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渋谷5団のホームページ山田啓造
90年の夏キャンプ(於:山梨県みずがき山グリーンロッジ)は、最終日になって台風が関東地方を直撃。一時は全ての交通網が断たれ、我々一行を乗せたバスの教会到着も夜中の12時過ぎになるという異例の幕切れとなったが、幸い大きな事故もなく、無事終了した。
夏キャンプが終わってからの束の間の「休息期間」があけた9月、集会後のプログラム会議で、某リーダーから「カブ隊の歌を作ってはどうか」との提案がなされた。他のリーダーの反応は冷ややかだったが、歌を愛する(でもカラオケは嫌い)当時の隊長は大賛成。直ちに、且つ強引に「カブ隊の歌作成委員会」を組織し、自ら委員長に収まってしまった。委員長が立てた方針は以下の3つ。
・簡単に歌える、分かりやすい歌であること。
・カッコ良く、明るいノリであること。
・12月の上進式をお披露目の本番とし、その「本番!」を合い言葉に他隊には秘密で特訓を行う。
翌週、集会前の臨時拡大プログラム会議で各委員の案が発表された。委員長の自信作は、「何だか軍艦マーチみたいでいやだ〜あ」という女子リーダーの意見の前にあえなく没。空手もやればギターも弾く、おまけに顔に似合わずピアノも上手いという異色のリーダー萩原副長の作品が明るくてノリが良い、とのことで採用が決まった(アニメ「アルプスの少女ハイジ」のテーマをイメージして作ったとか)。これに若干の修正が加わり、ついでに委員長の悪乗りで2部合唱となって、ここに記念すべき「カブ隊の歌」が完成したのである。スカウト達は内心「しょーがねーなー」と思っていただろうが「合い言葉は『本番!』」と叫びつつ練習を強要するリーダー達によく堪え、12月の上進式では衝撃のデビューを果たすことができた。因みに、会議では総括担当某副長案による振付も採用されたが、スカウト達からはお遊戯のようだとの不評を買い、いつのまにか消えてしまった。
晴れ渡る空、鳥は囀り 5つのさだめ、胸にきざみ
わが旗めざし進め 勇気を持って
渋谷5団カブ隊 永久に栄えよ
(2番省略)
最後に、隊長在任中に至らぬ私を支えてくれたリーダー、団委員、教会関係並びにご父兄の方々、そして素晴らしきスカウト達に、この場を借りてお礼を申し上げたい。そして、渋谷5団のますますの発展をお祈り申し上げます。
菅大介
僕のボーイスカウト時代での最大のイベントは何かと聞かれたら僕は迷わずジャンボリーだと答えます。それほどジャンボリーというものから僕は様々な技術や沢山の知識を得ることができました。また、日本全国だけではなく海外からやって来たスカウト達とも友達になりました。特に仲が良くなったのは渋谷2団のスカウト達で、ジャンボリーでも一緒に阿蘇山を登ったり、ジャンボリーの後の地区ハイキングなどでも会って思い出話をし、あらためてジャンボリーに行って良かったと実感したりもしました。
ジャンボリーは僕のスカウト生活の中での最初の夏期野営だったので、夏期野営に関する様々な知識も得ることができました。僕はビーバー隊やカブ隊を経ずに、小学校5年生の時にボーイ隊に入りました。しかも小学校6年のときは中学受験のために休隊していて、知識や技術が全然身に付いていない状態でジャンボリーに参加したので、テントの建て方やロープワークなど学ぶことが多くてとても面白かったです。
ジャンボリーにおいて一番大変だった日は最終日です。初日からずっと晴れていたのに、最終日に限って大雨が降りました。しかし撤営も大体が終わったところだったし、荷物もすべてビニール袋で防水してあったので助かりました。あの日は、個人装備の防水の大切さを学ぶことができました。
今から考えるとあの久住における日本ジャンボリーでの一週間は本当に短いものでした。しかし、あのジャンボリーに出席したことによって、スカウト活動がより一層楽しくなりました。だから僕はあの久住での日本ジャンボリーに出席できたことをとても幸運だと思います。これからもあの日本ジャンボリー及び今までのスカウト活動で得た知識や技術をフルに活用し、また楽しみも忘れずにシニアスカウトとして活動していきたいと思います。
川越純子
初めて渋谷教会に来たのが今からもう10年も前のことになります。先に参加していた友人達に誘われて、カブスカウト隊のお手伝いを始めました。毎週、土曜日になると“元気な男の子達と遊べる”という楽しさで参加していました。だから、当初は女子ローバーといわれても特別な意識はありませんでした。正直な話ですが、上進式で誓いを立てても“今までとは何が違うのかな?”という感じしかしませんでした。多分、当時の田中隊長をはじめ、男子ローバーの方たちは頭を痛めていたと思います。
スタートしたばかりの5団の女子ローバーをこんな気持ちで始めた私でしたが、一番の思い出では100kmハイキングに参加したことです。当時は今と違って女子はオープン参加で、ゼッケンももらえませんでした。「100km歩いてやる!!」という気より「どのくらい歩けるのかな!?」という気持ちで参加しました(私だけかも知れませんが・・・)。少し歩くと「お腹すいたね」「うん、何か食べようか」。また少し歩けば「のど乾いたね」「そうだね」といった様子でした。今の女子ローバーの方々からみればちょっと気の抜けているように思われるかもしれませんが、当時としてはまだ始まったばかりのチャレンジでしたので、それなりに頑張ったつもりでした(たしか、5団としては2回目の女子の挑戦だったと思います)。さらに夜、女の子だけで歩くということで、サポートの方々はとても神経を使われたことと思います。結果は前哨のはるか前でリタイヤしてしまいましたが・・・。
ボーイスカウトに入っていたから、さらにはローバー隊であったから出来た、貴重な体験でした。歩く方もサポートする方も、これがローバースカウトなんだなと思いました。
あと、嬉しかったことは、参加賞の足型ワッペンを貰えたことでした。これは私の宝物です。ただし、片足だけですけど・・・。
佐竹年一
40周年御目出とうございます。
BS隊スキーキャンプは、当時12月に上進、3月に訓練期間の少ないままに春期野営実行で、寒くみじめなキャンプとなり、参加スカウトの減少に何とかしなければと始まった次第です。
当時団委員の桜井さんの紹介で早大ワンゲル部の妙高山荘をお借りする事が出来、第一回が実行されました
ボーイスカウトらしいスキーにとゲレンデスキーの他にゲレンデからはずれてツァースキーのまねごと、又雪洞造り、わなを造っての動物、鳥の捕獲(捕れませんでした)等種々なプログラムを取り入れ新入スカウトも生き生きとスカウト活動を楽しむ事が出来たようです。
一番の目的は“冬の自然に親しむ”でした。
指導者が思っていた以上の成果が有り大変有意義でした。
その後、草津セントメリー・アメリカンスクールのロッジを借りる事が出来、楽しいスキーキャンプをする事が出来ました。さすがアメリカ、ロッジもすばらしく寝具も羽毛布団、又食事はビュッフェ・スタイルのバイキング、当団の「食物は残してはいけない」の教育が良くいきとどき(?)他のお客様の分までおいしくたいらげてしまうスカウト多数続出、指導者大あわてした事も今では良い思い出となっております。
スキーキャンプは貸しスキー代、リフト代、スキースクール・コーチ代と非常にお金がかかり、現在は実行しておりませんが是非もう一度実行してみたいプログラムです。
2回目のスキーキャンプに参加したスカウトのK君はスキーをはけばころんでしまうスカウトでしたが、現在ではシニアスカウトとしてスキー章を修得するまでになりました。
今後も、時と場合によって、このようなプログラムを取り入れていきたいと思います。
日隈励
平成7年1月17日に起こった阪神淡路大震災は、私がボランティア活動を行なった芦屋市だけでも422名の死者を出す程の大惨事であった。多くの物資と同時に多くの人手がこそ求められているとマスコミがくり返すのを聞き、居ても立ってもいられなくなった私は、自信のある体力をその援助物資の運搬などに使いたいと、ローバー隊の天谷太郎君と早速現地に駆けつけた。
私達は芦屋市ボランティア本部から精道中学校の避難所に派遣された。そこではまず、600名以上の被災者に対し、校長先生をはじめとする数人の先生方と地元シニアスカウトの三浦君だけがスタッフという現実に直面した。そして当面は、事態の把握や整理よりも、膨大な量の食事作りなどが最大の責務であった。日を重ねるうち、年長者という事で責任者という立場になった私には、肉体を使う以上に被災者の自立を助けるには何をなすべきかという思考をも求められるようになっていった。こうした体験から私の得た事を、これからボランティア活動に参加するスカウト諸君に読んでほしい。
確かに震災後10日程は、多くの物資と多くの人手が一番必要とされた。しかしそれ以降のボランティアに求められた事は、被災者の自立を助ける組織作り、組織運営のリーダーシップ、情報を分析、整理できる事務処理能力、物資の在庫管理能力などであった。別の言い方をすれば、「何でもするから指示してくれ」という人より、「〇〇が出来る人ですがここでは必要ですか」と言える人こそ必要とされたのである。さらに、表面的には喜ばれそうな何でもやってあげる過剰サービスのボランティアは、自立を助けるどころか時としては「俺は被災者なんだぞ」という甘えや居直りと言えるような感情さえ育ててしまう危険を持つ事を忘れてはならない。こうした感情を芽生えさせる事なくボランティア活動ができてこそ真の意味があるのではないだろうか。
次にローバー隊長の山崎氏のアドバイスをうけて私が常に忘れずにいた事を付加したい。それは自分の引き際を見定めるという事だ。自分は何月何日まで活動できるのか。お金はいくらまで使えるのか・・・自分の能力・立場をよく判断し、決して情にだけは流されず、責任感に溺れすぎず、引き際は潔くなければならないのだ。
最後に、山崎氏や鈴木敦君を初めとするローバー隊員各位、又渋谷教会までもが、後方支援という形で励まして下さったからこそ、最後にボランティアが入った精道中で、最初に被災者が自立できたという喜ばしい結果を生む事ができたと感激している。と同時に、渋谷5団のこうした臨機応変な対応が、私達スカウトの宝としていつまでも続く事を心から願っている。震災で亡くなられた方々の御冥福をお祈りするとともに、今回ボランティアとして行動した全ての同志に弥栄を送り、筆を置くこととする。
萩原拓
僕が渋谷5団(当時東京138団)のカブ隊に入ったのは今から20年前、ちょうど20周年団ボリーがあった頃です。そのときから35周年団ボリーの年まで15年間、休隊することなく活動させていただきましたが、その後、現在まで約5年間米国留学をしております。
直接的な隊活動からは離れておりますが、ここ数年、インターネットの発達により、渋谷5団指導者の方々とは電子メールによる通信が可能になり、各隊の活動報告から個人的な事柄まで、リアルタイムの情報交換が海を越えて出来るようになりました。電子メールも使えずに一人で米国暮らしをしていた頃に比べれば、現在渋谷5団は僕にとって身近な存在にまた戻ってくれました。
その電子メール通信のおかげで、昨年のローバー隊渡米プロジェクトも成功いたしました。海外に居ながら5団の一員として隊活動に参加できたことはとてもうれしいことでした。
昨年ローバー隊員達が米国カンザスの拙宅に来たときに、こちらのボーイスカウト指導者達と交流する機会がありました。同じボーイスカウトではありますが、5団とこちらの隊とは文化的、構造的要因による大きな違いが多々ありました。そのひとつに団という組織の有無がありました。米国は広い国ですし、各州で多少の違いはあるでしょうが、僕の住んでいるカンザス州のボーイスカウトでは団というものがありませんでした。ですからカブスカウトやボーイスカウトにはそれぞれ隊という組織しかありません。もちろん、我国のボーイスカウトの形態と米国のそれとに優劣を付けることは愚かなことです。しかし、日本のボーイスカウト、殊に渋谷5団がとっているような大きな団組織というものは、米国の指導者と意見を交換した時にとてもすばらしいものだと認識させられました。
ビーバースカウトからローバー、そして指導者になるまで、一貫した縦のつながりというものは組織のつながりをとても強くすると思うのです。10年前はカブスカウトだった人が、現在、当時自分の指導者だった人と一緒にカブの子供達のめんどうを見ていると言ったことが、この5団では当たり前のことになっています。また、横のつながりで見ても、同年代の仲間と指導者になるまで一緒にボーイスカウトという組織の中で成長していくと言った過程は、日本でも、もちろん米国でも、そうあるものではありません。40年続いたという事実も、縦と横のつながりによる、一人一人の5団関係者の歴史が造りだしたものと思います。
まだ自分の将来というものが見えていない僕ですが、これからも続く渋谷5団の歴史に再び関われることを強く願っております。
林勇二
率直に言ってしまえば、始めはキリスト教章を宗教の勉強として学んでいたのではなかった。まだ講習が始まったばかりの時は、“キリストは物凄い説得力のある芸術センスをもった人”だと考えていた。聖書の中で彼が言った言葉ひとつ取っても、芸術に溢れてると思ってた。
僕の両親はキリスト教で故に、僕自身生まれた時からキリスト教だった。小さな頃から日曜日は無理やりミサに連れて行かれた。強制連行である。日曜学校というものにも所属していた。そんな時期が何年も続いていたのにもかかわらず、自分から聖書を読もうなんて思ったのはキリスト教章の講習が始まってからだと思う。
聖書は僕にとって物凄く新鮮だった。だから故に、“芸術的センスに溢れている”などと考えてしまったのではないだろうか。まあ、それはさておき、聖書を読んで行くうちに僕はある事実に気がついた。この地球上にどれだけのキリスト教信者がいて、皆がどれくらい深い信仰心を持っているのかわからないが、少なくとも聖書を“べからず集”として考えている人がいるのではないだろうか。あれをしてはいけない、これをしてはいけない。確かに聖書の中にはそういった決まり事も書いてある。しかしキリストが「それをしてはいけない」といっても、それを鵜呑みにすることの方がもっといけない。
聖書は人間を抑制する本ではない。キリストは人間を抑制するために後世の人間に聖書を残したのではない。宗教が人の心に幸福をもたらすためにあるのなら、きっと聖書も人の心を豊かにするために前世の人達が残してくれたのだと思う。そして人々に“考える”という事をしてほしいのだと思う。
聖書を本気で勉強した人なら誰でもそう言うと思うが、キリストはある二つの事実を常に持っていて、それらは矛盾している。キリストは神であり人間である。聖書の中で彼は常に読んでいるものに対して実験的な挑発的な問いかけをしてくる。そしてその問いかけの答をも投げかけてくる。自分で問いかけておいて自分で答を言うのである。そこからが問題である。ここで鵜呑みにするのなら他の宗教と同じである。結局、鵜呑みにしてもしなくても行き着くところは同じなのだが、キリストは考える時間を与えてくれる。
キリスト教章で僕はそういう事実を学んだ気がする。何か聖書解説になってしまったが、興味を持った人は一度本気で勉強してみてもいいと思いますよ。
鴻久忠
ボーイスカウトに限らず、団体ではそのシンボルとして「旗」を所有しています。
ご存じのように五団のビーバー隊、カブ隊、ボーイ隊、シニア隊、ローバー隊にもそれぞれ「隊旗」があります。
「隊旗」は、その隊が発足すると同時に製作され隊の象徴として、多くの活動時に活用されています。
ところが3年前まで、五団を象徴する「団旗」は存在しませんでした。
上進式や、発団記念として何回となく行われている団ボリー等、団行事には欠かせない象徴であるはずの「団旗」。どういう訳か、「団旗を作ろう」という声はあがりませんでした。
1993年11月、予期せぬ事が起こりました。それはカブスカウトから団に所属し、カブ、ボーイ、シニア各隊のリーダーとしても活躍した古俣哲司君が、伊豆の海で不慮の事故に遭い亡くなられたのです。カブの時からいつも一緒で、社会人となっても五団を陰から支えてくれていた友の死に大変なショックを受けました。
それから暫くして、ご遺族の方から「何か五団で役立ててほしい」との申し出をいただき、団委員会では、古俣君のボーイスカウトへの情熱と意志を受け継ぐ物として「団旗を作ろう」ということになったのです。
「死して後もスカウトだ」という永遠のスカウトの歌詞にもあるように、五団の「団旗」には、古俣君のボーイスカウトへの情熱と意志がしっかりと織り込まれています。
ここに改めて、故人の冥福を祈ると共に、現在活動中のスカウト達が更にスカウティングにはげみ、五団の発展を担うことを願いたいと思います。
木下順二
1996年、インターネットの流行はひとつの社会現象となった。夏休み前に、山手線にこんな車内広告が出たほどである。
「この夏にやりたいこと、オートキャンプにインターネット。」
ボーイスカウトならばキャンプの経験は豊富なはずだが、コンピュータとなると尻込みしていた人も多かったのではないだろうか。しかし、渋谷5団は早くからインターネットにホームページを持ち、世界に(今までのところ日本語だけであるが)情報を発信して来たのである。最初はビーバー隊の岩下副長が、大学のコンピュータにスカウト活動のホームページを開設したのだが、ひょんなことから私が引き継ぐことになった。
この年の5月頃だったと思うが、シニア隊の熊野君から電話があって、「インターネットをやってみたいのですが…」とのこと。「それならば、ホームページを作ってみないか」ということになって、シニア隊の隊集会で半日がかりでシニア隊のホームページを作ったのは6月のことであった。それ以後、団の歴史、ニュース、団報(全文)、イラスト、資料館など、団のホームページとして内容を充実させていった。大垣副長たちによるキャンプ技術集大成のコーナー、手旗練習システム、仮想キャンプファイアーなどの試みも始まった。1年間の訪問者は延べ2000人を越し、読んだ人からもらった電子メールは20通にも及ぶ。Yahoo! INTERNET GUIDEという雑誌にも紹介され、ホームページで団員募集を始めたところ、これを見ての入団希望者も現れるという事態となった。
1997年4月に、日本連盟のローバー関係者が、第2回スカウティング・ホームページ・コンテストを開催するという発表があり、渋谷5団も参加することにした。誰でも投票できるというので、渋谷5団に組織票を入れようと言い合っていたのだが、あいにく団指導者研修会と重なり、結局投票したのは二人だけということが判明した。そんなわけで結果には全く期待していなかったのであるが、結果が発表されて驚いた。なんと「渋谷5団ホームページ」が、全国から参加した28団の中で、圧倒的な支持を得て最優秀賞に輝いたのである…。他団のホームページに比べて読み物が格段に多いことや、猪郷谷遊さんの楽しいイラストが評価されたのだと思う。
今後はシニアだけでなく、ボーイやカブのスカウトも情報を発信する時代になって行くことだろう。インターネットはスカウト活動の活性化に役立ち、そして今や不可欠のものになったのである。
渋谷5団ホームページ
http://www.asahi-net.or.jp/~UP2J-KNST/bs.htm
電話連絡網に取って代わる便利なシステム
大垣博
私は仕事でもパソコンを便利に使っています。そこでの知識や技術をボーイスカウトでも生かせるのではないかと考えました。そしてリーダー間の電子メール「渋谷5団メーリングリスト」の構築に取り組みました。メーリングリストとは決まったメールアドレス(電子メールの住所)に送信するとリストに登録されたメンバー全員に内容を伝達できるシステムです。まず始めにメンバーのパソコンをインターネットに接続します。会社のパソコンを利用する人、自宅のパソコンを利用する人、パソコンを持っていない人には中古のパソコンを用意しました。とにかくインターネットに接続されたパソコンが必要なのです。次に各人のメールアドレスをメーリングリストに登録します。これで設定は完了です。
私がカブスカウトに入隊した頃は電話連絡の練習をしたものでした。これはきっと渋谷5団が発足した40年前から今でも行っている基本訓練の一つでしょう。電話連絡網の順番に班長から次のスカウトに電話をかけて内容を伝えていきます。忘れないようにきちんとメモを取ります。内容に間違えがないか繰り返して確認します。もし次のスカウトが留守だったら、その次のスカウトに電話をします。そして後になって次のスカウトにかけ直します。そういうふうに電話で伝えていき最後のスカウトは班長にまわり終わったことを報告します。
40年目の今年、その電話連絡が電子メールにとってかわられようとしています。リーダーだからできるんだとスカウトの皆さんは思うかもしれませんが、きっと2,3年後にはスカウトの連絡網にも実現されているのではないでしょうか。
メーリングリストの使い方は、
メーリングリストの特徴は
いい事ばっかり書いていますが、本当に便利なのです。だけど、渋谷5団の仲間全員がパソコンを持っているわけではありません。パソコンを持っている人だけが便利になっていくのでは不公平です。皆さんも学校や家庭でパソコンを使ったことがあると思います。パソコンやインターネットはどんどん私たちの身近になって生活の一部になっていきます。私は渋谷5団がさらに発展するようにスカウト活動とパソコンの活用に取り組んでいきたいと思います。本格的な活用を目指して。
現在渋谷5団メーリングリスト登録者は指導者、団友会あわせて29名です(8月26日現在)。メールアドレスをお持ちの指導者、団友会の方はご連絡下さい。
この記事に関してのお問い合わせは
シニア隊副長 大垣博まで電話または電子メールでご連絡下さい
アドレスは br3-oogk@asahi-net.or.jp
井上富雄
発団40周年にあたり、現在、スカウトとして、また、リーダーとしてご活躍の皆様にお祝い申し上げます。
さて、そもそも団友会を発足させようとした経緯は、私とカブ隊の副長を共に務めた吉田茂君が凡そ10年程前に、私達がスカウトの頃お世話になったリーダーや、共に野営の日々を過ごしたスカウト仲間の皆さんに、是非とも再会したいという動機を持ったことから始まりました。思えば、スカウトの時代は、キャンプやハイキング時の長時間にわたる徒歩や、なかなか火が起こせず食事も出来なかった事など、今の新米の諸君も同じように味わっているであろう辛さもありましたが、やはり、少年として楽しい満ち足りた時間であったと言えるのではないでしょうか。そうした、郷愁が私達に何かをやろうとさせたのだろうと思います。
その様な動機を持ち動きはじめたのは良いですが、団に関わった方々にお集まり頂く為に、最も重要でそして難航したことは、名簿作りでした。当時、既に、渋谷5団は東京138団の頃から30年に及ぼうとする歴史を有し、OBやOGの数も相当数に上り、各年代を広く網羅する為には、先ずは、私達が知っている範囲で消息を調べていくより方法がありませんでした。幸い我が団には、山崎啓子さん、柏木直哉さん、中谷正憲さんを始め、渋谷教会を中心としたネットワークが有り、短い時間ではありましたが、予想より良い進捗を見ることが出来たことを覚えています。これも、上下のけじめははっきりとさせつつも、スカウト活動を離れても、それぞれが良いお付き合いを続けて来た証左ではないかと思います。
1980年代に2回の団友会を実施し、その後、昨年、今年と10年の年月を隔て再度団友会開催の機会に恵まれました。これからも、良き友人達の集まりとして、団友会が続いて行くことを切望して止みません。この5月の集まりには、残念ながら長期出張の為、皆さんにお会い出来ませんでしたが、次回は是非出席したいと考えております。
また、その為に微力ながらお手伝いさせて頂ければ幸いと思います。
鴻久忠
1957年、渋谷5団は「ボーイスカウト東京138団」として池尻教会で発団しました。それから40年、渋谷五団は登録人数も200名をゆうに越える大所帯に成長しました。
今年1997年、山梨県中巨摩郡櫛形町で2泊3日の「40周年を祝う記念団ボリー」を行いました。
参加者は、ビーバー隊、カブ隊、ボーイ隊、シニア隊、ローバー隊、団委員、保護者の方々、団友会、そして渋谷教会からはミカエル神父様に参加いただき、総勢213名の大イベントとなりました。
今回、発団40周年を祝うことはもちろんのこと、団ボリーのテーマとして掲げられた「5団の仲間を知ろう」は、従来のプログラムにはない「7つの縦割り班」での活動(1班ビーバー、カブ、ボーイ、シニアと班付きリーダーの編成)をしたことで、十分な成果をあげられ、スカウト達にとっては新鮮なキャンプとなったことでしょう。
また、団ボリーに参加したスカウトの兄弟姉妹も縦割り班に加わり、スカウトと同じようにプログラムをこなし、楽しい時間を過ごしてもらえたことと思います。
団友会の方々の参加も多く、久々のボーイスカウトキャンプを行い現役の頃を思い出されたことでしょう。これも、団ボリーならではのことと思います。
[団ボリープログラムの概略]
「40周年記念団ボリー」は、天候にも恵まれ、大きな事故等も無く無事終了することができました。あっという間の2泊3日でしたが、各隊のスカウトの心には、この「団ボリー」がどんな形で残ったでしょうか?
団ボリーを終え、今回の団ボリーがこれからの渋谷五団のより一層の団結力、発展の足がかりとなればと願います。
最後に、今回の40周年記念団ボリーをおこなうにあたり、全プログラムを企画進行していただいたシニア隊川越副長、岩下主将をはじめとするローバー隊隊員、裏方となる食事の用意をしていただいた各隊保護者の方々、団委員の方々、団友会の方々、班付きリーダーとしてご活躍いただいた各隊隊長、リーダーの方々、約一年間におよび団ボリー準備をしていただいた各隊団ボリー委員の方々にこの場を借りて深く深く感謝申し上げます。
また、出発の朝、お忙しい中、御聖堂でお祈りして下さったジラール神父様、16日に野外ミサのため駆けつけてくださったミカエル神父様にも深く感謝申し上げます。
40周年記念団報「ビカボシロ」をお届けいたします。
30周年の時に、時の広報担当が30年間をまとめたすばらしい記念誌を作って下さいました。そこで、この40周年記念「ビカボシロ」では、それ以降の10年の活動に焦点を当て、思い出を書いていただきました。但し、15周年の時に竹内初代団委員長が書かれた団創設時の思い出を再々掲しました。(これは30周年記念号にも再掲されているものです)
しかしながら、様々な記録については、1冊にまとまっている方が便利ではないかと考え、40年分をまとめました。30周年記念誌の時の記録を、一部訂正したところもあります。記録については、団委員を名簿に従って記載したほかは、連盟への登録の記録を前提としました。編集方針はおよそ以下の通りです;
10月の総会までにお渡しできるよう予定しておりましたが、遅れました事をお詫びします。その間に団委員長が交代されましたが、冒頭の原稿は、そういった事務局側の事情もふまえ、冨崎前団委員長にお願いしました。
最後に、お忙しいところ原稿を書いていただいた皆様、有り難うございました。
編集委員:9年度広報担当 柏木 直哉
遠山 小夜子
山本 邦子
米沢 ゆかり
成宮 ミチ子
込山 貴子
副団委員長 依田 伸祐
進歩担当 鴻 久忠
ボーイスカウト渋谷5団 発団40周年記念団報「ビカボシロ」
平成9年9月30日発行
発行責任者 団委員長 冨崎 之夫
発 行 所 日本ボーイスカウト東京連盟 渋谷5団
〒150 東京都渋谷区南平台18-13
渋谷カトリック教会内 電話 03-3477-0857
印 刷 所 株式会社 博 文 社
〒101 東京都千代田区神田小川町3-14
電話 03-3295-3211
第一は神を愛し、神に奉仕せよ
第二は隣人を愛し、隣人に奉仕せよ
ベーデン・パウエル
「スカウティング・フォア・ボーイズ」より
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