楠公精神 平泉 澄
文学博士
略歴
明治28年 福井県(平泉寺白山神社)出身
大正 7年 東京帝国大学 文科大学国史学科卒業
大正12年 同大学講師
大正15年 同大学助教授、文学博士
昭和 5年 欧州に留学、6年帰朝
昭和10年 同大学教授
昭和20年 同大学辞職、平泉寺白山神社宮司
昭和23年 公職追放
昭和59年 逝去(満89歳)
平泉史学
東京帝国大学教授時代の平泉 澄は熱烈な皇国史観の主唱者であり、皇国史観を官学
アカデミズムという立場から強調した。学問の中に積極的に国粋主義を取り入れ、彼の学問
において歴史とは天皇家の歴史であり、思想史とは勤皇思想の研究であった
※『皇国史観』とは「日本国は皇国であると考え、日本の歴史を皇国の歴史として捉える歴史
観」であり、『皇国』とは「天照大神を皇祖とする万世一系の天皇が統治する国」をいう。
特に戦時中は大きな影響力をもち、平泉史学と呼ばれたイデオロギーは、政界・軍部・警察
にも影響を与え、太平洋戦争開戦とともに海軍勅任嘱託となり、海軍兵学校では彼の著作
が教科書として使用されたこともあった。人間魚雷「回天」の創始者・黒木博司海軍少佐や、
(宮城事件) を企てた陸軍将校達もその影響を強く受けた人達だった。
戦後、大学を辞職して帰郷し平泉寺白山神社の宮司となった。昭和23年に公職追放の対
象となった後は、歴史の研究・著述と後進の指導に専念する傍ら、銀座に研究室を開設し
昭和59年に没するまで右派の国史学者として影響力を持ち続けた。
戦後占領下の洗脳教育により『皇国史観=悪』という図式ができてしまい、誰もがこの言葉
を遠回りして避け、皇国史観が社会を動かす時代ではなくなったが、日の丸・君が代・天皇
陵・靖国神社・教科書検定などをめぐる一連の動きに平泉史学の影響を指摘することがで
きる。
平泉 澄著「楠公/その忠烈と余香」鹿島出版会
黒木少佐を弔う歌
国史学の泰斗、平泉 澄先生は奉職していた東京帝國大学だけではなく、多くの大学生達に
門下生がいた。人間魚雷「回天」の創始者・黒木博司海軍少佐もその一人だった。
黒木少佐の葬儀は、戦後の昭和21年11月 7日に郷里下呂町の禅昌寺で斉行されたが、
簡略化された通夜だったために読経も無かった。
その席上、平泉先生は自分の詠んだ歌を読み上げている。
. 秋ふけて 飛騨の山々 もみじばに 映ゆるを見れば 想いいづ
. 純忠の士 一生涯 頂天立地 報国の 丹きまごころ
. 笑止なり 世の顕官 廟堂の 高きに立てど 情報は
. 余すなけれど 見通さず 国の行末 徒らに 月日を送る
. 君思ふ ま心をのみ 唯一の たよりとなして 眺めれば
. 火を観る如し 盟邦の くらき運命 わが国の 苦しき歩み
. 眠られぬ 夜をば徹し 血もて書く 非常の策 謹みて
. 上に献じつ 浪くぐる 決死の術 難きをば 自ら擔う
. 皇国に 幸しありせば いしぶみに 黄金ちりばめ 琅杆の
. 墓をも立てて いさをしは 村々伝へ 口々に ひろく讃えむ
. 今集う 友わづかにて とぶらひは 寂しくあれど 天かけり
. 見ませみ霊よ 血に泣きて 沈める月の 消えやらぬ 影悲しむを
平泉寺白山神社
福井県勝山市
平泉寺白山神社
楠木正成公墓塔 忠魂碑
説明文
当社は後醍醐天皇の建武の中興に際して、北条氏の一族を大野郡牛ヶ原に攻め滅ぼす
など、官軍との関係が密接であった。古い縁起によると楠木正成公の甥恵秀律師は平泉
寺宗徒の一人で、延元元年(1336)当社三之宮に参詣していると夢に大楠公が騎馬姿で
現れ、不思議に思っていたが、やがて大楠公湊川戦死を聞き知るにおよんでまさにそれが
夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を立てて菩提を弔った、と伝える。周囲の石柵
と参道は寛文八年(1668)越前藩主松平光通公の奉納によるものである。
下呂楠公社
岐阜県益田郡下呂町
碑文
回天の壮挙は世の驚きにして その忠烈は人の感銘するところなり ここに創案者黒木博司
少佐を敬慕する人々相計り 少佐の筆になる回天の二字を石に刻して郷里下呂に建て之を
顕彰す よりて今歌をつらねてその志を伝えその功をたたへむとするに 調拙くして意を達す
るに能はざるを恥ず 祖国今すでに危しいかにせむ
何とすべきか思いわづらふ身をすてて国にむくいむ一念の凝りて生れぬ魚雷回天只一人魚雷
いだきい波くぐり おごる敵艦粉にくだかむ百千のいかづち一時におつるごと 敵艦みぢんに
くだけ飛び散るその姿 目にこそ見えねま心は とはに守らむ父母の国
平泉澄泣血拝書
夜の森公園
福島県原町市
碑文
中野少尉名は磐雄 大正十四年原町に生る 父は松太郎母はひでよ 昭和十七年報国の志を立てて
土浦海軍航空隊に入る やがて戦況逆転し国運の危殆に瀕するを見 概然身を挺して之を挽回せん
とし率先神風特別攻撃隊敷島隊に加はり レイテ島沖に敵艦を急襲し身を以って弾丸として壮烈なる
戦死を遂げたり 時に昭和十九年十月二十五日未明 享年十九歳 二階級特進海軍少尉に任じその
戦功を表彰せられたり 小中学同級の友人追慕の情に堪へず相謀りて記念碑を立て永く忠烈を伝へ
んとす
文学博士 平泉 澄撰
更新日:2009/10/18