ペリリュー島玉砕

 

米艦艇によるペリリュー島への艦砲射撃

 

水戸歩兵第二聯隊

ペリリュー島を守備していた日本軍は、水戸の第十四師団座下の歩兵第二聯隊を主力とした地区隊

(隊長・中川州男大佐)一万二千名。

ペリリュー島守備隊は完全に補給も途絶え、食糧もない中、七十三日間にも亘る死闘を続けた。その

最後を迎えた時、中川大佐、そして第十四師団から派遣されていた村井権治郎少将、飯田義栄中佐

の三人は、それぞれ古式に則って割腹自決。

三人のあっぱれな最期に続けとばかり、根本甲子郎大尉以下最後の決死隊が組織された時、残る兵

員は傷だらけの五十五名のみ。

軍旗も機密書類も焼却したことを意味する最後の電文「サクラ・サクラ」が、パラオ本部に届いたのは、

二十四日の十六時。

このたった六文字の電文こそ、ペリリュー島守備隊全員が桜花のごとく散ったことを意味するもので、

一万人有余名の兵の死をもって謳いあげた世界で最も短かく簡潔な詩と言われている。

中川州男陸軍大佐

 

米海兵隊公刊戦史

日本の斬込隊の一団は、米軍の包囲圏を突破できず、二十四日の夜から二十七日七時頃までの間に

米軍と激しく交戦、全員玉砕

 

「ペ島の桜を讃える歌」


昭和五十六年一月、今でも大の親日国であるパラオ共和国が独立した際、ペリリュー島守備隊を讃える

歌もそれと共に作られた。作詩者はペリリュー島のオキヤマ・トヨミ、ショージ・シゲオの両島民。



激しく弾雨(たま)が降り注ぎ オレンジ浜を血で染めた
強兵たちはみな散って ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる



小さな異国のこの島を 死んでも守ると誓いつつ
山なす敵を迎え撃ち 弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない



将兵(ヘいし)は”桜”を叫ぴつつ これが最期の伝えごと
父母よ祖国よ妻や子よ 別れの”桜"に意味深し



日本の”桜"は春いちど 見事に咲いて明日(あす)は散る
ペ島(じま)の”桜"は散り散りに 玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に



今守備勇士(もののふ)の姿なく 残りし洞窟(じんち)の夢の跡
古いペ島(じま)の習慣で 我等勇士の霊魂(たま)守る



平和と自由の尊さを 身を鴻(こな)にしてこの島に
教えて散りし"桜花" 今では平和が甦る


どうぞ再びペリリューヘ 時なし桜花(さくら)の花びらは
椰子の木陰で待ち佗(わび)し あつい涙がこみあげる


戦友遺族の皆さまに 永遠(いついつ)までもかわりなく
必ず我等は待ち望む 桜とともに皆さまを

 

C・W・ニミッツ

米太平洋艦隊司令長官、ニミッツ海軍元帥は自著『太平洋海戦史』の中で、ペリリュー島の戦闘

に相当のページをさき、次のように結んでいる。

「ペリリューの複雑極まる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見

られなかった最高の戦闘損害比率(約四〇パーセント〉を甘受しなければならなかった。既に制

海権制空権を持っていた米軍が、死傷者あわせて一万人を超える犠牲者を出して、この島を占

領したことは、今もって疑問である」

ニミッツは、この玉砕戦に感銘して詩を作っている。

平成 6年 9月13日、パラオ共和国は日米両国を招いて記念式典を開催。ペリリュー神社の

境内にニミッツの詩碑が建立された。

碑文

諸国から訪れる旅人達よ この島を守るために日本軍人が

いかに勇敢な愛国心をもって戦い そして玉砕したかを伝えられよ

 

靖國神社

東京都千代田区

      

照集団パラオ会献木「パラオ本島、ペリリュー島、アンガウル島 戦没英霊に捧ぐ」

 

茨城縣護國神社

茨城県水戸市

ペリリュー守備部隊鎮魂碑

碑文

明治七年建軍以来、幾多の国難に出陣して、赫々たる武勲に輝く水戸歩兵第二連隊は、大東亜戦争酣の

昭和十九年三月、北満の守りから、中部太平洋の要衝ペリリュー島に転用され、連隊長中川州男大佐は、

一万有余名の陸海軍諸部隊を併せ指揮して同島に布陣し、敵の侵攻に備えて堅固な陣地を構築すると共

に、全島民をパラオ本島に避難させた。

九月十五日、四万有余名の米軍機動部隊来襲し、想像を絶する砲爆撃の掩護下海面を圧する敵上陸舟艇

群を迎撃して大打撃を与えた。爾後上陸せる敵増援部隊と七十余日に及び、洞窟陣地に拠る死闘を繰り返

しつつ、持久の任務を遂行したが、十一月二十四日、遂に戦力尽き、中川部隊長は、軍旗を奉焼し訣別電報

「サクラ、サクラ」を打電して自決、残る将兵は遊激戦に転じ悉く悠久の大義に殉じた。

守備部隊の武勲は畏くも天聴に達し御嘉賞十一回に及び、陸海軍最高指揮官の感状により全軍に布告さ

れ、世界戦史に比類無き精強部隊の名を残した。

ここに、その偉勲を景仰し、英霊の御加護による祖国の平和と繁栄を祈念して、五十年祭を期し、有志相図

り、この碑を建立する。

 

玉砕の島

更新日:2002/03/21