捷一号作戦

 

当時の戦況(昭和19年10月)

サイパン島の失陥は、大本営が呼号する絶対国防圏の最も重要な中部太平洋の破綻

であり、長距離爆撃機B−29の日本本土直撃の前進基地となることを意味した。

そればかりか連合軍による日本本土への上陸作戦さえも懸念される事態となっていた。

日本海軍の航空部隊は「あ号作戦」で壊滅的な打撃を受け、その再建には困難を極め

ていた。残存の航空母艦は、艦載機の欠乏により戦力にはならず、水上部隊は「大和」

「武蔵」をはじめ健在であったが、航空機の掩護無しでの敵制空圏下での活動では兵力

とはなりえなかった。

米軍では日米開戦直後にフィリピンを終われたマッカーサー大将が、「アイ・シャル・リタ

ーン」の足がかりとしてレイテ島への進攻を開始していた。

昭和19年7月26日、大本営は「米国主力の進攻に対し決戦を挑み要域を確保する」

ことを目的として捷号作戦を策定。

同作戦は、捷一号作戦…フィリピン方面、捷二号作戦…九州南部・台湾方面、捷三号

作戦…本州・四国・九州北部、捷四号作戦…北海道方面に区分された。

 

捷一号作戦の概要

第一遊撃部隊(栗田艦隊)

サンベルナルジノ海峡を通過し、10月25日を期してレイテ湾に突入

第一遊撃部隊第三部隊(西村艦隊)

スリガオ海峡からレイテ湾に突入し、栗田艦隊と呼応して敵上陸部隊を攻撃

第二遊撃部隊(志摩艦隊)

西村艦隊に追従してレイテ湾に突入し、栗田艦隊と呼応して敵上陸部隊を攻撃

機動部隊本体(小澤艦隊)

レイテ湾突入部隊を支援するため、ルソン島の東方に進出して米機動部隊を

北方に牽制する「囮」

第一航空艦隊(大西瀧治郎中将)

レイテ湾突入部隊を支援するため、敵航空母艦を使用不可能にすべく航空機

によりに攻撃

陸軍第十四方面軍(山下奉文大将)

栗田艦隊、第一航空艦隊の攻撃に呼応し、レイテにおいて米上陸部隊と決戦

 

      

栗田中将         西村中将         志摩中将         小澤中将

 

栗田、西村、志摩、小澤四艦隊に与えられた使命は、生還を期し難い一種の

「特攻」攻撃であった。

8月12日にマニラで開かれた捷一号作戦会議の席上、栗田艦隊の小柳参謀長は

「連合艦隊司令部は、この作戦で水上部隊を潰しても構わぬ決意か」と詰問し、連

合艦隊司令部の神参謀は「比島を取られれば南方の資源は遮断され燃料が干上

がる。従ってこの一戦に連合艦隊をすり潰しても悔いはない」と返答している。

 

戦闘履歴

10月17日 米軍がスルアン島に上陸

10月17日 連合艦隊司令部「捷一号作戦」発令

10月20日 米軍がレイテ島に上陸開始

10月20日 小澤艦隊、佐田岬沖に終結、出撃

10月22日 栗田艦隊、ブルネイより出撃

10月23日 栗田艦隊、パラワン水道で敵潜から奇襲、「愛宕」「摩耶」沈没、「高雄」中破

10月24日 小澤部隊、攻撃機57機を発進(18機未帰還)

10月24日 栗田艦隊、シブヤン海海戦、「武蔵」「藤波」沈没、「妙高」中破

シブヤン海海戦の「武蔵」

10月24日 ハルゼー艦隊、小澤艦隊を目指して北上

10月24日 連合艦隊、命令発進「天佑を確信し全軍突撃せよ」

10月25日 西村艦隊、スリガオ海峡海戦、「時雨」を残して全艦沈没

10月25日 志摩艦隊、スリガノ海峡から退避

10月25日 小澤艦隊、エンガノ岬沖海戦、「秋月」「千歳」「瑞鶴」「瑞鳳」「初月」「多摩」沈没

エンガノ岬沖海戦の「瑞鳳」

10月25日 栗田艦隊、サマール島沖海戦、「鳥海」「筑摩」「鈴谷」「熊野」「野分」沈没

10月25日 栗田艦隊、レイテ湾へ進撃(11:00)

10月25日 神風特別攻撃隊「敷島隊」、体当り攻撃を敢行

神風特別攻撃隊「敷島隊」が突入した米空母「セント・ロー」

10月25日 栗田艦隊、レイテ湾を目前に反転北上(12:26)、「捷一号作戦」挫折

10月27日 小澤艦隊、奄美大島薩川湾に帰投

10月28日 栗田艦隊、ブルネイに帰投

 

戦果

航空母艦三隻、駆逐艦三隻

 

喪失

戦艦三隻、航空母艦四隻、巡洋艦六隻、駆逐艦十一隻、航空機百余機

戦死者 7、475名

 

「捷一号作戦」失敗の原因について、連合艦隊司令部の曖昧な指示、事前打合せの不足、

小澤艦隊の発した「作戦成功」の電文が栗田中将へ届かなかった、等が挙げられている。

いずれにしても日本海軍の連合艦隊は事実上ここに壊滅し、以後の組織的な作戦の続行

は不可能になった。

 

戦後

戦後の「栗田艦隊の反転」に対する批評は、栗田中将の誤判断、勝負度胸の欠如などを

責めるものが大勢を占めている。

しかし栗田中将自身は一切の弁明を好まなかった。

昭和41年、栗田は小澤中将を死の数日前に見舞っている。小澤は目に涙をうかべて

やせ細った手をさしのべ、無言のまま栗田の手を握って離さなかったという。ともに戦っ

た二人の男の胸中に去来したものは何であったろうか。

昭和52年、栗田は古武士のごとく生涯を閉じた。

 

ウインストン・チャーチル「第二次世界大戦回顧録」

「この戦場と同様の経験をした者だけが、栗田を審判することができる」

 

比島決戦

更新日:2004/05/09