戦没者釜墓地
慟哭の釜墓地
社団法人戦没者釜墓地護持会「慟哭の釜墓地」平成元年十二月十五日 より引用
太平洋戦争が終わって、引揚げ復員の拠点となった長崎県佐世保市針尾北町の浦頭港は、昭和二十三年六月の
引揚げ完了までに、およそ百三十万人を迎え入れた。
昭和二十四年一月、米軍の命令によってフィリピンのマニラから、引揚げ船「ぼごだ丸」が、四千五百十五柱
と御遺骨三百七柱を積んで佐世保市針尾北町の浦頭港に着いた。
当時、今の針尾工業団地内にあった引揚援護局は、この御遺体や御遺骨を「ぼごだ丸」からハシケに積み替え
佐世保市江上町の釜地区に運び、陸揚げをした。
ここで一端、援護局の倉庫に安置したのち、露天に薪を組んで御遺体をのせ、さらに、その上に薪をのせて油
をかけ、荼毘に付された。一日に百六十体づつ、途中雪の日もあり、荼毘は、およそ一ヶ月かかったと記録に
残されている。
また引揚げ者のうち、引揚げ船の中や、対岸の大村線南風崎駅で、郷里に向う引揚げ列車を待つ間にも亡くな
った、約二千人の御遺体も、ここで、荼毘に付された。
フィリピンのカンルバンの収容所は、マニラの南方約五十キロのところにあり、その途中のモンテンルパ市に
は、日本軍戦犯が収容されていた有名なニュービリリッド刑務所がある。収容所には、何千とも数えきれない
大型テントが張られ、戦後フィリピンから帰還した十三万人の日本人のほとんどが、一度は、このテントに収
容されていた。このカンルバン収容所では、亡くなった日本軍将兵の墓標が建てられていた。
昭和二十四年一月、浦頭港に着いた四千五百十五柱の御遺体は、墓標を掘り起こし運ばれてきた。その中に油
紙に包まれた御遺体は、白骨化したものもあり、厚生省「復員援護局史」によると、浦頭港において、この御
遺体と御遺骨の日本側への引き渡しに立ち会った米軍のフロール中佐は、「御遺体は、全て御遺族に届けるよ
うに・・・」と厳命し、名簿を渡した。
ここで、荼毘に付された六千五百柱の御遺骨を地元の篤志家が、籠やほげで釜地区の小高い丘に集めて土盛り
をし、その上に慰霊碑を建てた。これを釜墓地と呼んでいる。
現在、釜墓地には、高さ約五メートルの護国慰霊碑があるが、これは、昭和三十四年十月に建てられたもので
ある。その後、周囲の人々がお盆やお彼岸にお参りをしていたが、昭和四十二年からはそれも途絶え、さらに
針尾工業団地が造成中の数年間は、釜墓地への通行路が完全に遮断され、墓地は荒れ放題。周囲は、雑草が生
い茂り、訪れる人とて絶えていた。
昭和五十五年、やっと針尾工業団地の造成も終りに近づき、何とか車で釜墓地に行けるようになった。このこ
ろから、長崎県議会議員でもあり、現社団法人・釜墓地護持会会長の宮内雪夫氏が針尾に開設している、社会
福祉法人・長崎博愛会の職員の協力で、釜墓地周辺の草刈り清掃が行われ、毎年七月の慰霊祭前と年末にもこ
の奉仕は続けられている。また、昭和五十七年には、宮内雪夫釜墓地護持会会長がこの墓地に桜の木四十本を
植えた。今では、戦争の犠牲となって亡くなられた人々が、夢にまで見た八重桜が、毎年、春みごとな花を咲
かせ、御霊を慰めている。
昭和五十七年六月、釜墓地護持会会長宮内雪夫氏は、地元の有志や、長崎博愛会の職員に強く呼びかけ、釜墓
地護持会を結成。全国に釜墓地の由来を伝えた。これをきっかけに、全国各地から遺族たちは、釜墓地に馳せ
参じ、供養の花束を捧げ、名簿を見て父や兄の名前を発見し、「ここに眠っていたのですか、知りませんでし
た」と涙を流し、宮内雪夫護持会会長に供養を頼んで、「釜墓地の一にぎりの土」を持ち帰ったのである。
当時、厚生省は、「釜墓地に葬られている御遺骨は、遺族に届けた後の残骨である」と回答していたのである。
釜墓地護持会では、毎年八月十五日の終戦記念日の前に、慰霊祭を行っている。また、大晦日には、越年祭も
催し、御霊を供養している。昭和六十一年三月二十九日、高田勇長崎県知事が現職の知事としては、初めて釜
墓地を訪れた。この日、高田知事が宮内雪夫県議の要望で、釜墓地を参拝。花を供え、御霊を供養した。針尾
工業団地は、県有地であり、隣接する釜墓地周辺を公園化するため、県有地の払い下げを請願していた矢先で
もあり、高田知事は、釜墓地の由来と現況を宮内雪夫県議から詳しく聞いた。慰霊碑前にある本仏寺は、寺と
は名ばかりで廃屋寸前であった。このお寺は、昭和三十三年、旧針尾海兵団守衛詰所を解体して建てられたも
のである。ここで芳林秀樹僧侶(当時、八十七才)が墓守りを続けておられる。本仏寺は、お堂の傷みがひど
く、訪れる遺族たちの休憩所にもなりえない有様であった。そこで、釜墓地護持会で寄付をつのり、記念館と
して建て替えることになった。昭和六十一年四月、起工式があり、七月十三日に完成。落成式に先だって、午
前十時から記念館の引き渡し式が行われ、宮内雪夫護持会会長から日蓮宗長崎宗務所へ記念館を引き渡した。
続いて、慰霊碑に記念館の落成を報告。広場で落成式が行われた。
釜墓地
長崎県佐世保市
釜墓地
説明板
太平洋戦争が終結し、海外からの最終引揚船「ぼごだ丸」が、昭和二十四年一月、フィリピンマニラ郊外の
日本人収容所から、御遺骨三〇七柱と御遺体四五一五柱を積んで浦頭港に着きました。
御遺体は、この地で荼毘に付されその外、引揚の途中で亡くなられた二千余柱の御遺骨と合せて六千余柱の
御遺骨が、遺族の元へ還れぬまま、この墓地に眠っておられます。
祖国日本を守る為に戦い、今日の平和の礎となられた英霊を慰め、心からその御冥福をお祈りする為、私共
は毎年七月に当墓地に於いて慰霊祭を開催すると共に、墓地並びに周辺の整備を行って
おります(後略)。
平成八年六月 社団法人佐世保釜墓地戦没者護持会 会長宮内雪夫
供養塔
碑文
昭和二十四年一月十三日より同二月十三日までの間 此地に於て火葬処理した比島より還送の遺体四五一五柱
及開局以来当地に於て火葬処理したものの残骨を埋葬せり
ここに其の冥福を祈るものである
昭和二十四年二月吉日 佐世保引揚援護局
釜霊園追悼の碑 供養塔(平成27年、墓地入口に移設)
世界全国戦争犠牲者霊 六千五百余柱護國霊墓
世界全国戦争犠牲者霊 六千五百余柱護國霊墓
南無妙法蓮華経
碑文
この地に眠る、六千五百余柱護國英霊の追善と、全世界の戦争殉難者の菩提を祈ると共に、一天四海皆帰妙法・
立正安国世界平和を願い、終戦五十周年を祈念し建立す
平成七年十二月吉日 本佛寺第三世 大木亮■
如比堂
由来
御堂命名者
河口雅子殿 遥かなる慟哭の地比島に思いを至し「如比堂」と命名す
群像
左像 神さま助けて 右像 母さん立ち上がって
群像製作寄贈者
新美 彰殿 この群像は女史が太平洋戦争末期 ルソン島北部山中を幼い子を抱き飢えと病いと
闘いつつ逃避行を終えた悲惨な思い出を刻したものである
更新日:2016/07/24