シベリア抑留

 

略史

昭和20年 2月  日 ヤルタ会談、米英ソの三首脳が戦後処理を協議

昭和20年 4月 5日 ソ、日本に対し日ソ中立条約の廃棄を通告(通告から一年後に条約失効)

昭和20年 4月  日 米ルーズベルト大統領死去、トルーマンが大統領就任

昭和20年 5月  日 独、無条件降伏

昭和20年 8月 6日 米、広島に原爆投下

昭和20年 8月 8日 ソ、対日宣戦布告(4月5日の通告から一年未満)

昭和20年 8月 9日 米、長崎に原爆投下

昭和20年 8月1日  日、ポツダム宣言を受諾

昭和20年 8月15日 終戦

昭和20年 8月16日 日、大本営、即時停戦命令

昭和20年 8月16日 ソ、日本領の南樺太へ侵攻

昭和20年 8月18日 日本(関東軍司令官)・ソ連(極東軍司令官)停戦交渉開始

昭和20年 8月18日 ソ、日本領の千島列島へ侵攻

昭和20年 8月23日 ソ、日本人のソ連移送・強制労働を決定

昭和20年 8月26日 日ソ間の戦闘がほぼ終結

昭和20年11月  日 日、政府が強制連行の情報を始めて得る

昭和21年 5月  日 日、政府がアメリカを通じソ連との交渉を開始

昭和21年12月  日 「日本人抑留者の帰国に関する米ソ協定」が成立

昭和21年12月 8日 日、ソ連からの引揚第一船(大久丸、恵山丸)舞鶴に入港

昭和23年12月 5日 日、ソ連からの引揚が一時中断

昭和25年 4月  日 日、国会で「在外抑留同胞引揚に関する決議」採択

昭和25年 4月  日 日、国連へ提訴、国連は捕虜特別委員会を設置

昭和28年11月19日 日ソ赤十字「日本人捕虜他、ソ連領土よりの送還関する共同コミュニケ」発表

昭和28年11月30日 日、ソ連からの引揚再開、帰国第一船「興安丸」が舞鶴入港

昭和30年 6月 1日 日ソ交渉開始、シベリア抑留者全員の即時帰国を要求

昭和30年 6月 1日 日ソ交渉開始、シベリア抑留者全員の即時帰国を要求

昭和31年10月19日 日ソ共同宣言・通商議定書調印、抑留者全員の釈放決定

昭和31年12月26日 シベリア抑留者の最終梯団を乗せた
「興安丸」が舞鶴入港

 

平成 3年  月  日 日ソ政府間協定 締結

平成22年  月  日 ロシア、日本が降伏文書に署名した9月2日を「対日戦勝記念日」に制定

 

ヤルタ会談

昭和20年 2月、ヤルタ会談において、ソ連はドイツ降伏の2〜3ヶ月に参戦、その代償として満州の

権益・ 千島列島の領土権確保が密約された。5月にナチスドイツは降伏したが、ソ連はヨーロッパに集結

した兵をソ満国境に移動させねばならなかった。

 

その間2月にトルーマンがアメリカ大統領に就任し、ポツダム宣言を公表して日本に降伏を要求するとと

もに、8月6日には広島に原爆を投下、ソ連が対日参戦に手間取るうちに日本が降伏すれば、日本・極東

の 戦後権益をアメリカに独占されてしまう危惧があり、スターリンは対日宣戦布告を急いだ。

 

シベリア抑留

昭和20年8月末から翌春にかけて、満州・朝鮮・樺太からシベリア各地の収容所1,200ヶ所に65

万人余 の日本人が移送された。抑留者は将兵のみならず民間人、満蒙開拓義勇団の若者、ソ連大使館の日

本語教師・談話交換手などの女性も含まれていた。

一般的に「シベリア抑留」と言われているが、実際には現在のモンゴル・中央アジア・北朝鮮・カフカス

地方のヨーロッパ-ロシア等にも送り込まれていた。

 

戦後最大の悲劇ともいわれるシベリアなどへの日本人抑留問題は、北方領土の不法占拠と同様、終戦直前

に中立条約を破り対日参戦したソ連が引き起こした人道に対する罪といっても過言ではない。

 

抑留者の人数

当初、抑留者の総数はおよそ57万5千名と考えられたが、現在では65万人というのが定説であり、一

説には70万人近くが移送されたとも言われ、ロシア国立軍事公文書館には約76万人分に相当する量の

資料が収蔵されている。

最高数として200万人以上との説がある。ソ連崩壊後に公開された資料では、終戦時、ソ連の占領した

満州・ 樺太・千島には軍民あわせ約272万6千人の日本人がおり、このうち約107万人が連各地に送

られ強制労働させたと見られている。

 

抑留者の死者数

極寒の異郷で飢えと重労働に耐えながら望郷の念を抱き、無念にも果てた人々の正確な人数は現在に至る

まで把握されていない。

 

従来、死者は約6万人とされてきたが、実数については諸説ある。

日本側の調査による死者名簿           約5万3千人

ソ連側(現ロシア政府)が作成した死者名簿    約4万1千人

 

アメリカの研究者によれば、確認済の死者 25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名、合計約

34万人の日本人が死亡したという。

また昭和20年から24年までの4年間だけで、ソ連での日本人捕虜の死亡者は、37万4,041人に

のぼるという調査結果もある。

抑留者本人はもとより、子供の世代も高齢化が進み、一刻も早い実態解明が待たれる。

 

補償問題

国際法上、捕虜として抑留中に働いた賃金は、帰国時に証明書を持ち帰ればその捕虜の所属国が支払う

ことになっている。

日本政府は米英の捕虜になった日本兵に対し、個人計算カード(労働証明書)に基き賃金を支払った。

しかしソ連は抑留者に労働証明書を発行しなかったため、日本政府はそれを理由に賃金を支払わなかっ

た。

平成4年以後、ロシア政府は労働証明書を発行する様になったが、日本政府は未だに賃金を支払ってい

ない。

 

シベリア抑留の現状

ロシアは平成3年に締結された日ソ政府間協定を継承し、抑留中に死亡した日本人の名簿を段階的に日

本 側に提供してきた。昨年には70万枚もの抑留者の経歴を記した「個人カード」の情報の引き渡しも

始まった。

だが宅地造成・墓地の移動・ロシア人との合葬などで、遺骨の発見・特定は困難を極め、戦後40年以

上が経 過した後の情報提供は遅きに失した。

 

また日ソ政府間協定には、「日本人死亡者の埋葬地が適切な状態に保たれるよう努めること」と明記さ

れてい るが、ロシア政府は抑留者墓地の整備費を殆ど予算に計上していないという。抑留者墓地を訪れ

た元抑留者 は「墓の荒廃がひどい」と証言している。

 

対日戦勝記念日

平成22年、ソ連の後継国家ロシアは、日本が降伏文書に署名した9月2日を事実上の「対日戦勝記念

日」に制定した。

極東各地では同日、戦勝65周年を祝う式典や軍事パレードが行われ、サハリン(樺太)の行事では対

日戦を「解放」戦争だったとする発言が政官界から相次いだ。

 

ミロノフ上院議長は第二次大戦の教訓と現代」と題する「国際学術会議」で、日本の北方領土返還要求

を「歴史の捏造だ」と断じ、「ソ連軍は中国東北部や北朝鮮、南サハリン、クリル諸島(千島列島と日

本の北方四島)を解放した」と主張、「勝利を祝うことは、戦争の結果見直しを許さないとの警告でも

ある」と述べた。

さらにミロノフ上院議長は「日露の第二次大戦と領土画定における見解の相違は、経済関係の障害には

なら ない」と語っており、領土交渉を棚上げにして日本との経済交流を進めるロシア側の姿勢を浮き彫

りにした。

 

またロシアが対日戦勝史観を軸に、中国などと日本包囲網を形成する動きもある。

ブヌコフ駐韓国大使は日本による中韓両国の被害を強調。「ロシアは連合国との参戦に関する責務(ヤ

ルタ協定)を果たし大戦の終結を早めた。対日参戦は連合国の結束の強さを示した」と語っている。

 

戦後65年が過ぎても、終戦直前の一方的な対日参戦・日本降伏後も一方的攻撃を続けたソ連の軍事行

を正当化し、「解放戦争」に高めるために抑留の実態の存在には触れず覆い隠す戦略を推し進め、プ

ロパガンダ(政 治宣伝)に躍起になっているロシアの姿勢は、抑留の全容解明にはほど遠いことを象徴

している。

 

※参考資料:「産経新聞」平成22年9月記事

 

高松ノ池

岩手県盛岡市

シベリア抑留平和祈念慰霊碑 平和の礎

碑文

第二次世界大戦の終結に際し ソビエト連邦はポツダム宣言に違反し 満州・樺太千島等から日本軍人

及び一部民間人をシベリアなどに強制連行して重労働を課した

岩手県人は 約八千人が連行され 千二百人を超える同胞が過酷な労働と飢餓 酷寒によって死亡した

この犠牲者のほとんどは 未だ異国の凍土の中に墓標のないまま眠っている 祖国の犠牲となった尊い

御霊を鎮め 世界の恒久平和を祈念して この碑を建立する

一九九四年十月十二日  財団法人全国強制抑留者協会 岩手県慰霊碑建立記念会

会長 菊地 正  会長代行  田辺壮久

 

シベリア抑留平和祈念慰霊碑 平和の礎

 

千鳥が淵戦没者墓苑

東京都千代田区

強制抑留者の尊い命を失われた方々の追悼慰霊碑

碑文

昭和20年8月、今次大戦が終結し、武装解除後にもかかわらず、旧ソ連は57万5千人もの軍人軍属及び

民間人をシベリアや中央アジアなどに長期にわたり強制抑留し、鉄道敷設や森林伐採などの過酷な強制労 働

に従事させた。栄養失調や極寒の劣悪な作業環境下で約5万5千人が犠牲になった。

この悲惨な事実を風化させずに、後世に伝えるとともに、犠牲となられた方々への深い哀悼の意を表し、恒

久の平和を祈念して、この碑を建立する。

平成22年8月竣工 独立行政法人 平和祈念事業特別基金 設置

 

高尾山

東京都八王子市

望郷 シベリアに眠る抑留者供養碑

碑文

昭和二十年八月十七日〜昭和二十二年五月二十二日  .

モンゴル地区収容所 陸軍上等兵 高橋嘉      

昭和二十年八月十五日〜昭和二十四年八月十五日   

タイセット地区第十七収容所 陸軍技術軍曹 佐藤甲子雄

平成二十二年十月二十八日建立

 

千葉縣護國神社

千葉県千葉市中央区

シベリア強制抑留死没者千葉県慰霊碑

碑文

悲惨を極めた第二次戦は日本がポツダム宣言を受諾して終結した しかし多くの将兵は酷寒の地 シベリ

アなどに抑留され 長期にわたり労役に就かれ戦友の多くは厳しい環境の中で病と戦いながら望郷の願

いも空しく凍土の下に永遠の眠りについている

亡き同胞の昔日を偲び世界の恒久平和を祈念してこの碑を建立する

 

中島地区

静岡県富士市

静岡県抑留犠牲者慰霊碑

碑文

昭和十六年、太平洋戦争突入とともに戦線は拡大、アジア・太平洋地域一帯が戦場となった。

戦争の長期化、連合軍の圧倒的物量、前線部隊の転進と玉砕、さらには本土空襲、艦砲射撃、 原爆

投下、ソ連の参戦そしてポツダム宣言の受諾。

この大戦で幾多の尊い命が犠牲となった。軍人は言うに及ばず、老人、女性、子供まで、県民の犠

牲者は八万とも・・・。

しかし、終戦は悲劇の終わりではなかった。多くの同胞がソ連の参戦によって連行され、シベリ ア

やモンゴルの地に抑留された。酷寒、飢餓、重労働、実に二千に迫る県民が望郷の念に身を 焦がし

つつ、異国の土となった。

寒いよ、早く迎えにきてくれよ・・・。耳を澄ませば呼ぶ声が今も聞こえる。

ここに、この碑を建立し歴史の事実と我らの思いを子や孫に伝え残す。

安住の地の定まらぬ英霊よ、富士を仰ぐこの地球儀へ集え

静岡県抑留犠牲者慰霊碑建立委員会

 

長野縣護國神社

長野県松本市

シベリア抑留慰霊碑

碑文

一九四五年八月の終戦は、ポツダム宣言の受諾によるが、同宣言九項を無視したソ連の蛮行により、

日本軍将兵ら六〇万余がシベリア各地へ強制連行され、飢餓、酷寒、過酷労働の三重苦に苛まれ、犠

牲者六万余に及ぶ悲劇的な大惨事となった。

人道に悖るかかる暴挙の風化を忍べず、忘却させてはならない残酷史として後世に伝え、犠牲者の冥

福と恒久平和を祈念し、本慰霊碑を建立する。

二〇〇五年八月九日  シベリア抑留慰霊碑建立委員会

 

上田招魂社

長野県上田市

句碑

碑文

凍傷者 カァヤン カァヤンと 呼びて逝く

郷土の俳人 上田市出身の板垣峰水氏は 終戦まぎわ捕虜となりシベリアで抑留作業に当たりました。

零下四十度を越える厳冬 戦友が凍傷になり「カァヤン」と母を呼び 祖国日本を恋ながら数多く昇天

されました。当時を偲んだ峰水氏の作品の中から表記の俳句を奉納致しました。

平成十年十月吉日  上田俳句会一同建立

 

春日公園

長野県伊那市

シベリア強制抑留者慰霊之碑 平和の礎

碑文

悲惨な太平洋戦争は 我が国の「ポツダム宣言」受諾により 昭和二十年八月十五日をもって終結したが

旧ソ連 のみはその宣言を実行せず 六十万人の在満日本人を酷寒のシベリアやモンゴルの各地へ強制連行し

て 長期間に及ぶ苛酷な重労働を課した

その結果 飢えと寒さの生き地獄の中 本県出身者二千余名が遂に祖国の土を踏むことなく無念の死を遂げ

特に本県は 戦前戦中 満蒙開拓青少年義勇軍や一般開拓団の送出に力を注ぎ その数全国一ともいわれて

お り 犠牲者の数も近県に比して群を抜いている

痛恨の極みである

辛苦に耐えて生還し得た私たちは 苦節二十有余年この事実を正しく後世に伝えるべく 抑留中に死亡した

人た ちの冥福と恒久の平和を祈念して この碑を建立する

一九九八年九月二十七日  財団法人全国抑留者協会 長野県支部 慰霊碑建立委員会

 

新潟縣護國神社

新潟県新潟市

全国強制抑留者協会新潟県支部 慰霊之碑

 

石川護國神社

石川県金沢市

シベリア抑留者慰霊之碑

 

三の丸

愛知県名古屋市中区

平和の礎

碑文

大東亜戦争はポツダム宣言の受諾により、一九四五年(昭和二十年)年八月十五日を以って終結

した。終戦直後に旧満州・樺太などから軍人軍属六十余万人及び民間の日本人多数が、厳寒の地

シベリアの各地に強制抑留され長期にわたり労働を強いられた。

飢餓と厳寒と重労働に耐えかね、祖国日本への帰還の願いも空しく、六万余人は力尽きて無念の

死をとげた。

愛知県人も千七百十七の犠牲者が異国の土に還ろうとしている。誠に遺憾の極みである。

苦節六十年を経た今日、この悲惨な事実を風化させることなく後世に伝えるとともに、抑留死没

者の冥福と世界平和を祈念し此処にこの碑を建立する。

二〇〇六年(平成十八年)五月吉日  愛知県シベリア抑留者記念碑建立之会

 

濃飛護國神社

岐阜県大垣市

大垣西濃地区ダモイ会 北の恒久平和之碑

碑文

一九四五年、中国満州の地において終戦、日本へ帰れると思ったら、ロシヤ軍によって強制連行され

日本兵約六十万人以上の人が極寒のシベリアの地において飢饉と、重労働に苦しみながら約六万人以上

が異国の土と化した。

明日の命がだれ一人として、保証されなかったなかで、このような悲惨なことが二度とあってはならな

いと平和の誓いを込めてこの碑を建立しました。

「国の賠償に代わる労務提供者」として、我々は抑留された。

 

滋賀縣護國神社

滋賀県彦根市

シベリア強制抑留者慰霊「平和の礎」

碑文

悲惨な第二次世界大戦は 日本のポツダム宣言受諾により 昭和二十年八月十五日を以って終結した

然るに旧ソ連は 協定を守る事なく六十余万人の日本将兵を酷寒のシベリア各地に連行抑留し 長期に

及ぶ過酷な重労働を強制した

飢えと寒さと生地獄の中 祖国日本への帰還の願い空しく 本県出身者四百余名は 遂に力尽きて無念

の死を遂げた

誠に痛恨の極みである

辛酸に耐え生還した私たちはこのことに深く想いを致すと共にその事実を後世に正しく伝え 且つ抑留

死没者の冥福と恒久の平和を祈念し 財団法人全国強制抑留者協会の助成並びに会員 遺族等の賛助を

得て ここにこの碑を建立する

平成十二年十一月吉日  滋賀県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会

 

天龍寺

京都府京都市右京区

ヤゴタ会 慰霊碑

碑文

第二次大戦後 ソ連に抑留中死没した諸霊 この奥に眠る

 

第二次大戦後ソ連に抑留され 不帰の客となったはらからの霊 とこしえに眠りませ

チタ州フカチヤーチヤ収容所から帰還した我らは 昭和44年10月10日ようやく同収容所で永眠

した千余柱の英霊を初め ソ連地区抑留死没者並びに帰還後死没者の合同葬儀をここ天龍寺にて行う

ことができた 我らはこれら同胞の遺品と過去帳をここに納めて世界の永遠

の平和を念じつつ この碑を建てる

 

須磨寺

兵庫県神戸市須磨区

シベリア満蒙戦没者慰霊碑

碑文

軍人たると民間人たるとを問わず 太平洋戦争末期から戦後にかけて 満蒙北鮮シベリヤの地に

いわれなき戦火といわれなき虜囚抑留の果てに 非業にたおれし われらの仲間を弔い奉る

遺骨収集はおろか自由なる墓参も許されず 更には墓標すらなき凍土に埋もれて 異国の丘に眠

る戦友諸兄諸姉のみたまよ 来たりてここに会し給え

 

岡山縣護國神社

岡山県岡山市

シベリア抑留者慰霊平和祈念碑

碑文

先の第二次世界大戦終了後、六千万人余りの日本人がシベリア各地に強制抑留され、長期に及ぶ苛酷

な 労働と厳しい寒さと飢え栄養失調により祖国の土を踏むことなく、無念の死を遂げられた。

望郷の念に駆られながら亡くなられた方々を偲び冥福と平和を祈念し、この碑を建立する。

岡山県内の死亡者は九百七十数名。

 

備後護國神社

 広島県福山市

シベリヤ抑留者慰霊碑

趣意書

一九四五年八月十五日大東亜戦争は出征兵士の五%の戦死者を数え終結した

ポツダム宣言第九条

日本国軍隊は完全に武装を解除せられたるのち各自の家庭に復帰し 平和的かつ生活的な生産を営む機会を

得しめられたるべし と定めたるもソ連政府は右条約に違反し 日本人を着の身着のままでシベリヤに連行

拉致 し 自国の復興五ヵ年計画に駆り立て 残酷非道にも一日わずか黒パン五百グラムの食糧で 厳寒の中

朝まだ 暗き内より夕闇せまるまで時間なき重労働を課し 為に栄養失調と防寒着なき厳寒の山野に労苦し

凍傷に罹り  万魁の恨みを呑みし死没者は戦争中の戦死者の倍率以上を数え 餓死者はシベリヤの凍土と化

し 又復員後も 後遺障害に苦しみ日成らず他界せし同志も数多くあり 未だ遺骨収集もならず墓参もできぬ

同胞の御魂をこの地 にお迎えし 永遠の眠り安かれと念じ 御鎮座碑建立す

全抑協 広島県連合会 福山支部 慰霊碑建立委員一同

 

愛媛縣護國神社

愛媛県松山市

シベリア抑留者慰霊之碑

碑文

悲惨な第二次世界大戦は 日本のポツダム宣言受諾により 昭和二十年八月十五日を以て終結した

然るに旧ソ連は その宣言を守ることなく 終戦後六十余万人の日本人を酷寒のシベリア モンゴル 

北朝鮮 サハリン及び千島等の各地に連行抑留し 長期に亘る過酷な労働を強制した

飢えと寒さと重労働の生き地獄の中 祖国日本への帰還の願いも空しく 本県出身者1千余名は 遂

に力尽きて無念の死を遂げた

誠に痛恨の極みである。

幾多の辛酸に耐えて帰国した抑留者 及び最愛の夫又は肉親を悲しくも失った遺族の私達は 苦節五

十余年を経た今日 この事に深く想いを致すとともに その事実を後世に正しく伝え 且つ抑留死没

者の冥福と恒久の平和を祈念し 財団法人全国強制抑留者協会の助成 及び県内外各界各層の温かい

賛助を得て ここにこの碑を建立する

平成九年十二月吉日  愛媛県シベリア抑留者慰霊碑建立委員会

 

高知縣護國神社

高知県高知市

シベリア満蒙方面抑留 戦没者慰霊碑

 

忠霊園

高知県高岡郡東津野村

シベリア虜囚の叫び

碑文

ソ連スターリンは全面的降伏をした我が日本軍を、戦争中の捕虜として流刑の地シベリアに強制

連行して酷使し飢えと寒さに耐えられず八万人の将兵が惨めたらしく死んでいきました。

これは国際法・人道上赦されぬ行為であります。

この像は疲労困憊した兵が虱の猛威にたまりかね、伐採山で裸になり痩せ衰えた我が身体を見て

落胆しながらも「俺は生きて帰り、この凍土の下に無念に眠る数多くの同胞の霊を浮かばせてや

らねばならない」と故国の空に叫ぶ姿を描いた銅像です。

世界のそれぞれの国がその人権を守り、永久の平和と戦友の冥福を祈るため、慰霊の像を建立す

るものです。

平成十一年十月二十日之建  高知県シベリア強制抑留者慰霊銅像建立委員会

 

八月十五日    抑留者引揚

更新日:2013/05/19