豊川海軍工廠爆撃

諏訪墓地

 

 

豊川海軍工廠 諏訪墓地

愛知県豊川市

現在の諏訪墓地

遺体埋葬の概要

爆撃後の焦土から集められた夥しい数の遺体は第二工員養成所の庭に並べられたが、人数が

多く火葬施設が不足し夏場で遺体の腐敗が進む事から、豊川市内の千両町国有地と市田町諏

訪林国有地とに急造された墓地に2,385柱が仮埋葬された。

その後、豊川海軍工廠は解散して墓地の管理者が居なくなり、遺体は雑草が生い茂る墓地に

仮埋葬されたまま6年間も放置されていた。

 

昭和26年6月1日、厚生省援護局により諏訪林地区仮埋葬地の発掘が開始され、千両地区

の遺体は諏訪林地区へ移送された。

墓地の発掘通知により多くの遺族が現場へ駆けつけ、変わり果てた肉親の亡骸に声をあげて

泣く母親の姿が哀れを誘い、仮埋葬のまま6年間も放置した当局の対応に怒りを露わにする

遺族もあった。

墓地の整理には約二週間を要し、土はふるいにかけ遺骨は欠片といえども疎かにせぬ様丁重

に扱われ、同所で荼毘にふされ仏式の法要が営まれた。

身元が判明した遺体は僅か228柱にすぎず個々に火葬され遺骨は遺族に引き取られ、 身元

不明者の遺骨は横須賀・呉の両復員局に引き渡され、無縁仏として海軍墓地に埋葬された。

 

現在、諏訪墓地には千両墓地から移設された供養塔や、若い学徒の霊を慰めようと母校の人

達が建立した慰霊碑等が建ち並んでいる。

 

豊川海軍工廠 空爆犠牲者供養塔

 

豊川海軍工廠 会計部機銃材料係供養塔

碑文

茲に埋葬せる二十一霊は豊川海軍工廠会計部機銃材料係に奉職中 昭和二十年八月七日爆撃により

殉職せるものにして永く霊を慰むるため 遺族生存者相計り建立せるものなり

 

元豊川海軍工廠会計物資部戦没者五十三柱之霊

 

豊川工廠会計部■■者之碑

 

元豊川海軍工廠総務部戦没者六十柱之霊塔

 

豊川海軍工廠 総務部電気工場供養塔

 

豊川海軍工廠行員養成所 友魂之碑

碑文

豊川海軍工廠工員養成所は中堅幹部の養成機関として昭和十五年に開設 一期生から

六期生まで数えて約4千名がひたむきに学んだ

今ここに三十三年の歳月を回想し 不幸にして戦禍に遇れた多くの友を偲び 第二養

成所跡に之を建立した

昭和五十四年三月二十一日  元豊川海軍工廠工員養成所 豊養会

 

早稲田大学戦没学生之碑

墓誌

昭和二十年八月七日 豊川海軍工廠空爆に殉難死した故学友十二名の慰霊菩提のため 早稲田大学

早蕨会を代表し 石橋英三 栗原福雄 平田虎之助が建立委員となり 昭和二十二年七月十二日

千両墓地に建立

其の後 諏訪墓地に改葬した 改葬にあたり早稲田大学中村佐一教授 平田富太郎教授 建立委員

石橋英三 栗原福雄 平田虎之助 及び学友井沢保治 幸島鎮雄 斉藤光治 中山勝が 遺族と共

に参列した

 

立命館大学戦没学生慰霊碑

追悼文

相原和男  石川 巌  津野森正  本田義次

広島に原爆が投下された日の翌昭和二十年八月七日午前九時二十五分から約一時間にわたり..

豊川海軍工廠は多数の米機によって爆撃された そのさい学徒動員として勤労奉仕のために工廠

にあった立命館大学の学生のうち表記の四名は むざんにも貴い生命と輝かしい未来を奪い去ら

れた 終戦まぢかに散華したことは痛恨のきわみで諸君の心情を思うと断腸の感を深くする こ

こに碑を建てて諸君の冥福を祈り安らかな眠りを念願する

昭和五十一年八月七日

立命館大学立命館大学学友会 立命館大学二十二年専経専法同窓会一堂 遺族一同

 

愛知高等実修女子校慰霊碑

碑文

学徒動員により豊川海軍工廠に出勤中爆死せる愛知高等実修女子校生徒並びに卒業生二十九柱の 霊

ここに眠る そもそもこれらの少女達が豊川海軍工廠へ出勤を命ぜられたのは太平洋戦争がや ■や

■熾烈の度を加へ戦線が深く本土へ伸びてきたころで 花の蕾みも■■■■き年少の身を以 て一般

工員の間に伍し ひたすら兵器増産にいそしんだ姿はけなげにもまた可憐なものであった が 昭和

二十年八月七日■■突如爆撃を受けて宏大を誇った工廠が一瞬して灰燼に帰するや■■運命を共に

して むざんにも永遠に帰らぬ人となったのである 同じ学び舎に結ばれた友垣のし かも二十九人

もの少女が時と処を同じくして国難に殉じたというようなことは多く例を見ない悲 壮事というほか

なく 実に哀惜の情にたへないものがある すなはち有志相はかってこの碑をたて 慰霊の礎といた

すと共に 文を刻して遺烈を後代に伝え ■■■ありし日の清純な面影を偲ぶよすがとする

昭和二十五年三月二十一日建立

殉職者遺族一同 愛知実修女子高等学校教職員一同 愛知実修女子高等学校同窓会

 

松操殉職者之墓(千両墓地から移設)

碑文

散りゆくも 契りはつきぬ 千両墓地 とわに鎮まる 我子の奥津城

 

松操女学校慰霊碑

碑文

昭和十九年太平洋戦争は益々熾烈を加え国家の安危愈々急を告ぐるの秋 豊橋松操高等女学校

第一二学年生徒並に卒業生の一部は命に依て豊川海軍工廠に出動し 其の純情と精魂を傾けて

兵器の増産に従事せり 時会々昭和二十年八月七日突如塵烟天に冲する敵機の爆撃に遭ひ 此

處に 祀れる四十七柱は愛国の至誠に燃えつつ 忽ち工場と運命を共にし遂に国家の祭壇に不帰

の客 たり 嗚呼悲しき哉 仍て有志相諮り芳魂の永に薫し至心の長く後世に餞せらるるを信じ

此 の地に一基を建て千両諏訪の両墓地に眠れる霊を合祀し以って慰霊の誠を捧ぐ

紅魂は永く眠る霞山の下 陽燦々鉄骨に滑なり

広道今日走車絶え   石階楼上春草伸びたり

碑文協力:松操学園 大羽啓介様

 

豊橋市立商業高等学校 豊商健児之碑

碑文

神明宮の風清く 森厳森に溢れたり 聖諭奉載自己完結 いざや励まむ友よ永劫に

太平洋戦争耐なる昭和十九年四月我等豊商健児四百四十余名は学徒勤労動員令下 使命感に

燃え紫紺の桐花旗はためく母校をあとに勇躍豊川海軍工廠に出動 増産にその愛国の至誠と

青春の情熱を捧げた 爾来一年五ヶ月昭和二十年八月七日 敵B29を主力とする戦爆連合

百六十九機の波状攻撃による大空襲に遭遇 二千五百有余名の犠牲者と運命を共にされた友

又学徒出陣して白雲流るる南溟の果に 波騒ぐわだつみの底に 或いは北斗の星輝くシベリ

ヤの原野に散華された友 又志半ばにして病に斃れた友等 祖国日本の栄光を信じ護国の礎

となられた学友十二名の鎮魂と世界平和を祈念し 我等の友情と団結の象徴として同級生相

図り 母校創立八十周年並びに卒業四十周年を記念し此処に此の碑を建立する

昭和六十一年九月  豊橋市立商業学校 第十八回卒業桐八会 第十九回卒業桐久会

 

供養塔

 

戦没者の個人墓

 

 

 

豊川海軍工廠爆撃    豊川海軍工廠・豊川運動公園

 

2008.08.07 豊川海軍工廠戦没者慰霊祭

 

都市空襲

更新日:2013/09/29