海防艦 大 東
略史
海防艦「大東」は対潜対空兵器を強化した「御蔵」型海防艦として、昭和19年8月7日に日立桜島造船所
にて竣工、急速訓練を受け9月11日に第一海上護衛隊に編入された。
日本海軍最初の電探を装備し、初陣となった9月23日の沖縄戦で敵潜を撃沈、「電探をもって敵潜水艦
を捕捉し之を撃沈せるは軍艦大東を以て日本海軍の嚆矢とする」との感状を受けた。
その後「ヒ八六船団」に参加、船団護衛任務で内地と南洋方面を往復し、昭和21年1月12日には敵機動
部隊との戦闘において五機を撃墜、更に同16日には海南島にて敵機一機を撃墜した。
その後大湊警備府に編入され、門司:台湾間、南鮮方面、北海道方面の海上護衛に従事し、健在のまま
終戦を迎えた。武勲の海防艦であった。
戦後、進駐軍の命により乗組員が再召集され、機雷掃海艇として対馬海峡にて掃海作業に従事し、昭和
21年11月16日、対馬海峡東水道において触雷し、艦長西部貞三海軍少佐以下35名
が殉職した。
触雷
「大東」航海長:芥川英郎海軍中尉 海兵同期生の回想より
昭和20年11月16日、曇り時々雨。07:30 予定通り出港。今日はうねりが高く掃海は不可能では
ないかと思う。何時ものとおり「大東」が一番艦で掃海開始。10:20 機雷源に入った時、「大東」が
機雷をつつ切ったのが見えたかと思うと大きな爆発音が聞こえ、同時に「大東」は水煙に隠れて見えな
くなった。艦長が「大東轟沈」と叫ぶ。小生が「いやそうじゃないですよ、浮いてますよ」と言う。「大東」
は航行しているが艦が変な方向に向いている。「おや、おかしいな」と思っているうちに、艦がだんだん
沈んでいくように見える。前檣が倒れ、見る間に艦体は真中から二つに折れて、先に艫のほうが沈み
舳のほうは暫らく浮いていたが直角になって突っ込んでしまった。
三分位して救助艇を下して救助に向う。波が高いため救助がはかどらない。それに空樽、ドラム缶など
が浮いていて邪魔になる。板に六、七名つかまって泳いでいるのを助けると、皆嬉しそうに感謝する。
泳いでいる人はいないかと見回してもいないので、全力力漕して帰る。
「大東」が沈んでから35分、原速で壱岐に帰る。13:30、艦長は直ちに米艦へ行かれ、間もなく米艦
より「負傷者を鵜来へ送る」と信号が入る。大発がこちらに向って来ると、「大東」軍医長が寒そうに立っ
ている。
「准士官以上で亡くなった方は」と尋ねると、「艦長、航海長、掌機雷長が見当たらんです」という。
嗚呼、芥川も遂に死んだかと思うと、比島沖で「摩耶」が沈んだ時のことや休暇で一緒に帰った時の
ことが偲ばれて感慨無量となる。
あの激しい戦争を生き長らえて、平和な時代になって死ぬとは。芥川、貴様は何故死んだのだ。
人生とは何と無常なものか。
高野山奥の院
和歌山県伊都郡高野町
海防艦大東 戦没英霊塔「忠魂」
碑文
海防艦「大東」戦没戦友に捧ぐ
霊地高野山に眠る戦没戦友の霊を永遠に慰めんと我等戦友一同 茲に集まり名を連ね肩を抱き合い
つつ友情を温めるものなり
若き日の面影を偲び懐旧の情亦新たなり
※海防艦「大東」初代艦長:内崎 強氏が、同艦の沈没を悲しみ自費を投じて建立。
新光明寺
神奈川県小田原市
「大東」航海長 芥川英郎(海兵73期/海軍中尉)墓碑
更新日:2002/10/14