豊川海軍工廠戦没者慰霊祭

情報並びに写真提供 伊吹春夫様

 

平成20年 8月 7日

於:豊川稲荷/愛知県豊川市

主催:豊川高校夜間部

 

豊川海軍工廠戦没者供養塔

 

  

      高校生による献花                        献花のあと全員で1分間の黙祷

 

  

供養塔西面(戦没者銘)                            出身地別の戦没者碑

 

広島と長崎のあいだでもう一つの慰霊祭

8月7日は豊川海軍工廠大空襲記念日です。

 豊川市では市文化会館で平和記念式典が開催され、中学生の吹奏楽なども披露されマスコミでも報道されました。

筆者はこの日、「豊川海軍工廠展」を見てきました。会場は豊川市の桜ヶ丘ミュージアム(地域文化広場内)です。

 午後2時から学芸員の案内で展示説明がありました。広島に原爆が投下された翌日のことです。

グアム、テニアン両島から発進したB29爆撃機124機が飛来し、午前10時13分から39分までの26分間に500

ポンド爆弾3256発を投下しました。僅か26分間の攻撃で東洋一とうたわれた巨大兵器工場は灰燼と帰しました。



 見学者の中に、当日工廠で働いていた方が数人おられて、直接お話が聞けたのは大きな収穫でした。

当時15歳だった女性の話。(光学部でレンズの仕事をしていたとのこと)

 「事務所に入ったときに爆弾が落ち、自分は倒れてきた書類棚と書類の下敷きになった。『総員待避』と命令

されたが、部屋の外は火の海になって出られなくなり、書類の山の下に潜り込んで一命を取りとめた

(展示の工場配置模型を見ながら)

ここに居たのよ」「この3階建ては、今でも自衛隊が使っているあの建物」と指さしてくれました。

当時の建築物が現存し活用されていることを初めて知りました。

また、別の男性は「この建物から、この通りを西門へ逃げた」など、生々しいお話でした。

 

八七会

豊川海軍工廠は数万人の大規模組織であったため、

    戦後の○○会は部単位、課単位、係単位、出身地別に相当数の組織(親睦会)が結成されていたようです。

  工廠生存者を中心に各地の○○会が結集し、昭和32年結成。

  

豊川海軍工廠の生存者や遺族は全国に散在し、関連団体は現在でも多岐に渡るようです。

工廠という軍に準じた組織は、上下関係の厳しさを戦後も引きつぎました。

八七会が出来てからも豊養会(工員養成所)は別の組織であったそうです。

犠牲者の出身地は朝鮮の23名をはじめ45府県に及ぶ。

 

慰霊の一切を取り仕切ってきたが、高齢化に伴ない60周年・平成17年8月7日の慰霊祭をもって公式の活動を

休止しました。

 

関連ページ 豊川海軍工廠爆撃

 

慰霊行事

更新日:2008/08/15