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渋谷5団のホームページ元団委員 桜井昭一
大分前の事で記憶が不鮮明ですので、詳細は隊の記録をご参照頂きたいと思います。
私は団委員(指導者養成)でありましたが、山登りとスキーが好きで、学生時代から体育会系クラブであったワンゲル部に所属していたこともあって、そういうプログラムになるとリーダーのお手伝いということで殆ど参加させて頂いておりました。
井上、桜井(健)の両隊長、佐竹副長ほかという時代のことで、従来から何度か使用したことがあるという八ヶ岳農場近辺の野営地をベースとし、八ヶ岳の主峰「赤岳」(2,899m)挑戦をメインテーマとした夏キャンプが計画され、下見登山の段階から参画することとなりました。
下見登山時に印象に残っていることといえば、桜井隊長が農場で仕入れたセロリの大束を、葉っぱのついたまま無造作にザックにさして歩いていた事です。道々行き交う人達が「あゝおいしそう」とうらやましがっており、山頂にてインスタント味噌汁用の味噌をつけて食べた味は何とも云えず旨かったものです。
さて、本番の夏キャンプにおけるスカウト達の登山でありますが、井上隊長を先頭に(彼は足が長いのでどんなに加減しても若干早くなりすぎることもありましたが)特に目立った不具合もなく、極めてスムーズに登頂し、かつ下山できたといってよいと思いました。
ただ上班だか副長補だかの1名(特に名を秘す)が、日頃頑健で、人より先にバテルことがないにも関わらず、高山病的症状で、頂上まであと一歩という処(標高2,700m付近か)でリタイヤしたことぐらいでした。その親父でしたら当然原因は二日酔いということになる訳ですが。
私は彼に同行して下山したため、登頂時の状況については解りませんが、頂上付近はガスっていて見晴らしはよくなかったと後で聞いたように記憶しています。
私共の印象としては、スカウト達の体力はリーダー達が案ずる必要のない程強いということです。そういえば、高所恐怖症のスカウトが一人いたけれど、皆に励まされながら完登していたことを想い出しましたが、その後どうなっているでしょう。
この様な赤岳登山の想い出というのは、スカウト達の感想文の方が面白そうですね。
私達リーダーサイドに立つ側が、大変うまくいったといってはいても、結構つらかったり、懲りたりした人もいたのかもしれません。
いずれにせよ、美濃戸口という所は標高1,500m前後ですから標高1,400mを日帰りで往復するということは相当な強行軍であることは間違いありません。ガイドブックでは途中の行者小屋というところで一泊して登るのが一般的ルートとなっています。
このキャンプを機に、山が好きになった人が一人でも居てくれると嬉しく思います。
感じ方は当然個人差があるにせよ、それぞれにとって一つの新体験であることに相違ありません。ある人がボーイ隊として登った山の中で、赤岳が過去最高の標高を持った山だということをいっていました。
この様な企画を万全の準備の基に計画、実施した進取の精神を持ったリーダー達に敬意を表したいと思います。
山が好きな人間だから手前みそで云う訳ですが、ボーイ隊に限らずシニアでもローバーでも、カブでも、もっと山へ入ってもらいたいと思います。日本は山国ですから本当の自然に接し、自然の美しさ、厳しさを知り、その中で取得した様々な技術を流用すべきだと思います。
こんな事を云いながら、私個人も丁度その当時から余り積極的に行なっていなかった山行を再開しようと決意し、その手だてとして深田久弥の「日本百名山」の残っていた54山へ挑戦することとし、団委員も辞めさせて頂いて、94年10月に完登することが出来ました。また私が団委員を辞めることにより新しい有能な方との新陳代謝が行われるというよい結果をも招いたと思っております。
団委員として奉仕させて頂いている期間はもとより、今日に至るまで、最初は自分の趣味としてやって来たことが多少でもお役に立てば、と思って参加して以来、素晴らしい登壇の先輩達をはじめ多くの人々と出会い、若いリーダー達、かってのスカウトで今のリーダー達等々、多くの事を学ばせて頂き感謝しております。
40周年に際し、当団は人的パワーにおいてはオヤジ連を必要としない程充実してはおりますが、スカウト出身者が益々増えて来て同慶の到りですが、だからこそ、閉鎖的社会にならない様に、これまでも随分オヤジパワーを活用して来ていますが、もっともっと一芸に秀でた人が沢山居る筈ですので、意識的に活用する方向で行って貰いたいと思っております。
またお父さんお母さん達も、リーダーからの要請には積極的に応えて欲しいものです。
ボーイスカウトは学習塾ではありません。皆さんの奉仕で成り立っています。
偉そうなことを云える立場ではありませんが、今後とも益々発展し、日本一、世界一の団と云われるよう祈ってやみません。
シニア隊副長 大木貴幸
40周年記念誌、日本ジャンボリー(妙高)編として筆をとらさせていただきます。
10NJ。それは7年前、私は高校二年生で今流で言うと、腰履きズボン時代です。
シニア隊で参加出来るものとして世界ジャンボリー・ベンチャー・団ボリーなどいろいろあるわけですが、その中であまりシニア隊に参加枠がない日本ジャンボリーに渋谷地区隊付スカウトとして参加出来ました。
思い出として、最初に思い出すのは連日、30度を越す猛暑の1週間、1.5リットルペットボトルを腰に砂ぼこり、夕立の中で過ごしました。
朝夕はまだ涼しく快適なのですが、太陽が上がるともう灼熱地獄、木陰も無く、マーキーが唯一のオアシスと化す日々でした。会場の妙高高原は自衛隊の演習地でもあり、連日隊員の協力により散水されるのですが、散水車が50mも進まないうちに土が乾いてしまいます。まさに、焼け石に水、スカウトがいくら汲んできても足りない飲料水状態です。火山灰質の土壌で、いったん乾くと砂ぼこりに苦しめられ、かといって夕立には、ミニ土石流災害です。テント脇水溝は意味を成さず、グランドシートはビチョビチョです。快適生活と噂されるジャンボリーといえども、隊キャンプで悪戦苦闘している光景と変わりませんでした。我が渋谷5団はリーダー自ら笑顔を絶やさず頼もしい限りでした。
ジャンボリーに参加したスカウト、リーダーなら誰しもが感じることとして、「これほど多くのスカウト・意見・習慣・風俗・民謡や踊りに巡り会えることは、日本・世界のスカウトが集まる祭典・ジャンボリーだ!」と感じます。これはなかなか普段体験することが出来きません。特にキャンプサイトゲートは地方色豊かで、東京は大江戸のイメージ、秋田はリンゴと、私たちの目を楽しませてくれました。
また、翌年韓国世界ジャンボリーと言うこともあり、韓国スカウトとネッカチーフ、ワッペン、帽子にサインなどを交わしました。東急本店需品部では売っていない物ばかりで、夕方サイトに戻ってお互いに見せ合い、デザインの良い物は、貴重な1.5リットルドリンクと物々交換をしていました。
ジャンボリー全体プログラムとして、ゲストのチャック・ウイルソンとマウンテンバイク、西田ひかるちゃんとバーモント?カレーを大鍋(直径5m)で一緒に作った覚えがあります。妙高全会場オリエンテーリング、ロープワーク、アマチュア無線局運用など、特修章・技能章を加味した物もありました。中でも一文字だけ書いたプレートを首からつり下げ、指定された言葉「そなえよつねに」などを手つなぎ鬼状態で相手を捜し求め、広大な会場を駆けずり回った記憶があります。
集会式場も大きい所ながら、全体入退場が1時間以上もかかり、スピーカーの音も人の熱気と歓声でかき消され、後方に居た我々にはスクリーンに映し出される様子しかわかりませんでした。尚、一面には旧制服茶色の群衆に包囲され、「これほど多くのスカウトが居るのか?」と、ただ圧倒されるだけでした。
ざっと、記憶にある限り書きましたが、隊、団のキャンプとは、参加者も会場の規模が違うジャンボリーに、機会があれば参加する事をお勧めします。
これだけ多くの他人なのに、「誓いと掟」をたてた同じスカウト同士ならなぜか一緒になれる不思議な一週間だったと感じたからです。
吉沢千恵子
今までカブ隊の活動を行っていた私にとって、ビーバー隊に入った時の印象は、今でも忘れられません。例えば、カブ隊では「集合!!」という声、ホイッスルとともに集まってくるスカウトたち。なんとビーバー隊では「みんなで大きな輪をつくろう♪〜♪〜♪〜」と歌いながら、手をつなぎ、輪になって集合する。(えーっ。何これ!?そうか!!これくらいの低年齢になるとこうやって集合するのか)と目をまるくした覚えがあります。こんな感じではじまった私のビーバー隊活動でした。
その中でも、とにかく大騒ぎなのはキャンプ。
ハイキング・プログラムでは、歩くというより、走るハイキングでした。次のポイントに向かって、一人が急ぎはじめると、それに追いつこうと次々とみんな走りはじめてしまう状態。「もっと、ゆっくり―」というリーダーの声も、全く耳にとどかず、いつのまにか「待って―」とお願いの声。そして恐怖の荷物整理。これには毎回毎回みんな大騒ぎ。「この洋服はきた?」「それとも着てない?」「このパンツははいた?」「はいてない?」こんな繰り返しで物の汚れをみながらスカウトと判断したりもしました。
でも夜になると、こんな興奮気味のスカウトたちもぐっすりねむりについていました。夜中に様子を見に行くととても静かに眠っているのですが、体の方はとても元気で、人の体の上に足がのっていたり、部屋のすみの方に転がっていたりと、思わず、ふきだしてしまったことが何度もありました。普段の集会では、月に2回という中で毎回楽しいことや、予想もしていなかったことがおこり大騒ぎです。中でも集会でのおやつ時になると、みんな、よりいっそう機敏な動きになります。
おやつをわけること。ゴミをあつめること。「こんなことでも?」と思うことでも喜んでやりたがり、それをやり終えるととてもうれしそうで、満足した様子がわかり、とても頼もしいです。とにかくビーバー隊はいつでも大騒ぎの状態です。
最後に、このような低年齢のうちから、たて割社会が体験できることは、うれしいことで、しかも下は幼稚園生から、上の年齢はどこまでも―。と。
他にはない社会だと思います。この楽しさに気づくことはずっと先かもしれませんが・・・・。
柏木信昭
この稿では現在シニア隊で毎年行われている「キリスト教章の講習会」について紹介させていただきます。
実を云えば「キリスト教章の講習会の企画と実施」の仕事をすることに私は複雑な思いがあります。どうもカッコ悪い、宗教なんてものを語る奴にロクな奴がいない、エラそうな事を根拠もなく飾り立てているだけ、こんなイカガワしい事していいのかしら、などという思いがついよぎってしまうのです。
だから、自分にもスカウトにも「そんなんじゃないんだ!!」と心に刻み付ける事ができるような講習会にしたいといつも思っています。しかし、本当にそうなっているかどうかどうも心もとないのも事実です。
さて講習会ではどんな事をしているのかというと、内容は一つだけ「聖書の内容を概略的に教える」、これだけです。
しかし、これには問題があります。というのは、スカウトがこの講習会を単なる「お勉強」としてしか受け止めないのではないかということです。聖書の内容は「知識」として教えられても無味乾燥なものです。おそらく信者の方々の中にも聖書を「お勉強」として、「知識」としてしか教えられてない人は、どうもイエズス様やマリア様は好きだけど教会でやっていることや言っていること、それにミサも退屈でね・・・という人が多いのではないかと思います。
ところで、この講習会が最終的に目指しているのは「聖書の知識を得ること」ではありません。また「キリスト教の教義や慣習一致の知識を得ること」でもありません。そうではなく「心も、感情も、体も神様に触れさせていただく」のが目的なのです。頭の理解ではなく全身で体得することが目的なのです。
スカウト運動は自然を舞台にして心も体もその力を発揮させていく活動です。そして、それを通じて「自分の思うがままにいかないけれど、自分の命を育み守ってくれる」自然を知ること。それは本当に神様がどんな方なのかを感じられる最高の方法のひとつです。そこには、体の実感があるからです。司祭や、修道者の行う黙想も形は違えど同じ事を目指しているのです。つまり、普段の活動がそのまま「キリスト教章講習会」なのです。
さて、キリスト教章を身に付けるということは、スカウティングの技術と心を突き通す一本の柱の基礎工事をしたという事です。もちろん完成などしていません。ただ、自分たちのやっている活動の根本的な意味を深く理解するきっかけを与えられたにすぎないのです。ただ、自分なりの価値観を作っていくこの時期には非常に意味のあるものだと私は思っています。どうぞ、これからも皆様のご指導よろしくお願い致します。
米澤英一
ボーイスカウト活動に全く縁の無い生活をしていた私は、平成3年8月に長男和輝の保護者として、富士凸版研修センターでのビーバー隊夏キャンプに参加した。
初日、教会へ集合してから1時間後、私は島村副長の操るパジェロの中で東名高速道を富士に向かって揺られていた。「こちらOOO応答願います。」しきりに島村さんは無線を使って、本体の乗るバスやリーダー・保護者の乗る車との交信をしている。
パジェロに乗るのも初めて、無線を聞くのも初めての経験。「これがボーイスカウトか・・・」と私のボーイスカウトへの関心は高まる一方であった。
宿舎へ着くと直ぐに、島村副長はパジェロから無線機材を次々と運び出す。手際良くそれらをホールに組立て、スルスルと5mもあるアンテナをベランダに設置して、立派な無線局が出来上がった。
その日は午後から小雨まじり。まず私は小林副長に率いられノコギリを持って近くの竹林へ突入。2本、3本と竹を切るうちに「コラ!何をしとるか。」近所で畑仕事をしていた男の人に怒鳴られた。小林さんとその人とのやりとりを聞いていると、どうもその竹林は近くの寺の所有で、宿舎の研修センターを通じて許可を得ていたものの、私たちが勝手に入って切り倒していると誤解した様子。しかし私はそんなやりとりには構わず、早くこの作業から逃れたい一心で、どんどん竹を切り倒す。結構時間がかかり、薮蚊やぶよにさされ放題であったが、5〜6本の竹を携え宿舎に戻った。その竹を一節ごとに更に裁断し、夕食前に水鉄砲作りが始まった。
スカウトたちには難しい作業であったが、リーダー達の手伝いもあり何とか全員完成。皆が引き揚げた後で、山田慎吾君のお父さんが息子の作品を点検し、棒に巻く布をギリギリと締め直していたのが印象に残っている。
その夜は雨のためにナイトハイクを予定変更し、“暗夜行路”となった。宿舎内にロープを張り巡らせ、我々も手伝ってスカウトをおどかしたり、手助けしたり。スカウト並びにリーダー達の性格が一目で分かるプログラムであった。
その後、反省会をしているリーダー達を尻目に、我々保護者連は食堂で小宴会。田村さん、北村さんらに囲まれ、主婦の実態などを聞く楽しい一時であった。
さて翌日、6時頃に目を覚ますとリーダー達はもう制服を着ていた。山崎隊長が無線のマイクを持ち、交信している。横で聞いていると、その日に予定していたハイキングプログラムの一つである河原でのバーベキューが、昨夜の雨の為に川が増水し危険とのこと。山崎隊長から現地にいる梶井副長らに別のハイキングルート確保の指示がとんでいる。楽しいハイキングの裏に、こんなリーダー達の気配り、準備があったのかと頭の下がる想いであった。
スカウト達がハイキングに出ている間、私たち父親は宿舎のグランドでシニア隊松本隊長による“タチカマづくり”講座を受けた。火は地面の上で熾すものと思っていた私には驚き。昨日切り出した竹を組み、一時間ほどで立派なかまどが出来上がった。その時に習った結び方が、その後自宅でキウィ棚を自作する際に大いに役立った。
グランドに我々がいる時に無線機が音を出した。しかしバッテリー容量が小さく、良く聞こえない。200mほど離れた宿舎を見上げるとベランダで誰かが手旗を振っている。すかさず傍らにいたローバー隊の柏木隊長が解読する。「成る程、こんな時に手旗を使うのか・・・」とまたまた感心。
その日の夜は大営火。団委員の方々も輪になって沢山集まり、ムードは最高潮。いよいよ梶井副長が作った最新の点火装置による点火式となった。誰も近づかないのに、いきなり火を出してスカウトを驚かせる趣向であったが、スイッチを入れても火が出ない。リハーサルではあんなにうまくいったのに、どうも念を入れて本番用に足したガソリンが多過ぎたようだ。とっさに誰かが松明を持って点火。盛大な大営火が始まった。
翌日、宿舎を出発する前に、初日に作った水鉄砲での射撃大会が始まった。体のあちこちに的をつけて登場した小林副長をめがけて、スカウト達が一斉に水を浴びせかける。ズブ濡れになりながら逃げ回る小林副長の姿が今も目に焼き付いている。
以上、平凡な生活を送っていた私にとって鮮烈な印象の3日間であった。そしてこの日を機に、私のボーイスカウト活動は始まった。
渋谷5団の発団40周年に心よりお祝いを申し上げると共に、この団を支えて下さる皆様への感謝の気持ちで一杯である。
依田伸祐
渋谷5団が40周年を迎えられたことを心からお慶び申し上げるとともに、その関係者の一員として、多くの方々のご協力の賜と深く感謝申し上げます。
さて、標題についてですが、スカウト活動とゴルフは少なくとも当団発足の頃においてはまだ異質な関係にあったと思われます。しかしゴルフが、金がかかりすぎてブルジョアすぎるとか、ゴルフ場開発が自然破壊だとか様々に批判されつつも大変な勢いで大衆化を進めてきたのも事実です。そんな潮流の中にあって、当団のチャリティーゴルフもほとんど批判されることなく認知され、発展し、当団の財政はじめPR効果、コミュニケーション等々を含めると、それなりに貢献できていると自負しているところです。もちろんその位置づけは、当団そのものの行事というより、その外郭にあって団を支援していくためのものであり、その方針は今後も変わらないものと思っております。
ところで、このゴルフ会の生い立ちを私の聞き及んだ限りにおいて記録しておこうと思います。このゴルフは毎年1回開催しており、本年(1997年)で9回目を迎えることになりますから、その誕生は平成元年ということになります。
その年の春まだ浅き(?)世田谷池尻大橋の、とある居酒屋で呱々の声を上げたのです。ボーイスカウト関係者には山好きが多いのはご存じの通りですが、当時も今も団委員や団友会メンバーとして活躍いただいている渡辺さん、下和田さん、桜井さんの山好きメンバーが箱根・金時山に登山しての帰路のことです。山だけで終わらないのがこのお三方の特徴で、上記の居酒屋に立ち寄ったわけです。その中から「地区のチャリティーゴルフの案内」に話がおよび、スカウトとゴルフはなじまないとか何とかくだんの批判話がでていたようですが、そのうち酒の酔いとともに「5団のためにやるゴルフは良いゴルフ」という、コペルニクス的発想の大転換が行われ、それなら団委員長を交えて進めようということになり、当時の駒月団委員長が急きょ呼び出されてスタートしたわけです。
方針を決めてからのこの人達の力の発揮の仕方がすごかった。ゴルフ場は、賞品は、会費は、参加者への呼びかけはと、あっという間に詳細が決まり、第1回目がその年の10月第1水曜日(?)に栃木県の黒磯カントリークラブで行われました。参加者は保護者、その友人関係等々多士済々、男女あわせて約30名。
この時の賞品が実にユニーク。田中ローバー副長提供の鮭5本をはじめ、いろんな方からご提供いただいたお米、北海道直送のじゃがいも、鉢植えの観葉植物等々盛りだくさん(もちろんお酒もありました)。そのままキャンプができそうなものばかりで、さすがボーイスカウトと感心したものです。
それから毎年10月初旬に開催しており、ゴルフ場も数年前から厚木国際カントリークラブに変わりましたが、賞品の鮭はこのゴルフ会の呼び物になっております。ゴルフ場は時々変わると思いますが、この「鮭」だけは変えられません。そこで田中副長にお願いです。お店の代が変わっても、この賞品の提供だけはしっかり申し伝えておいてください。
最後になりますが、このゴルフ会はずっと続けてまいります。一人でも多くの方のご参加(最近はご夫婦そろってのご出席が増え、たいへん喜ばしい限りです)をお願いいたします。
佐野公一
毎年、日本では梅雨も中休みになる6月中頃の土曜日、フランスはル・マン市のサルテ・サーキットでは恒例のル・マン24時間耐久レースが開催されます。今年もポルシェ、フェラリ等の常連に加えて日本からもニッサン、マツダが参加しています。この半世紀以上もの歴史を持つレースは「公道を使用する」という自動車レースの原形を留めている数少ないケースです。当然ながら期間中一部の道路は閉鎖され、警察始めコース・マーシャル等の運営に参加するボランティアの市民、そして世界各国から集まる5万人とも10万人ともいわれる見物人がごった返し、この1週間は市を挙げて年に一度の一大イベントとなります。最近は衛星中継でレースの模様が放送されるようになり、車好きの私としては毎年この時は寝不足の週末を過ごすこととなるのですが、この24時間のなかで最も感動的なシーンは翌日曜日の夕刻、午後4時頃、24時間走り切った車が最後の周回にはいると(参加車両の半分以上は既に途中でリタイアしてしまい、残った車も完走を目指してゆっくりと走行しています)、コース各所の警告ポストで信号旗を掲示していたマーシャル達(全てル・マン市民のボランティアです)が手元に有るありったけの色とりどりの信号旗を打ち振って、生き残った全車両を迎える光景です。贔屓のチームの健闘を見届けるのもさる事ながら、このラストシーンを見るために二晩もテレビ中継に付き合っているのかもしれません。
さて、場面は変わって所は國學院大學のグランド、時計は同じく夕方の4時になろうかというところ、秋の日差しの長い影を疲れ切った脚とともに引き摺りながら、100キロハイクの参加者達がゴールのグランドを目指して坂を這い上がっています。伴走者と沿道の人たちの声援を受け、残り数分の時計と闘いながらの、ラスト・スパートというよりはエネルギーの最後のひと絞りという情景でした。この、機械ならぬ生身の人間の姿に魅せられて、私の100キロ・ハイクとの付き合いは始まりました。
当時は、今ほど携帯電話も普及しておらずサポートの車も台数を確保できなかった為、車載電話の付いていた私の車を移動本部にしてサポートのスカウト諸君にはレンタルのポケベルを持ってもらうという態勢でした。移動本部も伴走者として追っかけながらの作業となるので私も24時間、実際には30時間以上の徹夜作業となります。これは確かにしんどい作業なのではありますが、100キロ・ハイク参加者達或いはサポートのスカウト達とこのイベントを共有している事にもなり、ある種の充実感に満ちた時間でもありました。
そもそも渋谷五団のサポート隊は、当初正式な参加を認められず回収される棄権者の対象とされていなかった女子リーダー達の、『それでも行くぞ!』という強力な参加希望に圧され、心優しい当時の田中ローバー隊長が止む無く採った対策でありました。この女性パワーは五団のみのものではなく、その後ほど無く女子スカウトの正式参加が認められました。そして、現在では運営上の差し障りが有るとして各個別の団によるサポートは大会本部から自粛の指示が出ているのですが、既に伝統ともなってしまった五団のサポート隊は相変わらず健在です。
サポート隊の運営に付いても当初は思い付くままに対処していたのが実状でしたが、現在では今までにサポートを受けて100キロを完歩した多くのリーダー達が活躍してくれており彼等の手で円滑に準備が行えるようになって来ています。私も年のせいか車での伴走はきつくなってきた為、最近は事務所の一室を本部として設営し各隊員との電話連絡を行いながら一晩の御付き合いをしておる状況です。椅子に座ったままでの楽な作業にはなったものの、待ち時間のみが長い24時間となりました。団委員の方々の御協力を得たり、はたまた「人間ル・マン」の話を聞きつけ興味を持ってくれた車仲間の差し入れが有ったりと、なかなか賑やかなサポート本部風景では有りますが、現場の生な情景には触れる事が無くなってしまい、何か物足りなさを感じる事も有ります。せめて午後4時のあの感動だけでも再び味わってみたいと思いつつ、今年もイベントの開催を密かに待っております。
藤樫茂樹
「35周年ってちょっと中途半端だけど、とにかくみんなの心の中に残るモノにしたいよな。」
「『ひとつになろう』ってテーマなんだから、5団全員が一つになれたっていう達成感のあるキャンプがいいんじゃないかな。」
「みずがき山の麓でキャンプしてるんだから、全員でみずがきに登るハイキングってのはどうだ?」
「全員一緒ってのは大変だから、何人かの班に分けて登ることにしよう。班は混合にしてさ。」
「うん、それはいい。ところで、キャンプ中にうまいものが食べられたってのも、心に残るんじゃないかな。」
「だったらみんなで食事を作ってバイキングにしようよ。」
「できれば自分達で収穫した野菜とか魚とかあるといいよな。」
「おお、それって感動するんじゃないの。」
「あとさ、渋谷5団の全員がここに来たっていう形を残したいよな。」
「でっかいタワーかなんかを作ってみんなを驚かそうぜ。」
「それも共同して作るんだよ。タワーを作るのはボーイとシニアで、カブとビーバーはタワーの周りに絵を描いて貼ったりしてさ。」
「おもしろそうだな。団ボリーのシンボルになるんじゃないか。」
「そしてクライマックスは、一つの火を囲んでキャンプファイヤーで盛り上がるんだ。」
「ただのファイヤーじゃつまらないな。土人がたいまつ持って火のまわりをグルグル回ったりした方がインパクト強いぜ。」
「ビーバーの子供が泣いちゃったりしてな。」
「それはそれで心に残るよ。」
「ああ、なんか楽しみになってきたな。」
・・・と、こんな感じで、当時ローバー隊副将をしていた私と、主将の日隈君をはじめ、リーダー達は盛り上がっていったのでした。
小谷野洋一
私が団委員になって3年目の平成4年8月に35周年団ボリーが実施されました。瑞牆山の麓での一週間のキャンプ生活、何をやっても楽しく、この団ボリーでスカウト活動にはまった感じでした。
私と依田さん(副団委員長)とで、森重さん(ビーバー隊副長)提供の中型アルミバントラックで器材運搬をしたり、焚き火を囲んでの駒月亭での楽しい団らん。店長の駒月さん(副団委員長)のさわやかな接待、夜の料理長の熊野さん(行事委員)のおいしい料理。
カブのリーダー達をバス停からキャンプ地までトラックで輸送し排気ガスを吸ったリーダー達の顔。
35斤(?)の食パンを調達するため、長野県の川上村まで買い出しに森重さんと走り回り、村のパン全部買い取った様な妙な気分。
トラックが太い木の枝に接触、左側面のアルミ板を破損、運転者が誰だか解らず、立会人冨崎さん(団委員長)運転者が私で保険会社から保険金がなかなか出なかったこと等、たくさんの事が思い出されます・・・。
何と言っても瑞牆山(標高2,230m)登山である。ここで私はそれとも知らずにカメラマンを徳植さんと引き受けたのである。センスと体力がものを言うのも知らずに。
撮影地点は、出発時、途中2カ所、頂上の計4地点である。カブ、ボーイ、シニアの縦割りの四班で10分間隔のスタートである。出発時の各スカウトのさわやかな姿を私が写し、第二地点は徳植さんの受け持ちである。この地点はゆるやかな登りで各スカウトも笑顔で余裕である。
第三地点(1,700〜1,800m)は私の受け持ちである。徳植さんからカメラを受け取ると、先頭の第一班までを追い越さなければならない。さあ大変。登りも急勾配となり、木々の種類も変化していよいよ本格的な登山だ。四、三班は楽に追いついたが、そこから先がなかなか追いつかない。汗は玉の様に吹き出し呼吸はあれるし、メガネも曇ってくる。ちょっと立ち止まるとまるで蒸し風呂である。暑い。体がもつのか不安になった。ふと気が付くと、30周年記念のネッチリングを落としたらしい。汗まみれのネッカチーフをリュックに入れ、ただ追いつくことだけ考えやっとのことで先頭の班を追い越す。休む間もなく、よい撮影場所を探す。蛇の様な急斜面で落雷か何かで枯れた大木があり、その下に登山道が見えるよい場所である。暑さと汗は相変わらず。「うちわ、いや扇風機が欲しい」5分もすると第一班が、二班も順調に通過。「ハイ、シャッター」。皆意外と元気である。疲れているのは私だけかと思うほどである。
大分待った気がするが、三、四班が来ない。いやな予感がする。「誰かが岩からすべり落ちたろうか。疲れて動けなくなったスカウトがでたのか」一人で待機していると悪い事ばかり考えてしまう。
そうこうしているうちに三、四班が一体となって登って来た。柏木さん(当時ローバー隊長)が笑顔で手を振ってくれた。シャッターを数回押した。何だかとても感動が込み上がり、私も大きく手を振った。「孤独ってつらいものだ」
全員無事通過。よい写真も撮れたと自己満足。身仕度を整えて頂上目ざして登山開始。頂上では誰かが写真を撮っていると思うと気持ちも楽になり、マイペースで登る事が出来た。
頂上へ着いて驚いた。アメの包みやビニール袋等のゴミが岩の陰や木の根元に多量に落ちている。持ち帰れる量ではない。まったく山の頂上までこれでは・・・・。
頂上の見晴らしはすばらしい。我々の宿泊地が真下に手にとる様に見える。大声を出せば聞こえそうである。スカウト達が元気なのには驚いた。「若さとはすばらしい」。私も遅い昼食をとり下山である。
途中冷たい湧き水を飲み、リーダーが用意してくれたスイカのうまかった事。
全員無事下山。心地良い疲れが全身をおおっている。登山中に落としたネッチリングは翌日私の手許に返ってきた。拾って下さった方は残念ながら覚えておりません「ありがとうございました」。
その2年後私はボーイ隊のリーダーとなり、お手伝いをしております。
駒月昭雄
日本連盟の規約改正に伴い活動開始時期を4月から9月に移行せざるを得ない問題が起きたのは89年でした。移行実施までに渋谷5団では2年余かかった。この間、団委員と各隊リーダーと何回となく会合を開いた。その場所は隊ルーム、大・小講堂であったり中目黒や渋谷の飲み屋であったり、又、キャンプ地でもあった。特に充実した会合は91年2月の合宿であった。40余名の団委員、リーダーが集合し夜も忘れて議論、その一番大きな問題はビーバー隊、カブ隊のスカウト募集時期を半年前倒しすることによるその体制づくりと、両隊の移行時における活動消化であった。朝3時ごろ議論を終え大部屋で皆寝袋の中に入ったが、数名の団委員のいびきで当人以外は寝不足で東京に帰ってきた。
移行後の結果から判断してみますと、2年間の議論の成果もあり、又、団委員、リーダー、父兄の努力でビーバー、カブスカウトの募集も支障なく、活動の消化も順調に行われた。
渋谷5団発団40周年を迎えられたのは、神父様はじめ教会の暖かい支えの上に、5団のリーダーと団委員、父兄との調和が発団以来続いていることにあることだと思います。大学生のリーダーから50代(60代も若干名)の団委員、リーダーが年を超えてボーイスカウト活動について常に議論し、忙しくてもその充実、発展のために奉仕する環境にあることが40周年団ボリーを成功裡に終えられたことと思います。
依田伸隆
四万十川移動野営。その時、確か僕は高校一年だった。普通なら繊細で傷つきやすい年頃なのだろうが、僕は馬鹿だった。と言うより、ただ何も考えていなかった。なんせ僕個人のキャンプのテーマが「四万十のファッション、トレンドを探る」みたいなわけのわからないものだった。今思い出してみただけでゾッとする。まあ、そんなファッション誌から出てきたような頭の悪いガキが、仲間達と四万十に行って憶えている事なんてたかが知れている。例えば、岡村君のザックの中で油がこぼれて苦労していたとか、道中になぜかどでかいナベのような物が置いてあったとか、そんな具合だ。山本君が途中から合流してくれた事や、一つ前の村で置き忘れた戸張さんの眼鏡を次の村まで住民の方がとどけてくれたなんていう良い話もあった。が、そんな良い話をあいまいな記憶で書くのは畏れ多い事だ。引率して下さった松本隊長や鈴木副長には大変申し訳ないが、なんせ四年前の事なので漠然としすぎている。
だが、一つだけ確信を持って憶えている事がある。それは海に出た時の事だ。四万十川を下りきって中村という町へ来た。そこで自転車を借りて海に向かった。とても新鮮に思えた。もしかしたら、今まで山に囲まれた川をずっと下ってきたのはこの解放感を味わうためだったのではないか、と思った程だ。確かに山に囲まれた四万十川もきれいだったが、今思い出すのはあの海に出た瞬間の事だ。何という事もない、ただの海。今考えると、何回も見ている海なんかより四万十川の方がいいではないかと思うかもしれないが、その時は違った。おそらく歩ききった達成感なしでは、なにも海くらいで感動しなかったであろう。そこが普通の観光と違うボーイスカウトの良さだ。
そしてその帰り道だった。海を背に走りつつ、キャンプももう終わりかという寂寥感に浸っていた時、突如襲ってきた大惨事。そう、目の前を横切った蛇に松本隊長は絶叫していたのだった。
宮田彌生
91年2月16日 兄太陽に「ローバー隊で隊ルームの整理をするから来てみれば?」と誘われて多少緊張しながら、初めて隊ルームを訪れてみた。するとちょうどその日はカブの集会があり、スカウトの前でいきなり「新しいリーダーが入りました。」と当時のカブ隊隊長の山田啓造さんに紹介され、何だか解らないうちにリーダーになってしまった。私の渋谷5団へのデビューは忘れもしないこの日である。その日隊ルームの整理をした記憶は全く無い。「ボーイスカウトは一度入ったらヤクザの世界みたいにやめられないよ」と言われたことがあるが、その後私はまさにボーイスカウトの世界へズブズブとはまって行ってしまった。
その日から早6年半がたった。40周年を迎える今、6年半とはなんと短い期間であるが、私にとっては充実した6年だったと思う。
この6年の思い出を書き始めたら小さなことから大きなことまで書ききれないが、心に残っているものを思いつくままに2・3挙げると、那珂川でカヌーから落ち、川で流されたローバー隊夏キャンプ、35周年の瑞牆山でのキャンプ、100キロハイクの完歩・・・と、しんどかった思い出、楽しかった思い出がたくさん入り交じっている。
100キロハイクについては楽しかったと一言で言える思い出ではないが、100キロハイクに参加するにあたり、たくさんの人たちに支えられた。いきなり100キロは見当がつかないと思い短大の友達を誘って新宿−青梅の43キロハイクに参加した。今考えてみればこの友達も結構な物好きで、こんなプランによくぞ付き合ってくれたとありがたく思う。それから100キロハイクを一緒に歩いてくれた人・一晩中を通してサポートしてくれた方々には何度お礼を言っても言い足りない。この素晴らしい経験を一緒に作ってくれた仲間だからだ。友人の中には「何の為に歩くの?」と100キロ歩くことを理解してくれない人もいるが、ボーイスカウトの人は皆解ってくれているという安心感が私にはある。渋谷5団の仲間は良い意味で個性が強い人が多いと思うし、人それぞれ考えもさまざまであるのに、なぜ一体感を感じられるのだろうか?これがボーイスカウトの精神なのだろうか?
渋谷5団とは、私にとって年齢を超えて気持ちが分かり合える特別な場所・心地良い場所である。私にとって、ここに居るたくさんの仲間は私の誇りそのものだと自信を持って言える。「大好き」という表現が似合うだろうか?
こんな“今”のきっかけを作ってくれた自分の周りの環境に、感謝の気持ちを忘れないでいたい。
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