身体やディスプレイ周辺のスイッチ類を踏まないように気を付けながら、右側にある自分のシートに滑り込む。飛行機はほとんど垂直下向きになっているため、操縦輪をまたいで両方のペダルの上に立つ姿勢になる。
「機長。田中機長。大丈夫ですか? いったい何があったんです」
 藤田は手を伸ばして機長の身体をゆすりながら声をかけるが、目を回した機長は要領を得ない呻き声を上げるだけで、まともに答えられない。
 機長の身体越しに前方を見ると、すぐそこに波立つ海面があった。高度計は6000フィートを割って急降下していることを示している。これはもう機長などかまってはいられない。
 彼はとっさに大根抜きのような姿勢で操縦輪をえいやとばかり思い切り引いた。ドアをぶち破るときに傷めた右腕は満足に力が入らないが、この際それをかばうどころではない。右手で操縦輪を支えて左手でエンジンを絞り、フラップを全開に、ついでに着陸脚にスポイラーに出るものは全部出して、少しでも降下速度を緩めようとする。

 高度は5000フィートを切り、4500、4000と瞬く間に減っていく。やがて機首が徐々に上を向きはじめ、機長の身体が計器パネルの上にずり落ちてくる。藤田副操縦士が機長をどかそうとした時、機長の手がスロットル・レバーのスラスト・リバーサーに引っかかった。エンジンが逆噴射を始める。
「機長、なにをするんです。やめてください!」
 藤田が叫ぶが、心神喪失状態の機長に通じるはずもないし、そもそも機長がやろうとしてやったことではない。
 降下速度は落としたいが、さすがに逆噴射まですると機首下げモーメントが働いてやっかいだ。機長をどかすのはあきらめて、リバーサーだけをもとに戻す。
 すでに前方視界はいっぱいに海だ。高度は1000フィート、500フィート、100フィート。後ろに流れて行く波の一つ一つまではっきり見える。機体の俯角は30度から20度、10度。そして水平を取り戻す寸前、前輪が波を叩いて水切りの原理で跳ね返された。藤田はその衝撃を合図にエンジンを全開にする。

 海面すれすれでエンジンをふかしたため、ジェットの排気が海水を巻き上げて、台風の高波のように機体後部へとあびせかける。つばさのGスーツは、しがみつく手足のまわりに出力を集中していて、それ以外の部分は手薄になっている。襲いかかってくる海水を防げない。つばさはずぶ濡れになった。
 最後に胴体下面の後部の反り返った部分が波を切り、ようやくB777は安定を取り戻した。通常の離陸と同じようにどんどん高度を上げていく。
 一息ついたつばさはヲジーを呼んでみる。
「ヲジーちゃん?」
 返事はない。
「ヲジーちゃんてば」
 やはり沈黙が続く。ヲジーの身になにかあったのだろうか。
 墜落の危機を脱して、飛行機から振り落とされる心配はなくなったつばさだが、濡れねずみで吹きさらしの状態で、しかも高度が上がって行くので寒くてしかたがない。ヲジーも心配だし、早く機内に戻りたいが、ヲジーの作ったGスーツは生地が薄いため、濡れていると肌に貼り付いて身体のラインが丸出しになっている。それにこころなしか透けてもいるようだ。
 つばさとて、せっかくの沖縄旅行だから、水着くらいは(それも思い切ってビキニだ)かばんに忍ばせてきていたが、水着ならまだしもこういう普通の服……に近いものを着て濡れているところを見られるのは、なんとなく嫌だ。なんとか服を乾かしたいが、この調子では乾くころには凍死していそうだ。
 つばさはさっきのスーパー・チャージ・モードで服が発熱したのを思い出し、羽根の付け根の宝石ボタンを押した。再び宝石が赤く輝き、徐々につばさの身体は暖まってくる。そのまま5分ほど待って、いくらか服が乾いてきたところでスーパー・チャージを解除し、慎重にバトンを振ってキャビンの横の穴に向かって漂っていく。

 二度ばかり狙いを外して穴の周りに額をぶつけたが、つばさはどうにかキャビンに戻ることができた。
 しかし内部はひどいありさまだ。天井からは酸素マスクが下りているが、ちゃんと装着に耐えるものは少なく、ほとんどがちぎれたり絡まったりしている。サービス用のカートは前後にふっ飛ばされる途中で中身をぶちまけ、内装はジュースやらなにやらが生乾きになってべたべたしている。客の荷物もばらばらと散乱し、ヲタクのツアーらしくスッチー・グッズがそこかしこに散らばっている。通路に倒れている者の姿はこの付近には見当たらないが、席に着いている客にも怪我をした者がいるようで、うめいたり血を流している者もいる。
 つばさはなにはさておきヲジーを探す。さっきの曲芸飛行以来、ヲジーはなにも言ってこないし、この惨状を見るとさすがに不安になる。
 席に戻ってみると、ヲジーはちゃんとベルトを締めて腰掛けたまま、がっくりとうなだれていた。さすがにさっきの急降下急上昇が老体にはこたえたらしい。つばさは膝をついてヲジーの顔を覗き込み、肩をゆする。
「ヲジーちゃん? ヲジーちゃんっ!」
 つばさはいよいよ強く肩を揺さぶるが、かくんかくんと虚しく白髪頭が動くだけで、一向に目を覚ます気配がない。

「そう、あなただったのね」
 つばさの背後で女の声が言った。振り向くと、そこにはエミリーが立ってつばさを見下ろしていた。
「銃で撃っても弾き返す怪力娘が居るって聞いたけど。そうだったの。深山さんがボディ・アーマーかなにか作っていたわけね。そのコスプレ衣装がそうかしら」
 つばさは立ち上がり、エミリーと向き合った。
「ヲ、ヲジーちゃんが、ヲジーちゃんが」
「そう、お気の毒に。でも、私の部下もみんな重傷だわ。残ったのは私だけ。この飛行機もボロボロだし、私たちの任務はこれでおしまいね」
「あんたたちが、あんたたちのせいで、ヲジーちゃんが……」
 つばさは激情に襲われて声にならない。どっとあふれ出る涙も払わず、つばさはエミリーに飛び掛かった。
 エミリーはとっさに後ずさり、すんでのところでつばさの突進をかわした。つばさはもんどりうって窓際の席に突っ込んだ。
 つばさが立ち上がったところに、エミリーの長い脚が飛んできて、鳩尾を蹴り上げた。銃弾の時と同じくGスーツがエミリーのキックを受け止めたが、運動量保存の法則でつばさはぐらっとよろけた。よろけた隙にエミリーはつばさの襟元と袖をつかみ、背負い投げに持っていく。つばさごとき素人と違って技のキレが鋭い。
 エミリーに投げ飛ばされたつばさは、とっさにバトンをエミリーの方に振り、ゴムひもで結ばれているかのごとくエミリーのもとに舞い戻った。エミリーは予想外の動きに連続攻撃をかけることができず、しゃがんで避けるのが精一杯だ。
 しかしつばさが頭上を通過する瞬間、エミリーは全身の力で下から拳を突き上げた。同時につばさはエミリーの赤毛の髪を引っつかむ。エミリーのパンチを腹に受けたつばさは、エミリーの頭を軸にぐるんと一回転して床に降り立った。
「いたたたっ。なにするのっ」と髪を背中の方に引っ張られたエミリーがのけぞって叫ぶ。
「なに言ってんの、人のことさんざん殴ったり蹴ったりしといて」
 つばさは髪を離してエミリーを突き飛ばす。エミリーはGスーツが肋骨に加えた息詰まる加速度になんとか耐えた。
「なに言ってんのとはなによ」
 エミリーもつばさを突き飛ばし返す。
「なによとはなによ」
「なによとはなによとはなによ」
 つばさは立て続けにエミリーの肩を手のひらで突く。エミリーは突かれて突き返すたびに少しずつ後退する。そこをつばさがどすこいどすこいと突きまくる。バトン銃がなくなった代わりに、二人で違う『てっぽう』の撃ち合いだ。
 何回「なによとは」を繰り返せばいいのかわからなくなったころ、二人は飛行機の横腹にあいた穴のところに達した。
 あと一押しでエミリーを外に放り出せるところまで来て、つばさは最後の突きを躊躇した。これまではヲジーの事で頭がいっぱいだったが『いまこの手を伸ばせばこの女は確実に放り出せる、放り出せば必ず落ちる、落ちれば間違いなく死ぬ、あたしが殺すんだ』と言う思いが瞬間的につばさの攻撃を鈍らせたのだ。
 土俵際のエミリーはつばさの逡巡を見逃さなかった。中途半端に押してきたつばさの右手を抱え込み、逆につばさを機外に引っ張り出そうとする。エミリー自身はすでに半身そとに出ていて、死なばもろとも捨て身の体勢だ。つばさはそばのシートの背を抱えてふんばる。手がふさがっているので、バトンでどうにかすることはできない。二人の顔が文字通り目と鼻の先に近づいた。
 そんな状態にありながら、エミリーはにやりと笑みを浮かべて言った。
「詰めが甘いね。でもあなた、動きはめちゃくちゃだけど見所があるわ。そのコスチュームを持って、お爺さんと一緒に私達のところに来ない? 東亜特務隊なんて言わないわ。第四帝国の幹部候補として鍛え直してあげる」
 つばさはこの物言いを聞いて、かっと頭に血が上った。
「なっ、なにを……」
 これ以上は言葉にならない。その代わりに脚が動いて全力でエミリーを蹴飛ばした。破口のふちにかけたエミリーの手が外れる。残る彼女の支えはつばさの右手だけだ。エミリーの表情がとたんにこわばり、反射的につばさの右手を両手でつかみ直した。その刹那、重力制御繊維製の手袋がつばさの手からするりとはずれ、エミリーは風とともに虚空の中に消えた。エンジンの轟音さえも圧する悲鳴は、つばさのものかエミリーのものか、本人たちにもわからない。

 エミリーが居なくなって彼女にかかっていた風圧がふいになくなったため、つばさは反動で床に転倒した。慌てて立ち上がり、壁の穴から機外に身を乗り出して見たが、もはやエミリーの影も形もなかった。
 つばさはエミリーを探して、放心したようにふわふわと主翼の下に漂い出た。フラップの隙間や出しっぱなしになっている主輪にもエミリーの姿はない。エンジンに吸い込まれたの? と恐ろしい考えが頭を一瞬よぎったが、エンジンはなんの異常もなく回り続けている。
 つばさははるか下の海面にも目を走らせたが、広大な視野の中でどこに落ちたかもわからない人影を見つけるのは、どだい無理な話だった。
 それでもエミリーがどこかに引っかかっていないかと、主翼の裏表や胴体の先端から後端まであちこちを見て回ったあげく、ついに諦めたつばさはふたたびふわふわと機内に舞い戻った。

 戻ってきたつばさを迎えたのは、乗客の大半を占めるヲタクたちの歓呼の声だった。飛行もどうにか安定して、ハイジャック犯のうち最後まで無傷で残っていたエミリーもいなくなった今、彼らのほとんどは立ち上がって、拍手やらヒューヒューと口笛やらでつばさを出迎えたのだ。
 テール・スライドの時にベルトを締めていなかった者は、何らかの怪我を負ってビジネス・クラスに掃き溜められているので、人数は半減してしまっていたが、それでもつばさを驚かすには充分だった。
 いつのまにか彼らの声は「ストラト・スッチー」の大合唱になっている。
「え? え? あたし?」
 そう、つばさはハイジャック犯を片付けて、飛行機を墜落の危機から救った正義のヒロインその人なのだ。
「ストラト・スッチー、ストラト・スッチー」
「え? えへ。えへへ。やっほー」
 つばさははっきり言ってヲタクが嫌いだが、これだけわいわいと盛大にはやしたてられると、根が単純なだけに悪い気はしない。エミリーの事はひとまず置いといて、まずはヲジーの音頭でスッチー・コールを繰り返す彼らに……。
「ヲジーちゃん!」
「おお、おお、つばさや。よくやったのぉ。まったく大活躍じゃ」
 さっきはあんなにゆすっても、まったく反応を示さなかったので、てっきり死んだとばかり思っていたヲジーだ。そのヲジーが満面に満足そうな笑みを浮かべてつばさに抱き着いてきた。
「ヲ、ヲジーちゃん……生きてたの」
 つばさはまたヲジーの肩をつかんで激しく前後にゆさぶる。
「ほげほげ、そう揺するでない。わしゃ生きとるよ。ヨーロッパの戦火を潜り抜けてきたわしじゃ。そう簡単にくたばってたまるかい」
「よかった〜」
 つばさは安堵のあまりその場にへたり込む。
「よしよし。えらいぞつばさ。ハイジャック犯は全員ぶちのめしたんじゃろ? あの太刀風のお孫さんもこれで改心するじゃろ」
「え……あのエミリーって女の人?」
「そうじゃ。おおかた前の方で怪我人に混じって転がっとるんじゃろ」
「そ、そうだと、いいね。あはは」
 どうやら何も知らないらしいヲジーに向かっては、いましがたエミリーを蹴落としたとはとても言えない。ただぎこちない作り笑いでごまかすだけだ。
「しかし響ちゃんも一体どうしたんじゃろう。あいつは家族思いで、孫にこんな危険な事をやらせるようなやつじゃなかったんじゃが」
 孫に危険な事させてるのは自分でしょ、とつばさは心の中で思う。
 それはそれとして、やはりエミリーの事は気がかりだ。しかし、ハイジャックを実質的に指揮していたのはエミリーだったようだし、最後の言葉からすると、彼女自身も第四帝国の幹部クラスだったのかもしれない。それなら彼女があれで死んだとしても自業自得だ。世の中のためでさえあるのかも……

 つばさの物思いは、ものの十秒ともたなかった。騒動が収まって本来の業務を始めた――と言うより緊急事態に対処し始めた――本職のスチュワーデスによるアナウンスが祝勝気分を破ったのだ。
「乗務員よりお客様におたずね致します。お客様の中に、お医者様や看護婦の資格をお持ちの方はいらっしゃいませんでしょうか。いらっしゃいましたら、ぜひ怪我人の手当てをお手伝いいただきたく存じます」
 そう、飛行機そのものはなんとか墜ちもせずに飛び続けているものの、あれだけのアクロバット飛行の後だ。怪我人は大量に出ている。もちろんすべてがつばさのせいではないが、ちょっとは責任を感じないでもない。
 幸いなことに医者はヲタクの中に一人いて、さっそく名乗りをあげて負傷者が溜まっているビジネス・クラスに向かった。
 そして続くアナウンスはもっと恐るべき内容だった。
「それから……あの、誠に申し上げにくいのですが、お客様の中に、飛行機の操縦ができる方はいらっしゃいませんでしょうか?」
 一瞬、機内がしんと静まり、すぐにどよどよざわざわと不安げな私語が始まった。飛行機を操縦できる人間が必要、と言うことは、いま、この飛行機は誰が操縦しているのだ?
 しかしキャビンがパニックに包まれる前に、ひとり手を挙げたものがいた。
「わしじゃ」
 ヲジーである。
「おおー」とまわりから一斉に驚きの声が上がる。
 ヲジーは自信たっぷりに堂々とコクピットに向かって歩んでいく。そんな姿に、乗客達の声援が飛ぶ。つばさはあっけにとられてヲジーの後ろ姿を見送っていたが、はっと気付いて後を追った。『ヲジーちゃんてば”また”嘘ついてる』と思ったからである。

 ヲジーはスチュワーデスに案内され、大勢の怪我人がうめいている修羅場のビジネス・クラスを通り抜ける。
 ツアーのスタッフ達は、さっき名乗り出た医師の指示のもと、やっと立ち直ったチーフ・パーサーやスチュワーデスに混じって怪我人の手当てに加わっている。その中には、本来スッチーをやるはずだった池田春香の姿もあった。つばさは彼女とすれ違いざま目が合ったが、彼女は変な色のスッチー衣装をまとったつばさに、ちょっと怪訝そうな顔を見せただけだった。
 医師は「助かりそうな者から先に手当てしろ」などと周囲を叱り付けている。まるで戦場の軍医である。怪我人にはハイジャック犯である特務隊のメンバーも混じっていたが、こちらは助かりそうなのにほったらかしにされている。

 コクピットでは藤田副操縦士が機長席に移って孤軍奮闘中である。その横で田中機長は相変わらず気を失っている。さすがにスロットル・レバーの上からはどかされて、狭い床に寝かされていた。
 藤田は「や、や」と敬礼だか普通の挨拶だか区別の付きにくい仕種で入ってきたヲジーを見て、少なからず驚いた。しかもその後ろには機長が言っていた『赤いやつ』がついているではないか。彼は思わず声を上げた。
「うわっ」
 つばさはその反応が気に食わない。瞬間的に眉毛が十時十分をさす。
 藤田は気を取り直してヲジーにたずねた。
「……失礼しました。あの、あなたが操縦のできる方、ですか?」
「そうじゃよ。昔とった杵柄と言うやつじゃ。ふぉふぉふぉ」
 片腕をくじいた副操縦士としては、万一乗客に現役パイロットでもいて手伝ってくれたら、これから行うハード・ランディングを前にして心強い、くらいの考えでアナウンスを入れさせたのである(それにしても、もう少し表現を考えて欲しかったとは思ったが)。しかしこの老人では、シートに座ってもラダー・ペダルに足が届くかどうか、前が見えるかどうかすら怪しい。しかし一応は念を押してみる。
「そうですか。それで機種はなんですか? いわゆるセスナ機とか、それともビジネス・ジェットかなにかで」
「軍用機じゃ」
「軍用……ですか。となるとF86とか?」
 ヲジーが気を悪くしたような調子で軍用機だと言ったので、副操縦士はとりあえず戦闘機、とはいえ航空自衛隊でも最も昔の機種の名を上げてみた。その辺ならまだ可能性があると思ったのだ。
「いやいや、九三式陸上中間練習機じゃ。橙色に塗られた、いわゆる赤とんぼと言うやつじゃな」
「う……それで、飛行時間はどれくらいで……」
「ざっと10時間てところじゃな」
「はぁ……それで、単独飛行はなさったんでしょうか?」
「もちろんじゃ。ドイツまで飛行機の共同研究に行くのに、自分で操縦したこともないじゃ話にならんでな。箔をつけるためもあって、一つ稽古をつけてもらったんじゃ。あの頃はなにしろ搭乗員が不足しとっての。手っ取り早く操縦を仕込まにゃならんと言うので、実に能率良く訓練をやっとった。じゃから結構すぐに単独飛行をやらせたんじゃよ」
「なるほど。では一応は着陸も経験なさってらっしゃるんですね」
「そう。一回だけじゃがな。その一回で降りたとき、いきなり脚が折れおって、前につんのめるように機体が逆立ちしてしもうた。あの時は死ぬかと思ったわい。おまけに、もともと戦力外のわしが、ただでさえ貴重な飛行機を壊したと言うので、教官がえらい剣幕で怒っての。それっきり乗せてくれんかった。しかしあれはいい経験じゃったよ」
「ううむむむ」
 副操縦士はヲジーの話を聞いて、思わず唸り声を漏らした。感心したわけではない。縁起でもないのを呼んでしまったと後悔の唸り声だ。彼は半分諦めたような口振りで言った。
「わかりました。ずぶの素人よりはまし、いや、頼りになるでしょう。実はさきほど、どうしたわけか機体が宙返りしまして、危うく海に突っ込むところでした。きわどいところで姿勢を立て直しましたが、その際に前輪が海面に触れまして、支柱が損傷してしまいました。これをご覧ください」
 副操縦士はスロットルの前にあるパネルを指し示す。そこには尾翼のカメラで撮影している前輪と主輪が映っている。もともとは地上でのタキシングの際に、脱輪しないように注意するためのカメラだが、言われた通り素人目にも前輪がひん曲がっているのがわかる。
「ごらんの通り、これではまともな着陸はできません。主輪は見たところしっかりしているようですから、接地後も速度が落ちるまでできる限り機首を浮かせておくつもりですが、おそらく最後は胴体着陸に近い状態になると思われます。それにもともと旅客機は宙返りなど考慮して設計されていませんから、機体構造に相当無理がかかっているはずです。何が起きるか予想できません。あなたはそちらに座って、必要な場合には私が指示しますので、お手伝いください。全ての責任は私が取ります」
「うむ。ようわかった。なんでも任せなさい」
 ヲジーはどんと胸を叩いた。そして一緒についてきたつばさの方を振り返る。
「ほれつばさ、もといストラト・スッチー。出番じゃぞ」
「へ? あたし?」
 今まで口も出せずに(技術的な話はわからないし、まさかこの状況で、ヲジーがほら吹きだとは言い出せなかったので)ただヲジーの背後に突っ立っていたつばさだったが、いきなり自分に話を振られ、ぴくっと驚いて自分の鼻先を指差す。
「だってあたし、飛行機の運転なんて知らないよ」
「誰も操縦せいとは言うとらん。ちょっと外に出てな、前輪の支柱に抱き着いておくれ」
「あ、そっか。それでバトンを上に振れば」
「そうじゃ。飛行機が停まるまで支えておけば充分じゃからな。飛行モードのGスーツは、バトンを下に向けない限りは高度を維持して、地面にこすったりないようになっとる。じゃからつば……いやお前さんは脚をぴんと伸ばしてな、あのタイヤより下に足先が出るくらいのところにおればええ。いよいよ着地となったらスーパー・チャージじゃ」
「うん、わかった」
 こんどのつばさは意外に素直にコクピットから出て行った。さっきのエミリーや怪我人の事もあって、これが罪滅ぼしのような気持ちになっているのだ。
「あのう。今のはなんのお話なんですか?」
 後に残った藤田副操縦士がヲジーにたずねる。
「なに、すぐにわかるわい。ふぉふぉふぉ」

 なるほどすぐにわかった。
 まもなく前輪を映すパネルにストラト・スッチーことつばさがすーっと現れ、ヲジーに言われた通りに捻じ曲がった前輪を抱きかかえたのだ。もっとも、どうやってかかえるかでしばらくあれこれと迷ってはいたが。
 ヲジーは副操縦士席に座って、前輪の映ったパネルを見ながら「もうちょっと下じゃ。いやそれじゃ挟まれる」などぶつぶつと独り言をつぶやいている。実際は入れ歯通信機でつばさに指示しているのだが、それは藤田にはわからない。善意に解釈するならば、つばさの行動がじれったくて思わず声に出た、と言うところだが、それよりはなんだかボケが始まった老人のように見える。
 つばさはようやくちょうどいいかかえ方を見つけたらしく、カメラがある(であろう)方向にVサインを送った。
「ようし、ええぞつばさ、あ、いやストラト・スッチー」と、ヲジーの声はつい大きくなる。ヲジーがふと視線を上げると、不気味なものを見るような目つきの藤田と目が合った。
「いったいなんなんです? これは」
 彼は液晶パネルのつばさの姿をさして聞いた。どうやらヲジーのボケよりつばさの方が気になるようだ。
「正義のヒロイン、ストラト・スッチーじゃ」
「はあ、で、このつばさちゃん……ですか、どうやってあそこまで行ったんですか?」
「ストラト・スッチーじゃと言うに。あそこまでは飛んで行ったに決まっとるじゃろ。歩いて行けるわけじゃなし。あんたもさっき見とったろうが」
「いや、まあそうですが、どうして空を飛ぶんです?」
「スーパー・ヒロインだからじゃ」
 藤田は「どのようにして飛ぶのか」と言う意味で尋ねたので、飛ぶ理由を知りたいわけではないのだが、ヲジーの答は要領を得ない。ヲジーはヲジーで、できるだけとぼけてはぐらかそうとしている。藤田はちょっと話しの向きを変える。
「あんなところに居たんでは、危険ですよ。機首の下敷きになるかも知れませんし、はっきり言えば着陸の邪魔です」
「うむ。ヒロインは孤独じゃな」
 とても話が噛み合わないと思った藤田副操縦士は、それ以上の追求をやめて後に横たわる機長を振り返った。そうかやはり田中機長はこいつを見たのだ、と彼は思う。彼にしても、ただでさえハイジャックで緊張を強いられる飛行中に、いきなりこのスッチーが飛んできて、あまつさえ目の前でもどしたら、はたして正気でいられたかどうか。
 その機長は気を失ったまま、スチュワーデス達によってコクピットから担ぎ出されて行った。

 那覇空港の管制官がこのHKZ427便を呼び出してきた。藤田は他にやることができてほっとしながら、管制官に現状を報告する。特務隊の連中がテール・スライドで全滅したらしいことは既に報告済みだ。空港側では胴体着陸や火災と言った非常事態を想定して、消防車、救急車、レスキュー隊などの体勢を整えているそうだ。
 さあ仕事だ。あのスッチーは気にはなるが、空を飛べるのなら危険が迫れば逃げるだろう。逃げずに潰されても藤田の知ったことではない。勝手に危険を冒している一人の命より、彼に預けられた三百人の命の方が大切だ。そもそも空を飛んできた女の子がジェット機の脚にしがみついているなど、ありえないことだ。ありえないものがあったなら、それはなにかの間違いだ。間違いは誰にでもあるし、これは少なくとも彼の間違いではない。従って、スッチーが死んでもそれは彼の責任外である。
 スッチー問題について合理化を果たした藤田副操縦士は、それ以上スッチーのことを考えるのはすっぱりやめて、着陸の準備にとりかかる。
 まずは胴体着陸で火災が発生しないように、余分な燃料を放出する。最低限、那覇空港までエンジンが止まらないだけあればいい。それと平行して、必要になるかも知れない装置や計器の位置をヲジーに教える。スロットルとスラスト・リバーサー、フラップや主輪のブレーキ、高度計に速度計と言ったところだ。彼自身は舵取りに集中しなければならない。ヲジーはふんふんと聞いているが、どれだけ憶えたかは疑わしい。

 やがて那覇の管制官がファイナル・アプローチを告げる。滑走路は36番。北からの進入だ。空港周辺は雲量ゼロ。視程は充分だ。アウター・マーカー・ビーコンの音が響き、計器パネルにグライド・パスとの相対位置が表示される。
 コクピットから滑走路に向かって流れる誘導灯が見えた。高度は3000フィートを切った。速度は200ノット。
 いまの状態では、操縦輪を離すと飛行機がどんどん下を向く。無理な機動でどこか歪んだのか、妙な機首下げモーメントがかかっているのだ。それはフラップを開いても大して変わらないが、昇降舵で充分カバーできる範囲なのが救いだ。ただしその分だけ降下率が高くなっている。それをカバーするために速度をあまり落とさずにいるのだが、あまり速いとオーバーランの危険があるし、主輪が持たないかもしれない。
 どちらにしてもハード・ランディングには違いない。覚悟を決めて滑走路に叩き付けるしかない。
 怪我人の手当ても充分にやっている余裕はない。むしろ一刻も早く着陸して病院に運ぶべきだ。とりあえずシートに座らせて、あとは当人の気力と運次第だろう。

 つばさは次第に迫ってくる地面を見つめながら、バトンを振り上げるタイミングをはかっていた。お世辞にも安定した着陸姿勢とは言えず、素人のつばさでも機首がふらふらと上下しているのがわかる。恐いのはもちろん恐いが、いま逃げたらエミリーの時どころではない後悔に襲われるだろう。ここはヲジーの作ったGスーツを信じるしかない。
「ヲジーちゃん。そろそろかな」
《もうちっと待つんじゃ。あまり急に振るでないぞ。ただでさえ不安定じゃからな》
「わかった。スーパー・チャージは最後の最後だよね」
《そうじゃ。地面に着いて速度が落ちればいずれ鼻先が下がってくる。その時じゃ》
 打ち合わせをしている間に、飛行機は着陸決心高度を割った。最後のインナー・マーカーを通過する。
《よし。つばさ、バトン上じゃ》
「うんっ」
 つばさは言われた通り、航空精神注入バトンをひょいと上に向ける。

 コクピットでは藤田が異常に気付いた。機首がほんのわずかだが、くっ、と上を向いたのだ。もちろん原因など知る由もない。
 しかし異常とは言え、下がりたがる機首がもとに戻ったようなものなので、かえって操縦には助かるくらいだ。それに変化があったからといって、今さら着陸復行するのはかえって危険だ。操縦輪の引き具合をいくらか緩め、スロットルを絞る。強行着陸だ。

 つばさの足の下は既に滑走路になっている。あと地面まで何メートルくらいあるのかわからないが、とにかくかかとを擦りそうなくらいすぐそばに感じる。なにしろものすごいスピードである。足を引っ込めたいのはやまやまだが、少しでも飛行機の脚の長さをかせぎたいだろうと思ってがまんする。バトンの宝石ボタンに手をかけ、なにかあったらすぐ押せるように構えておく。
 まもなく主輪が接地する「ぎゅっ」という音が聞こえ、機体が不気味にきしる。機首がすこし下がった気がした。つばさはヲジーの言い付けに従って、Gスーツをスーパー・チャージに切り替えた。宝石が紅に輝く。

 接地した直後、こんどは間違いなく機首が上を向き始めた。これではただでさえ全長の長いB777は尻餅をついてしまう。藤田は反射的に操縦輪を押し込む。主輪のブレーキは全然きかない。彼はヲジーに向かって「逆噴射!」と怒鳴る。
 それまではらはらしながら前輪の映ったパネルを見つめていたヲジーは、その声にはっとして、おろおろと自分が操作すべき装置を探し始める。

 スーパー・チャージにしたことで一度は浮いた機首が、なぜか急に下がり始めた。逆に飛行機の主脚がいつのまにか宙に浮いている。バトンを見ると宝石が青い。もう一度ボタンを押すと、押している間だけ赤くなる。スーパー・チャージできない!
 このままではつばさは擂り潰されてしまう。つばさは恐怖のあまりボタンを押し続け、無意識に脚をばたつかせる。その瞬間、猛スピードで後ろに流れて行く滑走路に爪先が触れ、つばさは見事にけつまづいた。前輪の支柱は抱きかかえたままだ。
 つばさの転倒をGスーツは意図的なものと判定した。つばさの動きを補強する方向に、かかえている前輪部を加速する。つばさは前輪の脚を杭のように地面に打ち込むことになった。これを最後にGスーツはスーパー・チャージ不能になる。

 ヲジーはやっとスラスト・リバーサーのレバーを思い出し、思いっきり引き起こす。エンジンの音が変わり、減速が始まるのと同時に、つばさに投げられたようなかたちのB777はぐぐっと尻を持ち上げる。ヲジーはなにか間違えたかと思ったが、レバーから手を離すところまで気が回らない。

 飛行機の前輪は地面に食い込んで取れてしまった。しかし、食い込んだ瞬間に発生した回転モーメントのため、機首を地面につけて垂直に近い逆立ちになり、盛大に火花を散らしながら滑走路を滑って行く。羽根のはえた巨大な大根を滑走路でおろしているような格好だ。
 事実、こすられている機首はどんどん擦り減っている。もちろん滑走路の方も無事ではない。舗装が破れ、土煙をあげて一直線に溝が掘られて行く。
 コクピットの寸前まで削れたところで、やっと機体は直立したまま停止した。燃料がまわらなくなったエンジンも咆哮をやめた。

 つばさのGスーツはもはやエネルギー切れ寸前で気息奄々。高速で躓いたために猛烈な回転数で前転してすっかり目が回ったつばさを、地面すれすれに浮かせておくのがやっとの状態だ。つばさはうつ伏せに伸びた姿勢のまま、先に行った飛行機が掘った溝の中を滑ってきた。
 こつん、と頭が飛行機の胴体に当たり、つばさは気がついた。Gスーツはついに機能を完全停止し、つばさは地上数センチの高度を落下する。
「ふにゃ」と、寝ぼけた声を上げて、つばさはその場に身体を起こした。目の前には機体に描かれたでっかいスーパー・スッチーのイラストが、なかば削れて立ちふさがっている。
「ふぃ〜。あたしってば生きてるぅ」
 つばさの涙声に、イラストのスッチーも頷いたようだ。
 いや、確かにイラストは動いていた。つばさが頭をぶつけたとき、Gスーツが最後に放出したエネルギーのせいで、微妙なバランスで立っていた機体が傾いたのだ。にっこり微笑むスッチーがつばさの上にのしかかってくる。
「わ、わ、わ、うきゃーうきゃー」
 つばさはじたばたと右往左往する。やっとのことで溝から這い出した時、その背後にずしーんと旅客機の胴体が倒れた。


「いやさ、つばさや、よく生きとったのぉ」
「ヲジーちゃんこそ、まだ生きてるんだよね」
「まだとはなんじゃまだとは」
 二人は那覇空港の一角、負傷が軽くて済んだ乗客を集めたロビーの窓から、ぼろぼろになったB777スーパー・スッチー・ジェットを眺めている。側面に描かれたスッチーのイラストも、あちこちにほころびのようにできた破孔に切り裂かれて、無残としか言いようがない状態だ。
 つばさも既にスッチーの格好はしていない。飛行機が横倒しになってすぐに、胴体の裂け目の一つからキャビンのトイレに潜り込んで着替えてきたのだ。Gスーツが機能していれば、「しゅわっち」とばかりに飛んで逃げられるが、エネルギー切れではただの恥ずかしいコスプレ(それも本物とは色が違う)でしかない。
 だからとりあえず普通の服装になって、ポニー・テールも結び直し、あとは「スッチーなんて知んないもん」とすっとぼけるつもりだった。
 もっとも、着替えに戻ったトイレの中は実になんとも形容し難いくらいひどいありさまだったので、つばさは今朝のとは別の服を着ている。トイレに置きっぱなしになっていたスニーカーとスッチー・バッグは、さすがにもったいないので一応は回収して、出が悪い洗面台の水で洗っては来た。しかしまだなんだかちょっと、いや、かなりくさい気がする。
「それにしても、なんでこんなに早く電池切れになったんかの。スーパー・チャージは飛行機をひっくり返した時しか使っとらんじゃろ」
「え? あ、えへへ。実はそのあと波かぶってずぶ濡れになってね。寒かったから暖房がわりに、ちょっと……」
「なんじゃそのせいじゃったか。それさえなけりゃもうちっとましな着陸ができたはずじゃったに」
「でもさ、でもさ、無事に着陸できたからいいじゃん」
「どこが無事じゃ。どこが」

 誰かがつけたラジオから、この春風航空427便のハイジャックと不時着のニュースが流れている。そればかりではなく、ラジオによると、世界各地でハイジャックが同時多発しているらしい。欧米の路線を中心に、アメリカン、デルタ、ブリティッシュ・エアウェイズ、エール・フランス、キャセイ・パシフィック、アエロフロート……。ルフト・ハンザにいたっては、全部で四便も一度に乗っ取られているらしい。
 一連のハイジャックに関する犯行声明は『大ドイツ第四帝国』から一括して出されていた。春風航空を乗っ取った東亜特務隊というのは、いわば下部組織か実行部隊と言うところだろう。その隊員達はみな着陸直後に逮捕されて引き立てられて行った。彼らは重傷のため、抵抗はおろか逃げることもできず、最後に試みた自決すら遂げられなかったのだ。もちろん行方不明のエミリーを除いてだが……。
「そんなにいちどきに乗っ取っておったとはのぉ。しかもハイジャック後の目的地がどれもアルゼンチンとは。当然、第四帝国とやらの本拠地はその辺にあるんじゃろうな」
「なんでドイツ帝国のくせにアルゼンチンにあるの?」
「南米には第三帝国の当時に親独的な国家が多かったんじゃ。敗戦時にもナチスの高官なんぞが大勢亡命したりしとったからの。第四帝国とやらは、そんな連中の子や孫なんかが中心ではないかの。あの響ちゃんの孫のように……」
 ヲジーはしたり顔で説明する。戦友の名を口にするときには、普段の老眼の倍くらい遠い目をしながら。

 つばさは話が深刻にならないうちに話題を変える。
「ツアー、めちゃくちゃだね」
「そうじゃな。春香ちゃんも参考人として引っ張られてしまったしの。さて、わしらは幸い怪我もないことじゃし、さっさとずらかるぞい」
「え〜。どーして?」
 ヲジーは抵抗するつばさの手を取って、こっそりツアーの集団を抜け出そうとする。
「そりゃ、ぼやぼやしとったらつばさがストラト・スッチーだとばれてしまうからじゃ。みんなに取り囲まれて、なんで飛行機を壊したと責められたくはないじゃろ?」
「そうか。そうだよね。あれだけの怪我人が出たんだもん、責任取れとか言われたらやだし」
 考えてみればその通りだ。あまりの疲れに動きたくないつばさだが、とりあえず姿を消すにこしたことはない。
「いやいや、正義の味方に責任など関係ないわい。それに正体が謎のまま活躍するのがスーパー・ヒロインじゃ。それでこそ、また来週のお楽しみじゃ」
「そんな笑点のおひらきじゃないんだから。来週なんてないもん。スッチーなんて二度とやんないかんね」
「まあそう言わずに。うちに帰ったらGスーツの今後の課題は全部……」
「うちに帰ったら? あ〜っ、思い出した! ドテラおばさんとダンナ・キラーズ! ブルーベリー・ミルフィーユぅ!!」
「や、しまっ……いやぁなんの事かのぉ。歳を取ると物憶えが悪くなっていかんのぉ。ふぉふぉふぉ」
「ヲジーちゃんてば、ずっる〜い」

    おしまい


 参考文献

 航空テロ
  ディビッド・ゲロー 清水保俊 訳 イカロス出版

 戦後ハイジャック全史
  稲坂硬一 グリーンアワー出版

 航空と文化
  日本航空協会(財)

 月刊エアライン増刊 エアライン年鑑1996-1997
  イカロス出版

 イカロスMOOK 旅客機年鑑1998-1999 日本の旅客機'99
  イカロス出版

 エアポートハンドブック'96
  (財)関西空港調査会 編 月刊同友社

 旅客機マニアの常識
  徳光康 イカロス出版

 高度1万メートルのOH!テリブル
  大空遥 剄文社文庫

 全図解ジャンボ コックピットストーリー
  石川好美 青木享起 光文社

 タイムズ・アトラス 第二次大戦歴史地図
  ジョン・キーガン 編  滝田毅 他 訳 原書房

 艦船名鑑 1939〜45
  望月隆一 編  株式会社光栄

 ナチスUボート 世界の艦船1999 7月号増刊 No.555
  海人社

 日本海軍の秘密兵器
  小橋良夫 銀河出版

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