南雲 忠一

海軍大将

略歴

明治20年 3月25日 山形県米沢市出身

明治41年11月21日 海軍兵学校卒業(36期)

明治42年  月  日 軍艦「日清」乗り組み

大正10年11月 1日 水雷戦隊参謀

大正11年12月  日 軍令部参謀

大正14年 6月  日 横須賀鎮守府付(欧米出張)

大正15年 2月  日 軍艦「嵯峨」艦長

昭和 2年11月  日 海軍大学校教官

昭和 4年11月30日 巡洋艦「那珂」艦長

昭和 5年12月 1日 第十一駆逐隊司令官

昭和 8年11月15日 軍艦「高雄」艦長

昭和 6年10月10日 軍令部参謀

昭和 8年 8月  日 軍令部航空戦教範起草委員

昭和12年  月  日 第八戦隊司令官

昭和13年11月  日 第三戦隊司令官

昭和16年 4月10日 第一航空艦隊司令長官

昭和16年12月 8日 ハワイ真珠湾攻撃

昭和17年 1月  日 ラバウル、ラエ、サモア上陸作戦支援

昭和17年 4月 5日 セイロン島沖海戦

昭和17年 6月 5日 ミッドウエイ海戦

昭和17年10月26日 南太平洋海戦

昭和17年11月17日 佐世保鎮守府司令長官

昭和18年 4月18日 山本五十六戦死(海軍甲事件)

昭和18年 6月21日 呉鎮守府司令長官

昭和18年10月20日 第一艦隊司令長官

昭和19年 3月 4日 中部太平洋方面艦隊司令長官

昭和19年 6月19日 マリアナ沖海戦

昭和19年 7月 6日 サイパン島玉砕(万歳突撃)、戦史(享年57歳)

サイパン島にて(前列中央)/最後の写真

昭和19年12月 4日 長男:進(海兵73期)、駆逐艦「岸波」の甲板士官として東シナ海で潜水艦と交戦、戦死

 

最後の訓辞

サイパン全島の皇軍将兵に告ぐ、米鬼進攻を企画してより茲に二旬余、在島の皇軍陸海軍の将兵

及び軍属は、克く協力一致善戦敢闘随所に皇軍の面目を発揮し、負託の任を完遂せしことを期せ

り、然るに天の時を得ず、地の利を占むる能はず、人の和を以って今日に及び、今や戦ふに資材な

く、攻むるに砲熕悉く破壊し、戦友相次いで斃る、無念、七生報国を誓ふに、而も敵の暴虐なる進攻

依然たり、サイパンの一角を占有すと雖も、徒に熾烈なる砲爆撃下に散華するに過ぎず、今や、止

まるも死、進むも死、死生命あり、須く其の時を得て、帝国男児の真骨頂を発揮するを要す、余は残

留諸子と共に、断乎進んで米鬼に一撃を加へ、太平洋の防波堤となりてサイパン島に骨を埋めんと

す。戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』勇躍全力を尽して従容として悠久の大義に生きるを悦

びとすべし。

 

円覚寺黄梅院

神奈川県鎌倉市

墓碑/長男:南雲 進海軍中尉と合葬

 

果断の提督

更新日:2007/03/21