江戸料理百選タイトル   

『江戸時代の料理書』に見る私たちの食卓

 
 日本の食文化が花開いたといわれる江戸時代には、自然の素材を生かした新しい料理が次々に生まれ、多くの料理書が編まれました。これらの書をひもとき、江戸時代の食の世界を探ってみましょう。現代の私たちの食卓に相通ずるものがあるはずです。
                                     島崎とみ子

※『江戸料理百選』著者、島崎とみ子先生(女子栄養大学調理第一研究室助教授・料理書原典研究会同人)の連載です。
※料理書中の表記の仕方は、かならずしも原文のままではありません。漢字、かな、ふりがな、()内で解説するなど、読みやすいよう適宜手を加えてあります。

バックナンバー

第1回 香辛料  第2回 芳飯  
    (ほうはん)
第3回 大根   第4回 かまぼこ
第5回 ぞうすい 第6回 貝焼き  第7回 油脂   第8回 煎酒
    (いりざけ)
第9回 砂糖 第10回 青物 第11回 乾物 第12回 豆腐
第13回 海藻 ニュー         

 

第1回 香辛料

江戸時代の料理は香辛料の使い方がたいへんみごとで驚きます。その使い方に多少の意外さを感ずるものもありますが、実際に試作してみると、まことに巧妙で、日本の自然の恵みを改めて知らされる思いがします。

■ 薬効と独特の辛味が愛された「こしょう」
 こしょうは天平勝宝六年(754)に鑑真が持参したといわれ、正倉院御物にも残っています。輸入は室町時代からで江戸時代には長崎港へ運ばれてきています。料理書に頻繁に登場しますが、その独特の辛味と香りが愛でられたのはいうまでもなく、薬効もおおいに期待されたものと思われます。
 こしょうが主役の料理書に「胡椒飯(こしょうめし)」があります。『名飯部類(めいはんぶるい)』享和二年(1802)刊に出てくるもので、炊きたての白飯にこしょうを挽(ひ)き混ぜ、だし汁をかけた、いわゆる汁かけ飯です。だし汁の作り方は書いてありませんが、私は吸い物よりややうす味のものをかけます。こしょうの辛味と香りが後口をさっぱりさせ、ごちそうのあとやお酒のあとのしめくくりのごはんとしてぴったりです。どんな料理のもよく合いますので、あるとき私は、汁たっぷりのポトフに、こしょうを混ぜた白飯を用意し、ポトフのスープをかけてみると、びっくりするほどこくとうま味のある「胡椒飯」になりました。
 『素人包丁』二編文化二年(1805)刊にある「うど焚(たき)出し」は、香りの高いうどに、こしょうの辛味を加えた料理です。作り方は、うどを三センチくらいに切り、丸むきにしてゆで、酒としょうゆを入れて強火でいりつけ、器に盛り、挽きたてのこしょうの粉をふります。酒としょうゆだけの淡泊な味つけがうどの個性を引き出し、ピリッとしたこしょうの辛さが、うどの香りを盛り立てる逸品です。
 こしょうは吸い物の吸い口としても数多く使われています。『素人包丁』三編文政三年(1820)刊には、「志めぢ(しめじ) とさかのり」のすまし汁や、「わりふ記(き)(ふきを縦に割ったもの)押(おし)くわゐ(い)(くわいをゆでて押しつぶしたもの)」の薄葛(うすくず)仕立てなどに使われています。四季いつでも使える吸い口といえるでしょう。

■ 香気と色彩を添える「花ゆず、実ゆず」
 ゆずは、初夏には花ゆずを、花が落ちるとすぐにあずき粒大ほどの実を結ぶ花落ちを吸い口として楽しみます。そして、ピンポン玉くらいになった青ゆず、黄色く色づいたゆずは吸い口のほか、さまざまな料理に使われます。
 『新著料理 柚珍(ゆうちん)秘密箱』天明五年(1785)刊にはゆずの料理と効能について書かれており、ゆずの幅広い利用がうかがえます。
 ゆずを飯料理に利用したものをご紹介しましょう。『新著料理 柚珍秘密箱』には、白飯に酒、しょうゆ、ゆずの汁を合わせ、ゆずの皮と黒のいりごまをふり混ぜた「柚飯(ゆうめし)」や、白みそ仕立ての「柚ぞうすい」が見られます。『名飯部類』には、ゆずの黄色い皮だけを細かに刻んで飯に混ぜ、だし汁をかける「柚(ゆ)めし」が出てきます。炊きたての飯にゆずを混ぜると、一瞬にしてその芳香が漂い、これにだし汁をかけた「柚めし」は、ごちそうのしめくくりによく、ゆずの香りが快い余韻を残してくれます。

■ さんしょうとくだものの意外な出合い
 さんしょうも、木の芽から青い実ざんしょう、完熟果を干した赤い干しざんしょうまで、幅広く使われる香辛料です。
 『料理伊呂波(いろは)包丁』三巻安永二年(1773)刊には、「焼(やき)大根 ごま さんせう(さんしょう)」のあえ物が出ています。作り方は書かれていませんので、試行錯誤しながらの試作でしたが、大根を薄く切ってじか火にかけた網で両面を軽く焦げ目がつく程度に焼き、しょうゆをからめて、すりごまと粉ざんしょうをふりました。意外なとり合わせなのですが、さんしょうのさわやかさとごまの風味とが大根の持ち味とよく合います。
 同書のあえ物に「りんご ごま さんせう」もあります。これも作り方は書いてはありませんが、りんごをごく細いせん切りにして塩水にさっと通し、半ずりにしたいりごまを混ぜ合わせ、小鉢に盛って粉ざんしょうを少々多めにふりかけてみました。りんごのほんのりした甘さがさんしょうの辛味とよくマッチします。この料理は意外なことに、りんごの出始めのころの、味がまだのっていないものがけっこうおいしくいただけるのです。また、少々鮮度が落ちたりんごでさえも生き返ります。
 これらをヒントに、梨で試してみましたら好評でした。梨の場合はごまを使わず、さんしょうの粉だけを使うほうがさっぱりしていいものです。

■ 大根の臭みを消す魅惑の香辛料シナモン
 シナモンは享保年間(1716〜1736)に渡来したといわれています。漢方薬の一つとして入ってきたものと思われますが、珍しい香りをユニークな思いつきや知恵で料理にも利用しています。
 『大根一式料理秘密箱』天明五年(1785)刊には、大根とシナモンを組み合わせた
「利休あへ(え)大根(本書収録)」というのがあります。大根は六角にむいてから薄切りにし、ゆでておきます。黒ごまをすったものに白みそ、みりんを入れてのばし、そこに「粉肉桂(にっけいのこ)=シナモン」を加え、先の大根をあえるというものです。シナモンは香りづけのためではなく、あえてしばらくすると、大根は「悪しきにほひ(におい)出(いず)るゆへ(え) これを入るれば くさみ出申さず」と、大根の臭みを消すのに利用されることが記されています。
 シナモンとごまの香りが魅惑的な香気となり、白みそ、みりんの甘味ともあいまっています。白い大根に黒いごまみそですので、ちょっと見にはグロテスクな色合いですが、試食者にはたいへん好評でした。ちなみに、黒ごまは着色されたものがありますので、質のよい黒の練りごまを使うほうが無難です。

■ 日本の自然が香る多彩な「かやく」
 香辛料という言葉が、いつごろから使われ始めたのかはわかりませんが、じつは江戸時代の料理書にはこの言葉は見当たらないようです。私たちのいう香辛料に薬味的なものを含めて「かやく」という言葉がよく使われていますが、表記はさまざまで、「加料」、「加益」、「加役」などの文字が見られます。
 「かやく」はおかゆや雑炊にも数多く使われています。たとえば『素人包丁』二篇の「玉子かゆ」の場合、「せうが(しょうが) わさび 浅草のり ねき(ねぎ)小口(小口切り)があげられ、この中から適当に選んでかゆにのせて供します。白がゆに薄焼き卵のせん切りをのせた「金糸粥(きんしがゆ)」のときは、「こせう(こしょう) ねき小口 きのめ(木の芽) 小しそ(芽じそ)」を、「玉子雑吸(ぞうすい)」では、「さんせう 浅草のり わさび ねき小口 大根おろし」を添える、とあります。
 『豆腐百珍』天明二年(1782)刊の「真(しん)のうどん豆腐(本書収録)」は、淡泊な素材を「加料(かやく)」の変化で楽しむ料理です。豆腐を太うどんのように切って、湯を「湯玉のたつほど沸(たぎら)しを(お)き 切(きり)たる豆腐」を入れ、その煮加減は「烹(に)るにおよばす(ず)して烹(に)調(かげん)最(もっとも)妙なり」とあり、これを温めた器によそい、「大根 辨茄(とうがらし)の末(こ)(粉) 葱白(しろね)(ねぎ)微塵(みじん)刻ミ(きざみ) 陳皮(ちんぴ)の細末(さいまつ)(粉) 浅草紫菜(のり)」を「加料」に用います。
 香辛料を利用したこれらの江戸時代の料理を試作試食してみて、その役割について改めて認識したことがあります。香りや酸味のあるものを使うと、料理をうす味にすることができるということです。「柚めし」や「しそ飯(本書収録)」などは、わずかの塩分でももの足りなさを感じません。立ち昇る芳香のなせるわざでしょう。同じくピリピリした辛味のある料理も、塩分が少なくてももの足りなさを感じさせません。
 日本は四季折々に季節の香りや辛味のあるものがたいへん豊かに得られます。私たちも先人の知恵や心のゆとり、楽しみを学びとりたいものです。

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●  第2回 芳飯(ほうはん) ―汁かけ飯

■ 春日局(かすがのつぼね)が好んだごはんとは?
 「春日局がたいへん好物だったという、具がいろいろのったごはんがあったようなのですが・・・」。こんな問い合わせがあったのは、何年か前、テレビドラマの春日局が話題になっていたころのことです。春日局ゆかりの地の教育委員会からのものでしたが、そのことを訪ねてくるかたがけっこうあったといいますから、なにかの史料に出ていたのでしょう。
 そこでまず、春日局(1579〜1643)の生きた時代に書かれた、しかも料理書として有名な『料理物語』寛永二十年(1643)刊をひもといてみることにしました。しかし、この本にはごはんの項目は見当たりません。ただ「汁之部」に「芳飯の汁」というのがあり、「芳飯の汁 にぬきよし」と書かれていました。にぬきとは、みそと水、カツオ節を煮立ててこしたものでしが、袋に入れてしたたり落ちるのを使うとあります。汁の次には、具の説明があります。かまぼこ、栗、おろししょうが、卵の薄焼き、菜をあえたもの、揚げたこんぶ、みょうが、花ガツオ、のりを用いるようです。
 この汁と具には当然ごはんがついていたと思われますが、その説明はなく、どのように盛って供されたのか、この本からはわかりません。それでも年代から推測して、春日局が召し上がったのはこの芳飯に違いないと思いました。その後、いろいろ調べていくうちに、芳飯は室町時代からあった古い料理であることがわかりました。
 古い料理に触れたくて、仙台、盛岡へと旅したことがあります。そのとき岩手県立図書館で、かねてから見たいと思っていた『りうり(りょうり)の書』―天正元年(1573)手書きの本―に触れることができました。その中に「不(ほ)うはん(芳飯)の志(し)たて(仕立て)ハ・・・」とあったのです。たいへん読みにくく、また意味のわからない点もありましたが、「飯を椀(わん)の八分(ぶ)目に盛り、その上にいろいろの具を刻んできれいに飾って盛り、別皿にも具を盛って出し、汁も出す。汁はたれみそ」というおおよその内容が読みとれました。たれみそとは、みそと水を煮てこしたものです。
 芳飯は『日葡(につぽ)辞書』慶長八年(1603)刊―キリスト教布教にやってきたポルトガルの宣教師が作った、日本語をポルトガル語で解説した辞書―にも出てきます。その中にFδfanという項目があるのです。辞書に出ているくらいですから、芳飯は慶長年間(1596〜1615)には、世に知られた飯料理だったということでしょう。とすると、春日局はもちろん、豊臣秀吉(1536〜1598)も食べたと思われます。

■ 種々に変化していくその語の芳飯
 芳飯のごはんは白飯が普通のようですが、江戸時代中期以降の料理書を見ると、、炊き込み飯の上にさらに具を飾る場合も出てきます。
 『料理網目(もうもく)調味抄』享保十五年(1730)刊に出ている芳飯の飯には「鶏飯(けいはん)」が使われています。雄の若鶏をまるゆでにして、そのゆで湯で飯を炊き、鳥肉は細かく裂いて飯にのせます。具は鶏のほか、うこぎの干葉(ひば)とねぎを酒としょうゆで煮てのせ、薬味に粒こしょう、辛味大根(薬味用の辛い大根)を用いています。これは鶏だけではなく、鴨(かも)や雉(きじ)でも作るとあります。
 さらに芳飯に使われる炊き込み飯として、えび飯(めし)、メバル飯(めし)、初茸飯(はつたけめし)、松茸飯(まつたけめし)などの例もあげています。飯にのせる具は、「葱(ねぎ) 牛蒡(ごぼう) しめじ 椎茸(しいたけ) 芹(せり) 焼麩(やきふ)」などをせんに切って味つけしたもので、飯をおおうようにしてのせるとあります。これは、飯を具で包み込むようにするところから「芳飯(ほうはん)」とも書かれています。
 これらの芳飯のかけ汁はみそ味ではなく、しょうゆ味のすまし汁に変化しています。そして夏には「いもだし」の冷やし汁を使っています。いもだしというのは、山芋を薄く切って一晩水につけて粘りのある汁を作り、煮立てずにそのまま使うものです。山芋のとろみをうまく利用した例で、精進用のだしとしても使われたようです。

■ 鶏飯の調理法に見る異文化との融合
 芳飯に使われてもいる鶏飯の作り方をいろいろな料理書で調べてみると、おもしろい事実に出会います。
 『合類(ごうるい)日用料理抄』元禄二年(1689)刊の「鶏飯(にわとりめし)」は、鶏をまるゆでにして「鳥の油 水に浮(うき)候時(そうろうとき)」、そのゆで湯で飯を仕込むとあり、そうすると、鶏の脂で飯は黄色に炊き上がると記しています。
 『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』元禄九年(1696)刊では、くちなしの濃いせんじ汁で炊いた黄色の「鶏飯(にわとりめし)」を紹介しています。ここでは鶏のゆで湯は、かけ汁に利用しています。調味には、みその清(すまし)汁(みそを水でといて布でこしたもの)、しょうゆ、酒を用い、ねぎ、大根、丁字の粉を加えます。同書は養生書なので、鶏飯の薬効にも触れていますが、元来日本では、鶏は時告げ鳥といって食べる習慣はなかったといわれていますので、鶏飯は“養生食い”として中国から入ってきた外来食の一つだったのではないかと思います。
 また『名飯部類(めいはんぶるい)』享保二年(1802)刊にも「鶏飯(けいはん)」は外来食かとうかがえるような一文があります。つまり、鶏の血(ち)汁をとって、これを飯に加えて炊く方法が記されているのですが、このようにすれば、「腥気(せいき)ありて(生臭くて)殊に不潔(ふじょう)にして食し難(がた)し」ともあります。いろいろな史料を見ても、日本には動物の血を食する習慣はなかったと見ていいと思います。
 一方『料理伊呂波(いろは)包丁』安永二年(1773)刊の「鶏飯(にわとりめし)」は、カツオ節のだしで飯を炊きますし、『素人包丁』二編文化二年(1805)刊では、かけ汁は鶏のゆで汁ではなく、カツオ節だしのしょうゆ味で、ぐっと日本料理らしくなっています。
 こうして見てきますと、外来の食が少しずつ同化し、日本の食としてなじんでいくような気がします。

■ ごもく飯も汁かけ飯だった
 私たちになじみが深い「ごもく飯」という名が見られるようになったのはいつごろからでしょうか。
 『万宝(まんぽう)料理献立集』天明五年(1785)刊に「芥飯(ごもくめし)」、『料理早指南』二編享和元年(1801)刊に「ごもく飯」の名が出てきますが、どちらも芳飯とそっくりです。
 ところが『名飯部類』の「骨董飯(ごもくめし)」になると、「達矢(だし)汁 加料(かやく)(薬味)」で食すには違いないのですが、芳飯のように具を飯にのせるのではなく、白飯が炊き上がろうとするころ具を入れて蒸らしています。つまり、具は釜の中で混ぜることになるのでしょう。
 『素人包丁』二篇にも十二種類の「ごもく飯」が紹介されています。これらも、飯が炊き上がるころ具を加えて蒸らし、汁かけ飯にしたものです。それぞれ試作してみましたが、米と自然の素材との絶妙な組み合わせに驚きました。たとえば、「たいらぎ(平貝(たいらがい)) 岩茸(いわたけ) せり」の具は少々地味ではないかと心配しましたが、なかなかシックな飯に仕上がりましたし、「いか 焼(やき)ぐり 車えび 椎茸 みつば」の場合は、白、茶、赤、黒、緑ととても華やいだ雰囲気になりました。ほかのごもく飯も、色彩がすばらしいだけではなく、食べてもおいしいものばかりでした。
 江戸時代の人々が日常口にする飯は質素なものだったと思われますが、さまざまな具を使ったぜいたくな汁かけ飯があったということは、江戸時代の豊かさの反映と見ていいでしょう。
 それにしても、江戸時代にはなぜこのように汁かけ飯が多いのでしょうか。『名飯部類』の飯料理八十七種のうち四十四種が汁かけ飯、『素人包丁』も飯料理三十六種のすべてが汁かけ飯です。
 日本料理は江戸時代にほぼ完成の域に達しており、大都市ではたくさんの料理茶屋が繁栄していました。このような所で出されるごちそうのしめくくりの飯としては、さっぱりとした汁かけ飯が口に合ったということでしょうか。

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第3回 大根

■ 貴賤(きせん)老若を問わず好まれてきた食べ物
 空が澄んで、西からの冷たいが図が吹き始めると冬もいよいよ本格的、大根のおいしい季節です。
 大根は昔から人々の食生活には欠かせないものだったようで、『大根一式料理秘密箱』天明五年(1785)刊の序には次のような文があります。「物の名も所によりてかは(わ)れども(大根の名も所によって変わるけれども)大根の生(はえ)ぬさともあらじ(大根の生えない里もあるまい)。はにふ(にゅう)のすまゐ(い)にも香物(こうのもの)つけぬ事もあるまじ(いくら貧しい暮らしでも漬物を漬けないことはあるまい)。<中略>貴賤老若 雅人(がじん)鈍(どん)ぶつにすゝむともよもふさいだ口あかぬもあるまじ(貴賤老若を問わず、風雅な人また愚鈍な人にすすめても喜んで食べるであろう)」
 これほどまでに昔から私たちの食生活に深く入りこんでいる食べ物も少ないのではないでしょうか。
 江戸時代の大根料理専門書としては、先の『大根一式料理秘密箱』と 『諸国名産 大根料理秘伝抄(ひでんしょう)』天明五年(1785)刊があります。料理の種類はそれぞれ五十種と四十二種ですから合わせておよそ百種類ということになります。煮たり焼いたりと調理法もさまざまですし、大きく切ったり、飾り切りにしたり、おろしたりとその形状もいろいろです。また生の大根の調理法だけではなく、干したり漬けたりの保存法を考えてもいます。

■ ダイエット食にも客料理にもなる大根飯
 大根飯はかつてのテレビドラマ『おしん』で有名になりました。その当時私どもの大学には大根飯の作り方の問い合わせが相次いだものです。『おしん』の大根飯の大根は米の増量材でしたが、江戸時代の料理書にも同様に使われていたことが記されています。
 『都鄙安逸伝(とひあんいつでん)』天保四年(1833)刊の大根飯は、大根をなますのときのように細く切って米に加えて炊き、しょうゆ味の汁をかけて食しますが、「米値(こめのね)高き時は米すくなくいるや(よ)うする事なれば大根を多く入(いれ) 塩も喰(くい)かげんに入(塩でちょうどよく味つけして)かけ汁なしに食すべし」とあります。
 同書には「越前国(えちぜんのくに)大根飯」という、今の福井県地方の大根飯もあります。米にごく細かいさいの目の大根を入れて炊き込んだもので、試作してみると、ちょっと見には単なる白飯かと錯覚するほどに炊き上がりました。しかし、大根の量は米1カップに百グラムが限界かと思います。調味はしょうゆのほうが味の点からはいいかと思いきや、大根くささをきわだたせる結果となりました。塩味のほうが色の点からも障りがありません。
 『料理伊呂波包丁』安永二年(1773)刊には、お客さまに出す大根飯があります。さいの目に切った大根をくちなしの汁で煮しめ、白飯に混ぜ合わせたものです。採ってすぐの実の汁で染めたものは鮮やかな黄色に染まり、食卓を華やいだ雰囲気にしてくれます。
 大根は水分が約九十五%ですから、大根飯は普通のごはんに比べるとずっとローエネルギーです。今日では、効果的なダイエット食としても利用できそうです。
 干し大根の炊き込み飯もあります。「濃州(のうしゅう)名物干(ほし)大根飯」は『諸国名産 大根料理秘伝抄』によれば「みの厚見(あつみ)郡(今の岐阜市南部一帯)のめいぶつにて このところより干大(ほしだい)こん多くいづるなり」とあり、「ひなた薫(くさ)きが一だんの賞翫也(しょうがんなり)(珍重される)」と、干し大根の香りを愛でています。作り方は、まるのまま干しておいた大根を小口から切り、煮え湯に入れてもどし、絞って、吹き上がった飯に入れて炊き上げ、茶わんによそい、みそ味のかけ汁をかけ、おぼろこんぶを上置(いわお)きにするというものです。
 原文を読んだときは、なんとなくやぼったくて作ってみると気がしませんでしたが、ある日、宮崎県産の“日向(ひゅうが)の割干し”という、細大根を縦に割って干したものが手に入ったので試作してみたところ、ひなびた甘い香りが漂い、うすいみそ味のかけ汁とおぼろこんぶが、その味をいっそう引き立て、干し大根の適度の歯ざわりも心地よいものでした。
 おぼろこんぶは、こんぶの表面の少し黒ずんだところを削ったもので、原文には「昆布の上(うわ)けづ(ず)りそぼろ」とあります。

■ おろし大根を使った冬向きの温かい料理
 体のしんから冷えてしまったとき、フウフウいって食べる汁物はこころもほのぼのしてきます。『素人包丁』三編文政三年(1820)刊の「こんにゃくみぞれ汁」はそんな汁物の一つです。こんにゃくを細かく切って油でいりつけ、湯をかけて油抜きします。こぶだしに塩で味つけし、おろし大根と先のこんにゃくを加え、吸い口は、こしょう、しょうが、輪とうがらし、わさび、さんしょうなどの中から用います。刻んだきくらげを加えるのもよいとあります。フッと煮立ってきたところを食します。
 『諸国名産 大根料理秘伝抄』の「大根塩ざ(ぞ)うすい」も、おろし大根を使ったあつあつの料理です。大根は皮をむき、おろし器のあらいほうでおろして水から入れて煮、ひと煮立ちしたら焼き塩を加えます。ここに、水で洗った飯を加え、二,三度煮たったところで火を止めます。これは「さらりとしたるざうすい也 酒の二日酔いに一だんの物也」とあります。いかにも二日酔いにききそうな気がしますが、まだ確かめてはいません。二日酔いの経験がないわけではありませんが、そんなときには雑炊を作るどころではありません。こんな雑炊がスッと出てきたらいいなァと思うだけです。

■ なべ物に添えたいおろしあえ、酢あえ
 なべ物の合間にあえ物が出てくると一息つけます。江戸時代には、こんな大根のあえ物がありました。
 『大根一式料理秘密箱』の『三種合(さんしゅあわせ)大根』は、普通にはちょっと思いつかない素材のとり合わせのおろしあえです。生の大根は花に抜いて梅酢につけて染め、一方たくあんを細く切って水で洗って絞ります。おろし大根を作り、針に切ったしょうがを加え混ぜ、先の材料をあえ、酒を少しかけ、花カツオをかけて出します。主材料もあえ衣もすべて大根なのですが、それぞれ味も形も違うものなので意外な取り合わせとなって美しくもあり、花カツオのうま味も加わってなかなかのアイディア料理だと感心しました。
 また、酢の香りが大根の味を引き立てるあえ物もあります。
 『素人包丁』二編文化二年(1805)刊の「海苔酢和(のりずあえ)」は、さいの目に切った大根をさっと熱湯を通して熱いうちに酢をかけ、あぶって細かにもんだ浅草のりをかけるというものです。調味料は酢だけですが、、それだけに酢の香りが命です。うま味のある醸造酢は、のりの香りとあいまって大根の甘味を引き立ててくれます。
 同時に「青海苔掛(あおのりかけ)」というあえ物も紹介されています。大根は同じくさいの目に切りますが、こちらは塩湯で煮て酢をかけ青のりをふります。手持ちの酢があまり上等でなければ、材料に少し塩けがあるほうがおいしく感じます。

■ 切り方でも味わいに変化の出る大根料理
 大根の切り方でたいへん賢いと思うものに、『諸国名産 大根料理秘伝抄』の「林巻大風呂吹大根(りんまきおおふろふき)」があります。林巻というのは輪巻、つまり年輪の意味であて字と思われます。ふろふき大根は普通、大根を大きく切ってゆでますからすぐには煮えてくれません。ところが、グルグルとかつらむきにし、また元のように巻き戻して(これが年輪のように見える)蒸すと、すぐに火が通ります。みそやくずあんをかけるか、敷きみそにしていただきます。みそには、ごまやしょうが、わさびなどでいろいろに味の変化をつけることができます。
 大根は一年じゅう出まわっていますが、いちばんおいしいのは冬です。江戸時代の料理を参考に、いろいろな大根料理に挑戦してみてはいかがでしょうか。

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●  第4回 かまぼこ

■ 考古学の研究会で見た「木べら」の用途は?
 あるとき、近世考古学の研究会をちょっとのぞかせていただきました。考古学では古い時代の研究をする人は多いのですが、江戸時代以後の研究はまだまだ少なく、研究者も若いかたが多いようです。私が研究会をのぞいたとき、東京・本郷の東京大学構内で掘り起こした品々をスライドで紹介していたのですが、お箸などといっしょに写っている木製品を、説明者は「使用用途不明品」といい、「なにか、ものを練るときの木べらでしょうか」とつけ加えました。思わず「小板(こいた)かまぼこの板じゃないかしら」とひとり言をいってしまいました。それを近くにいたかたが聞きつけて、実際にその板を東大で見て確かめてくださいということになりました。
 本郷の東大敷地は江戸時代には加賀藩の上屋敷だった所で、年代もおよそ推測される形で生活用品が発掘されています。
 問題の「木べら」は、私が以前に見た『羹(あつもの)学要(がくよう)道記(どうき)』の小板かまぼこの板のさし絵とまったく同じでした。そのさし絵でしか見たことがなおのですが、寸法が書いてあったのを思い起こしながら実物を前に確信を深めていました。
 『羹学要道記』は元禄十五年(1702)に書かれた料理の書で、筆者は學音院閑月(がくおんいんかんげつ)といわれています。長く大名の料理人をし、晩年に出家してから子息への形見にと料理の要点を書き残したもののようです。彩色の絵入りで、愛知県の岩瀬文庫でこれに接したとき、その彩りの鮮やかさは、昨日色塗りしたかと思われるほどでした。
 この書にある小板かまぼこの板の図は156頁のような形で、長さは二十一〜二十四センチ、幅は二〜二センチ半、板の厚みは書いてありませんが、目の前にある木片の厚み二〜二@半くらいでしょうか。細かい柾目(まさめ)の通った杉の片木(へぎ)でした。
 小板かまぼことは、この片木にかまぼこ種を練りつけ、あぶり焼きにしたものです。片木をいろりなどの灰に突き刺して焼いたのでしょう。同書の盛りつけの図には、片木の先は切り落とさ(米を)れ、持ちやすくした形で盛られています。酒の肴というところでしょうか。

■ 手間暇かけた保存もきくごちそう
 ところでかまぼこは、いつごろから作られるようになったのでしょうか。江戸時代初期の料理書『江戸料理集』延宝二年(1674)刊にはすでに「萬(よろず)かまぼこの事」と項目を立てて作り方が記してあります。説明がたいへんていねいなので、要約してご紹介します。
 「魚を三枚におろし、腹骨をそぐ。包丁の刃を立てて尾のほうから少しずつかき取っていく。こうしてかき取ると筋(すじ)がなくてよい。すり鉢はよく使い古されたもの、すりこぎも古いものを使う。新しいものは砂があったり、色も変わるなどしてよくない。このかき取った身をよくよくする。いったん取り出す。一方、ここにイカを加えるが、まずイカは薄皮まで取り除き、まわりのかたいところを切って、身を薄くそぎ、包丁のみね、次に刃で糊(のり)のようになるまでたたいて、すり鉢でする。イカの混ぜ加減は好みでいろいろにする。歯切れのよいのが好みならば、魚とイカを等分にする。やわらかくしたい場合はイカを少なめにする。また卵の白身を加えるのもよい」
 かまぼこ種のすり加減は「ヽヽヽヽヽにっとりとひかり 色の出る迄(まで)があひづ(合図)なり(よい光沢が出たところで終わりにする)」とあります。また、塩を少なめに入れて少し焼いてみて「塩かげんをきはむ(極む)べし」、「塩過ぎては なを(お)らむ物なり」と注意を促しています。さらに、食べてみて少し甘いくらいがよいが、甘いのがいやな場合は供するときに塩を添えるとよい。塩からいのは「さんざんあしゝ(どうにもならない)」とあります。
 すり身は「とりゆ(米をゆでた汁)でのばすとあり、のばし加減は少しかたいくらいのほうがよい。板につけて動かしたときに、右へも左へも動かぬほどのかたさにするのがよい、とあります。
 板につけたこのすり身は、炭火の遠火でゆっくり焼きますが、現在のかまぼこ板くらいのものにつけたものを「大板(おおいた)かまぼこ」、先の説明のような片木につけたものを「小板かまぼこ」と記してあります。
 これだけ説明してあれば、だれにでも簡単に作れそうな気がしますが、かまぼこ種を作るのは相当な労力が入ります。手間暇をかけたごちそうだったことでしょう。またある程度作りおきもできますから、冷蔵庫のなかったこの時代には上等の保存食にもなったと思います。
 かまぼこは、室町時代(1392〜1573)の武家の行事食にもすでに使われていたようですが、江戸時代には幕府の饗応色に盛んに用いられています。綱吉の将軍襲職(しゅうしょく)<職務を受け継ぐこと>の祝賀に来日した朝鮮通信使(親善視察団)のもてなしの本膳料理には、ごはんのおかずとして大板かまぼこが出され、酒のさかなの「盛りこぼし<大きな器に、あふれるほどの食品を盛りつけたもの>の一品には小板かまぼこが使われています。ただ朝鮮通信使でも、いちばん身分の低い下官(げかん)にはいちどもかまぼこを出してはいません。厳然たる身分の差をつけていたことがわかります。

■ バラエティーに富む江戸時代のかまぼこ
 『万宝(まんぽう)料理秘密箱』天明五年(1785)刊には、かまぼこに使われた、いろいろな魚の例がありますが、「鱧(はも) あま鯛(だい) かれい 鯛この類に過ぎたるはなし」と、この四種を最高級品にあげています。東大の構内遺跡にはタイの骨がいちばん多いといいますから、かまぼこにも使われたのでしょうか。
 同書にはさらに、かまぼこ種に黒ごまをふりかけたもの、けしの実をつけたもの、白板(しろいた)こんぶをはりつけたもの、あるいは、くるみをすり混ぜたものなどを紹介しています。いずれも焦げないように焼いて、そのあと蒸すとよいとしています。蒸すのは、手間のかかる焼く方法の簡略化と思われます。
 同書に出てくる色つきかまぼこの着色の仕方にはなかなかおもしろいものがあります。「紅(べに)かまぼこ」は、魚のすり身に生臙脂(しょうえんじ)<紅色の染料>をすり合わせ、雁(がん)か鴨(かも)の肉を混ぜています。「五色かまぼこ」は、青、黄、赤、白、黒の五色ですが、青は青どり<青菜をたたいて湯をかけたもの>を、黒はなべについた墨(すみ)が使ってあります。黄の着色の仕方は書いてありませんが、同書の「やまぶきかまぼこ」と同じく、ゆでた卵の黄身を混ぜたのでしょう。

■ 蒲(がま)の穂や鉾の形がかまぼこの名の由来
 『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』元禄九年(1696)刊に「韓客謂魚餅、つまり「外国の客人はかまぼこを魚餅(ぎょびん)という」といっていますが、わが国最初の図説百科事典ともいえる『和漢三歳図會(わかんさんさいずえ)』正徳三年(1713)刊でも、「蒲鉾 魚餅」を同一項目としてとり扱っています。
 『和漢三歳図會』ではまた、かまぼこを「如
蒲草穂 又似鉾故名<蒲草(がま)の穂に似ている、または鉾に似ているための名>と説明がしてあります。かまぼこは初めはすり身を竹につけて焼いていたようで、その形が蒲あるいは鉾に似ていたことからの由来かと思われます。
 現在はすり身が簡単に手に入りますから、手作りでいろいろのかまぼこが手軽に作れます。小板かまぼこも、板さえ用意できればオーブンで焼いて作れます。しゃれたおつまみになると思います。

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●  第5回 ぞうすい

 私たち日本人は米を主食にしてきたといわれますが、江戸時代の資料などを見ていますと、一部の上流階級の人たちはともかく、一般庶民は米を充分に食べてはいなかったことがうかがえます。たとえばぞうすいは、かて飯(米が少量ですむように具を多く混ぜた飯)的な意味合いが強く、飯の増量を期待したものだったようです。

■ ぞうすいとかゆの違いを探ってみると・・・
 ぞうすいと似たものにかゆがありますが、あるとき台湾の留学生から、ぞうすいとかゆはどこが違うかと質問されたことがありました。この区別はなかなかむずかしいのですが、江戸時代の料理書や資料などから、その違いを探ってみることにしました。
 まず、ぞうすいについて調べてみると、「雑水、増水、雑吸、雑炊」などの字が使われており、それぞれの字の持つ意味がなにやらひそんでいそうな気がしました。
 『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』元禄九年(1696)刊によれば、「雑水」とは「粥之水多キ者也」とあります。「雑水」は「増水」のあて字との説もあり、どちらも水の多いかゆの意味で使われていたのではないでしょうか。
 次に、米料理の専門書として名高い『名飯部類(めいはんぶるい)』享和2年(1802)刊から、いろいろなぞうすいとかゆの分量を拾い出し、米と水の割合を比較してみました。ぞうすいでは、米と水の割合は一対二・二五、一対二・五、一対三・五、などの例があり、かゆでは、一対二・〇、一対二・五、一対八などの例がありました。この数値を見る限りでは、ぞうすいは、かならずしもかゆより水の量が多いものではないようです。
 『料理早指南』二編享和元年(1801)刊には、飯を水でよく洗って粘りをとった「水雑吸」というのが出てきます。「雑吸」という表記は、江戸時代の最初のころには濃度のうすいぞうすいに使われていたふしがありますが、のちには、はっきりした区別はつけられなくなっています。
 加える材料を調べてみますと、ぞうすいはさまざまな材料が使われるのに対し、かゆは一つか二つだけというのが多いようです。材料を多種類使うことが「雑炊」と書かれるゆえんかもしれません。
 さらに、米から炊くか、飯を用いて仕立てるかを見てみますと、かゆはほとんどの場合、米から炊いていますが、ぞうすいは飯から仕立てるものと米から炊くものとがほぼ同数です。かゆの場合、飯から仕立てるのは「味噌がゆ」の一例だけです。
 調味料にも違いがあります。
 ぞうすいは、まったく塩気(け)がないという例は一例もありません。それも、圧倒的にみそで味つけをする例が多く、塩を使った例としては「塩ざ(ぞ)うすい」、「青苔(あおのり)雑炊」、「菜(だい)こんざうすい)などがあるくらいです。
 これに対し、かゆは塩で味つけをするか、まったく味をつけないかが多いといえます。みそで味をつけるかゆは「味噌がゆ」のほかには見当たりません。

■ 味つけなしのかゆにはくずあんや汁をかけて
 ぞうすいとかゆは、仕上げ方にも違いが現れています。たとえば、あんをかける手法はぞうすいにはまったく見当たりませんが、かゆではたびたび見られます。
 『名飯部類』に出てくる「賽(ゆ)湯菽(どうふ)乳(もどき)」というかゆは「白粥(しらかゆ)を烹(に)て熱(あつき)葛(くず)粘汁(たまり)をかけ 生姜(しょうが)汁(しぼりじる) 擦(おろし)菜(だい)こん 薄(うす)芥子(がらし)をおく」という、白がゆにくずあんをかける例です。
 『素人包丁(しろうとぼうちょう)』二編文化二年(1805)刊のかゆは、すべてが味つけなしのかゆに汁をかけて食べる汁かけがゆです。その一つ「小鳥粥」は「小鳥の類(たぐい) 何にても(どんな鳥でも)随分(ずいぶん)こまかくたゝき扨(さて) 前のごとく(前記の例のように)焚(た)きたるかゆの中に入(いれ) よくまぜ合(あわ)し 直(すぐ)に盛(もり)て出(いだ)す」、かけ汁は「かつを出し醤油(しょうゆ) かけ(げ)んよくすべし(カツオ節だしとしょうゆの割合を加減よくすること)」と記されています。そして、かゆにのせる加益(かやく)<薬味>として「さんせう(こしょう) こせう(しょう) ねぎ ちんぴ 大(だい)こん 此中(このうち)見合(あわ)せ遣ふ(つかう)べし<この中からとり合わせて使うとよい>と書き添えてあります。
 ところで、くずあんをかけて食べるようなかゆはせいたくであるといっている本があります。天保四年(1833)に刊行された『都鄙安逸傅(とひあんいつでん)』がそれで、「倹約のためならば 葛あんに及ばず 只(ただ)醤油の出し汁かけて食してもよし 如此(かくのごとく)すれば菜(さい)<おかず>いらず米も少(すくな)くいりて徳用なり」とあります。くずが高価なことから、このように記してあるのでしょうが、庶民の食生活ぶりがうかがえる表現です。また、「大根粥」は米をげんじ<減らし>助(たすけ)となるなり」とも記されており、大根が米の増量用として使われていたこともわかります。

■ 江戸と関西のぞうすい比較
 江戸と関西を種々比較して書かれた『守貞漫稿(もりさだまんこう)』でも、ぞうすいについて触れています。これは、文化七年(1810)に大坂(大阪)で生まれた喜多川守貞によって書かれた料理書です。彼は天保十一年(1840)、三十歳のときに江戸へ下って住んでいますが、三十年以上かけて資料を収集し、分類して完成させたのが『守貞漫稿』で、当時の江戸と関西の違いをうかがい知ることができます。
 この書の内容を要約しますと、「ぞうすいは、京坂(けいはん)<京都、大坂>では男女ともにぞうすいといっているが、江戸ではおじやといっている」とあり、さらに「みそ汁に米を加え、ねぎを混ぜたものを京坂ではねぶかぞうすいといい、江戸ではねぎぞうすいという」、「ぞうすいには種々(しゅじゅ)菜蔬(さいそ)<いろいろな野菜>を混ぜるが、きまりはない」、「三都<京都、大坂、江戸>ともに、ぞうすいの味つけはみそが多く、まれにしょうゆを使うこともある」などとあります。
 京坂で作られる上等のぞうすいとして、みそ仕立ての「カキザウスイ」や、また正月の「塩雑炊」をあげています。「塩雑炊」は、塩味に仕立てたかゆに菜(な)を切って混ぜたり、もちを入れたりすることもあるとあります。

■ 作ってみたくなるごちそうのぞうすい
 江戸時代の料理書は、大都市で繁盛し始めた料理茶屋や武家、上層町家の厨房(ちゅうぼう)で参考にするために編まれたものが多いので、紹介されているぞうすいには、ぜいたくなものが多々あります。
 『素人包丁』のぞうすいは特に材料が豊富で、読んでいて楽しみを覚えます。ハモ、ウナギ、スッポン、キンコ<干したナマコ>、ドジョウ、モロコ、トリガイ、ハマグリ、シジミ、タコ、カキなどの入った上等のぞうすいがずらりと列記されています。
 同じく種類の多い『名飯部類』から、こちそうぞうすいの作り方を二種ご紹介しましょう。
 まずは「牡蠣(かき)雑水」。みそ汁がひとふきしたら、よく洗ったカキを入れ、再びひとふきしたら火を消して蒸らします。この中に、ねぎやおろし大根を加える人もいたようですが、この書では「牡蠣一品にて多く入れたるか(が)よき也」とアドバイスしています。ただ、私が作ってみたところでは、おろし大根を入れると「牡蠣雑水」の濃厚がおさえられ、あと口がさっぱりしてよいように思えました。
 もう一品は「鳧(かも)ざうすい」。鴨(かも)の骨と皮の入った汁の中に、白みそと赤みそを七対三の割で加えて煮出し、こします。そして、「豆乳(とうふ)つかみ潰(つぶ)し 洗ひ(い)飯と共に汁の中に入れ一沸(ひとふき)して後 鳥肉を入(いれ)ふたゝひ(び)一沸して即時(そのまま)<すぐに>食す」とあります。鳥の骨や皮でだしをとる点で今様のぞうすいという気がします。また、豆腐を入れることにより栄養価が高まるばかりではなく、脂の多い「鳧ぞうすい」にさらりとした味わいを出してくれます。
 今日、食べすぎが問題になっていますが、水増しされたごはん料理はエネルギーが少なく満腹感があります。夜の食事が遅くなる場合や、朝起き抜けで食欲の湧かない場合など、ぞうすいやかゆをうまくとり入れてみるのはいいことだと思います。

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●  第6回 貝焼き

■ アワビの貝殻が鍋がわり
 江戸時代の料理書『卓袱(しっぽく)会席趣向帳』明和八年(1771)刊をめくっていたら「貝焼(かいやき)」という料理がありました。原始の時代から、貝を直接火にかけ、殻が開いたところを食べる方法はあったと思われますが、この本に出てくる「貝焼」とは、アワビの貝殻を鍋がわりにして、くわい、きくらげを煮、卵をとき入れるというものです。
 さっそく作ってみたくなりました。しかし、アワビの貝殻には穴がいくつもあって、液体は流れ出てしまうはずです。同書には、その点には触れてありませんので、もう少し貝焼きについて他の料理書で調べてみることにしました。
 そこで開いたのが『江戸料理集』です。この本は、あと十四年で元禄時代という延宝二年(1674)に刊行された六巻から成る本です。内容は懇切ていねいで、この時代に日本料理がこれほどまでに整っていたのかとびっくりするほどのものです。この中の焼物之部に貝焼きがあり、しかも「集め貝焼」、「玉子貝焼」、「腸(わた)貝焼」、「味噌貝焼」と四種類もあげてあります。
 「集め貝焼」は、アワビの貝殻にだしを入れ、煎酒(いりざけ)(日本酒に梅干しを入れて煮つめた調味料)としょうゆを加えて火にかけ、その汁で具をしばらく煮て酒を加え、少し煮たもの、とあります。具は「萬(よろず)貝類 切方(きりかた)は時に相応」とありますから、どんな貝でもよく、切り方もそのときどきに応じてよいことになります。具は貝のほかにも、ももげ(鶏の砂肝)、うす(ボラの胃)、はららご(サケの子)、小鳥、燕巣(えんす)(海つばめの巣)、くしこ(ナマコを干したもの)、玉子不野焼き(卵を薄く焼いたもの)、つみいれ、タコ、生のシラウオや干したシラウオ、イカやエビ、カキ、きのこ類、皮ごぼう、うど、焼き豆腐など、数多く列挙されています。もちろんこの中から何品かを組み合わせて使います。
 「玉子貝焼」は中に入れる具は「集め貝焼」と似たり寄ったりですが、具を煮て卵を流し入れます。
 「腸貝焼」はアワビのわたをさっと煮て、砂の部分は捨て、よくすり、白みそを加えてだしでのばし、その汁で具を煮るものです。具は、アワビ,ぎんなん、花ガツオの例があげられています。色合いは美しいとはとても思えませんが、濃厚な味で案外美味しいのかもしれません。酒を少し加えるようですが、汁は濃いほうがよい、「うすきはあしきもの也(なり)」ともいっています。
 「味噌貝焼」は、みそをだしでとき、その汁で具を煮たものです。
 このような「○○貝焼」という名称は、その後の料理書にはだんだん見かけなくなり、単に「貝焼」と記されたものが多くなります。

■ 江戸幕府の饗応食にもなった貝焼き
 江戸幕府は将軍の襲職(しゅうしょく)(職務を受け継ぐこと)の祝賀に朝鮮国を招いています。徳川家康は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で悪化した日朝関係を修復するために努力していますが、その戦後処理などを含めて招いたのが第一回でした。慶長十二年(1607)のことでしたが、その後、幕末の文化八年(1811)まで計十二回、おもに将軍の代がわりのときに、親善使節団が「朝鮮通信使」の名称で来日しています。一行は、四百〜五百名の大勢で、江戸幕府は面目にかけて最高級のもてなしをしており、その饗応食の記録がたくさん残されています。
 その中の、天和二年(1682)、綱吉の将軍襲職時の饗応食の記録に貝焼きがありました。具は「あわひ(び) はた白(しろ)(スズキ科のマハタ) 木くらげ くるみ」で、本膳料理の二の膳に使われていました。このおりの接待役には吉良上野介(きらこうずけのすけ)の名も見られます。
 正徳元年(1711)、家宣(いえのぶ)襲職時の饗応食にも貝焼きはありました。具は「あわひ 麩(ふ) 焼ぐり」の組み合わせです。このときは新井白石が取り仕切っていたことが知られています。

■ 卵入り「茶碗(わん)焼」は茶わん蒸しのルーツ?
 貝焼きの具はやがて、貝殻に入れず土器(かわらけ)(素焼きの食器)や茶わんにも入れるようになります。
 土器を使って焼く料理は「土器焼」と呼ばれました。『料理伊呂波(いろは)庖丁』安永二年(1773)刊には、たくさんの「土器焼」の例があげられています。たとえば、「車海老(えび) 鯛(たい)切身 小くわゐ(い) 木くらげ 干(ひ)さんせう(ざんしょう)」を卵とじにしたものや、「貝のはしら(貝柱) きくらげ くるみ」にだしでのばした卵を流し入れたもの、あるいは塩ダイのみを酒煮にしたものなどです。
 一方、茶わんに具を入れたものは「茶碗焼」といいます。しかし、茶わんは火にかけられませんから「茶碗焼」とは本来いえません。その点について『料理網目(もうもく)調味抄』享保十五年(1730)刊では、茶わんの場合には「蒸す」と記しています。このあたりから、「茶碗焼」ではなく「茶わん蒸し」の言葉が定着していったのでしょうか。
 ただ、現在の茶わん蒸しには必ず卵とだしが使われますが、「貝焼」や「土器焼」、「茶碗焼」には卵はかならずしも使われてはいません。使う場合も具を煮て卵をとき入れるものや、卵をだしでのばして加えるものなどいろいろです。
 『江戸料理集』の「玉子貝焼」の卵は「ふわふわ」と同じとあります。「ふわふわ」とは、卵をだしでのばして蒸し煮にする料理ですが、この卵とだしの割合を料理書で見てみるとおもしろいことがわかりました。たとえば『江戸料理集』では、卵とだしの割合は同量くらいとしていますが、『料理物語』寛永二十年(1643)刊では、だしは卵の三割です。これは厚焼き卵くらいのかたさです。また『伝演味玄集(でんえんみげんしゅう)』延享二年(1745)刊によれば、卵の二倍容量ではかたくなるので、やわらかに仕上げるには三倍以上も入れるほうがよいとしています。これはなんと茶わん蒸しの割合と同じです。
 『江戸料理集』ではまた、「ふわふわ」の焼き方について、次のように記しています。「すみ(炭)の火をつよきなきや(よ)うに じねんに(自然に)にへ(煮え)候や(そうろうよ)うに(煮えるように)して かけふた(掛け蓋)をしてやき(焼き) 一めんにふっくりと山のあか(が)る時に(山のようにふくれたときに)出すべし」
 「玉子貝焼」の出すタイミングについては、「何時(なんどき)もやき立てを出すや(よ)うに心へへ(えべ)きなり」とし、焼きたてのたいせつさを強調しています。さらに調味についても触れ、ちょうどいいと思う塩加減にすると、かならず塩が濃くなるものだともいっています。

■ 貝焼きを試作してみると・・・・・
 こうしていろいろ調べて、やっと貝焼きを試作してみることになりました。懸案のアワビの穴をどうするかですが、このことに触れた料理書にも出会いました。『茶之湯献立指南』元禄九年(1696)刊がそれで、アワビの穴はみそを詰めてふさぐとありました。しかし当時とは、みそのかたさなどが違っているのでしょうか。うまくいきませんでした。そこで、ごはん粒を練って詰め、あぶって乾かすという方法をとりました。
 用意した材料は、アワビ、エビ、くわい、しいたけ、きくらげ、三つ葉、卵です。アワビは薄切り、エビはコロコロに切ります。くわいは薄く切って下煮しておきます。だしに塩としょうゆで吸い物よりやや濃いめに味つけし、貝殻に注いで温め、具を加えます。やっと煮えかかったころ三つ葉を入れ、とき卵を流し入れ、ふたをして火を消し、蒸らします。
 でき上がった貝焼きは曲げ物の輪にのせ、杉のふたをして出されるものですが、私は、お皿にたっぷりの塩を置き、その上にのせてみました。アワビの焦げる香ばしい香りがなんともいえず、ふつふつと煮立った卵とじは、三つ葉やきくらげとの彩りがよく、食欲をそそります。
   アワビの貝殻を一人一人に使った貝焼き「日常食に」とはいきませんが、貝焼きの具のとり合わせは茶わん蒸しの具としてもよいものが多々あります。

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●  第7回 油脂

■ 江戸時代の料理書に初登場する油脂は?
 油を使う料理は元来日本料理にはたいへん少なかったようです。
 料理専門書としてはもっとも古いといわれている『料理物語』寛永二十年(1643)刊を見ていると、天ぷらという言葉は見当たりません。油で揚げるという調理法もありません。また少しの油を使ったいため物もないようです。
 ただ、煎りつける調理法はあります。「いり鳥」がその例で、鴨(かも)の皮をまず煎りつけて、その脂で肉を煎りつけ、だしとたまりじょうゆで味つけし、せり、ねぎ、青菜などを入れて煮るというものです。また単に、肉の脂を利用して焼く、照り焼き風のものを「いりやき」と呼んでいます。やはり鴨の例があげてあります。
 ところで、「いり」という言葉が使われてはいても、かならずしも油脂を使った調理法とは限りません。「桜煎(さくらいり)」はタコをだしでさっと煮たもの、「酢煎(すいり)」はアジ、サバ、カツオなどに酢を加えて煮たものですが、どちらにも油脂は使われていません。

■ 中国から伝わった油の料理
 それでは、たっぷりの油を使う調理法はいつごろからのものでしょうか。料理書から推測しますと、中国から、僧によって、精進料理とともに伝わったのではないでしょうか。油は、精進料理の淡泊さを補うのはもちろん、栄養的にも必要だったと考えられます。
 精進料理の専門書でももっとも古いといわれる『和漢精進新料理抄』元禄十年(1697)刊は、本の題名のとおり、目録に「唐の部」と「和の部」があり、中国伝来の精進料理と日本の精進料理が収録されています。日本の精進料理といっても、やはり以前に中国から伝えられた精進料理が、日本の料理として吸収されていったことがはしばしに感じられますが。
 唐の部に記されている料理三七種の中で、油で揚げる、煎りつけるという料理は二七種に及んでいます。材料は、豆腐や湯葉などの大豆製品や麩(ふ)を、ごぼう、大根、しいたけ、にんじん、青菜、三つ葉、山芋などとの組み合わせで使っています。
 この本に見られる油の料理は、その後の料理書にも数多く見られます。たとえば『豆腐百珍』天明二年(1782)刊の「菽乳麺(とうふめん)」「ケンチェン」は、『和漢精進新料理抄』にある「麺」(索麺(そうめん)、青菜、豆腐を油でいためたもの)、「巻煎(ケンチェ)」(大根、牛蒡(ごぼう)、栗子(くり)、椎茸(しいたけ)、麺筋(ふ)=麩、青菜、豆腐を油で煎りつけ、湯葉で巻いて油で揚げたもの)とまるで同じですし、『歌仙の組糸(くみいと)』寛延元年(1748)刊の「きくの葉てんふ(ぷ)ら」は『和漢精進新料理抄』の、菊の葉に水どき小麦粉をつけて揚げる「淵明包(エンミンパウ)と同じです。また、『普茶料理抄』明和九年(1772)刊もこの本が底本(ていほん)(よりどころにした本)になったといわれています。

■ 生産量少なく値の高かった油
 「油」といっても、なにから搾った油だったのでしょう。江戸時代の料理書の中でもっともポピュラーなのは、ごまの油のようです。
 そこで『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』元禄九年(1696)刊をひもといてみることにしました。この本は養生書なのですが、食品を一つ一つとり上げて解説していますので、食素材が当時どのように使われていたかを見るのにも便利な本です。
 「胡麻油(ごまのあぶら)」の条を見ると、食油や灯油、雨具、塗髪(とはつ)に用いるとあり、ごまはよく蒸して搾ることや、あるいは蒸さないで生で油をとる方法があることも書かれています。また、ごまの油は値が高く、下民(げみん)(庶民)には手が届きにくいともありますが、灯火として油煙が少ないこと、食用や塗髪に用いても優れていることが書かれています。
 ごまの油のほか、江戸時代の料理書に見られる油にはかやの油、くるみの油があります。『本朝食鑑』によれば、「榧子油(かやのみのあぶら)」は吉野(奈良県)がおもな産地であること、また「榧子油」も「胡桃仁油(くるみのあぶら)」も生産量は少なく、値段が安くはないことにも触れています。動物性の脂の「鯨(くじら)」や「鰯(いわし)」は価格が安いとありますが、これはおもに灯油として使われていたようです。
 いずれにしても、当時は油脂の生産量は少なかったようで、食用としての油の消費量は多くはなかったと見るべきでしょう。
 しかし料理書には、江戸時代後期の一七八〇年以後には、油を使った料理が増えています。その中からいくつかご紹介します。

■ 家康も食べたという「鯛の天ぷら」
 真偽のほどはわかりませんが、徳川家康が食べたという「鯛の天ぷら」を『歌仙の組系』の中に見つけました。現在は、タイは刺し身か焼き物によく使われますが、天ぷらにするのはあまり聞きませんので、はたしてあるのかどうかと長い間思っておりました。
 しかし、ここでいう天ぷらは、現在の天ぷら―――衣をつけて揚げたものではありませんでした。「てんふ(ぷ)らは何(なに)魚(ざかな)にても温(うん)どんの粉まふ(ぶ)して油にて揚(あげ)る也(なり)」。つまり、タイの切り身に小麦粉をつけて揚げる。今いうところのから揚げのことです。葛(くず)の粉をつけて揚げてもよいともあります。これは「かけしほ(お)(かけ塩) とうがらし」で食します。
 天ぷらでも、『料理早指南』二編 享和元年(1801)刊に出てくるものは、タイやヒラメの身をかまぼこだねにして、山の芋、うどん粉、塩を入れてよくすり混ぜ、ぎんなん、きくらげなどを細かにしたものを加えて丸めて揚げる、いわゆるさつま揚げです。

■ おろし大根で食べる「揚出大(あげだしだい)こん」
 これは、大根を皮をむいて縦二つに割り、たっぷりの油で揚げ、器に盛ってしょうゆを落とし、おろし大根を置いて、こしょうをふって供する料理なのですが、要は大根の素揚げです。揚げた大根の甘みと油のこくに、おろし大根とこしょうがぴったりで、しかも揚げたての熱さをおろし大根が緩和する役目もあります。
 大根は水分が多いので、揚げると油がはねそうですが、煮物をしているような感じで、まったく静かです。原文にはごまの油で揚げるとありますが、日常使っている油で揚げてから数滴ごま油を落としてもよいでしょう。揚げ時間は、なべの大きさや入れる大根の量によって一概にはいえませんが、およそ175度で六〜七分というところです。竹串を刺して、ややかたいかなという程度で引き上げます。あつあつを盛り、箸(はし)でちぎって食べます。
 これは『大根一式料理秘密箱』天明五年(1785)刊に出てくる料理です。

■ 油を使っためん料理「菽乳麺」
 『豆腐百珍』に出てくる「菽乳麺」は、なにやら長崎チャンポンを思い起こさせる料理です。
 作り方は、熱したごま油に豆腐をつかみくずし入れ、細かく切った青菜とともにいため、かためにゆでたそうめんを加えます。薬味には、ねぎのあらみじん、おろし大根、わさびか粉ざんしょうをのせ、しょうゆを落とし、からめながら食べます。いためるという料理法が料理書に見られるようになったとはいえ、めんをいためるというのは珍しいことです。ごま油の香りと豆腐、青菜がそうめんとよく合うのにも驚きます。
 真夏のそうめんといえば、冷たくしてつるつるの食べ方になりがちですが、カロチンとビタミンCたっぷりの青菜を加え、しかも油との組み合わせで栄養価を高めた食べ方には感心させられます。めんと豆腐も栄養的に補い合って、たんぱく質の効果をより高めています。
 江戸時代の油の使い方には、貴重な油を効果的に使うくふうと心づかいが感じられますが、昨今は、油脂のとりすぎと質が問題になっています。植物性と動物性それぞれのバランスを考えて、じょうずな油脂のとり方をしたいものです。

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●  第8回 煎酒(いりざけ)

■ 梅干しの酸味と塩けが生きている調味料
 煎酒といってもアルコール飲料ではありません。日本酒に梅干しと削りがつおを入れてジワーと煮つめた、酒精分のなくなった液で、江戸時代にあった調味料です。梅干しの酸味と塩けがとけ込んでうま味があり、いろいろな料理に幅広く利用されていました。
 煎酒がいつごろ現れたのか、いろいろ議論はありますが、もっとも古い記録といわれているのが『松屋茶会記(まつやちゃかいき)』の弘治二年(1556)四月二十四日の献立中のもので、室町時代の末期です。このころから約三〇〇年は使われ続けてきた、日本料理にはなくてはならない重要な調味料でした。
 江戸時代の寛永二十年(1643)刊の『料理物語』には、その作り方が次のとおりに記されています。「煎酒ハかつを(削りがつお)一升に梅干十五廿(15個から20個)入(いれ) 古酒二升 水ちと(少し)たまり(味噌の上澄み)少入(すこしいれ) 一升にせんじ(煮つめ) こし さましてよし 」
 養生書『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』元禄九年(1696)刊にも「熬酒(いりざけ)」の記述があり、近世庖丁人が作っていること、わが国に来ている中国人によれば中国にはこのようなものはないといっていることが記されています。また、液をこした残りの「鰹節(かつおぶし)と梅諸(うめぼし)は収蔵(たくわ)えておいて不時の肴(さかな)に具(そな)える」(原文は漢文)ことにも話が及んでいます。

■ 生魚や野菜の味を引き立てる名脇役
 煎酒の使い方を『料理物語』からあげてみると、たとえば、「指身(さしみ)之部」の「かきたひ(掻(か)き鯛)」の調味として「いりざけよし」とあります。「かきたひ」は、タイを三枚におろしてさくにとり、皮つきのまま、なま板に尾のほうを左にして目打ちで止め、頭のほうから出刃の刃先で身をかきとるようにし、三重ねずつくらいに重ねて盛りつけます。これに煎酒を添え、辛味にはからしを、けんにはよりがつお(かつお節を薄くよれた状態に削ったもの)や、くねんぼ、みかん、きんかんなどの柑橘(かんきつ)類を使うとあります。
 煎酒は、猪口(ちょく)に入れて出すこともあれば、皿に盛った刺身のまわりに注ぎ入れて「溜(た)め煎酒」としても出されていたようです。
 煎酒と合う刺し身用の魚には、タイのほか、マナガツオ、コチ、サワラ、川魚のコイ、フナ、アユなどがあげられています。
 川魚の刺し身はわりあい一般に食べられていたようで、『江戸料理集』延宝二年(1674)刊にも、「鯉(こい)のさしみの事」として作り方が記されています。コイは糸作り、小口切り、皮つき作り、平作りなどにして、ふのやき(生麩(なまぶ)を焼いたもの)のせん切り、燕巣(えんす)を裂いたもの、ゆでた伊勢エビを裂いたもの、クラゲのせん切りなどをとり混ぜ、さらに瓜(うり)や栗やしょうがを切り混ぜ、わさびを添えて、けんには、くねんぼ、みかんなどを用います。ここでも、煎酒は猪口に入れて出すことが記されています。
 同書の「鯉膾(こいなます)の事」の項では、コイは煎酒を使ってなますにしています。あえ方は「さしみのごとくにして さて こひ(い)を鉢に入れ 先づ(まず)酢を少しかけて さはさは(さわさわ)と(さっくりと)あへ(え) 其(そ)の上へいり酒をよきほどにかけ よくあへ 塩にてあんばい(味加減)すべし」とあります。
 煎酒はまた、野菜やきのこなどのあえ混ぜにも数多く使われています。
 『茶之湯献立指南』元禄九年(1696)刊には、「夏大(だい)こん 牛蒡(ごぼう)ならつけ(奈良漬け) くしかき(串柿) 六でう(じょう)(六条豆腐。豆腐を薄く切り、塩漬けにして乾燥させたもので、かつお節のように削って使う)くり せう(しょう)が せり」を煎酒であえた「和交(あえまぜ)」が出てきます。
 『卓袱(しっぽく)会席趣向帳』明和八年(1771)刊には、「結(むすび)かんひやう(ぴょう) 葉せうが 生椎(しい)たけ」「さき松茸(まつたけ) き(ぎ)んなん みや(よ)うが むきぶどう」「包(つつみ)ゆば 白瓜(しろうり)もみ 椎たけせん(せん切り)」などの、煎酒を使った精進あえ混ぜがあげられています。

■ 相性のよさが新鮮「卵料理と煎酒」
 『料理物語』には、煎酒を使った「玉子ふわふわ」という卵料理が出てきます。「たま子をあけて(卵を割って) 玉子のかさ三分の一だし たまり いりざけをいれ よくふかせて(蒸し煮にして)出し候(そうろう)かたく候(そうらえ)へばあしく(悪しく)候」
 『万宝(まんぽう)料理秘密箱』天明五年(1785)刊の「磯菜卵(いそなたまご)」は、煎酒と卵の組み合わせに目をみはります。
 「鍋に湯を煎(にや)し(沸かし) 新しきたまごを白味黄味ともにわりこみ そのままにてゆがきて 扨(さて)浅草苔(あさくさのり)をかけ 別にのぞき猪口に山葵(わさび)志やうゆ(しょうゆ)か熬ざけかを入レ(いれ)て出すへ(べ)し」。西洋料理の朝食に、トーストの上にのせて供するウ・ポシェという酢煮卵がありますが、「磯菜卵」はおそらく西洋から直輸入のウ・ポシェでしょう。煎酒と浅草のりのとり合わせにいかにも日本的なアレンジが感じられます。

■ 時代とともに変遷する煎酒
 煎酒は生臭もののかつお節が入りますので、精進日には、かつお節を使わない精進の煎酒を用いたようです。
 『料理物語』には、かつお節のかわりに、豆腐を田楽のように切ってあぶったものと、干しかぶらを刻んだものを使い、梅干しとともに古酒に入れて煮つめています。また酒ばかりにたまりを加えてもよいともあります。
 『合類(ごうるい)日用料理抄』元禄二年(1689)刊の精進の煎酒には、「茄子(なす)いり酒」として「酒一升 醤油(しょうゆ)壱合(いちごう) かす漬茄子の香物(こうのもの)」を七合までに煮つめる例があります。
 『当流料理献立抄』(推定1780〜95)刊には、かつお節のかわりにこんぶ、かち栗、大豆、かんぴょうを使う例があります。
 ところで、煎酒は時間をかけて作られる調味料でしたから、今すぐ使おうという場合にはまにあいません。そこで手軽にできる方法も考え出されています。
 『料理物語』では、急ぐときは梅干しからゆっくり塩分を引き出す方法ではなく、塩とたまりを補って時間短縮をはかっています。
 また梅干しも使わず、ついには酢を使う方法も行われるようになりました。『当流料理献立抄』の「早(はや)いり酒の法」には、古酒三升にしょうゆ一合、酢五合を加えて煮立たせ、さましてさらに二度煮返す方法をとっています。
 こうして簡便法が流行していき、煎酒には当然酢が入るようになり、「酢いり酒」または「いり酢酒」と呼ばれ、これもたいへん利用されていました。
 少し甘めの煎酒も登場します。『料理網目(もうもく)調味抄』享保十五年(1730)刊には「甘(あまみ)を好めハ(ば)氷砂糖を加(くわえ)」とあります。また『料理早指南』四編文化元年(1804)刊には、早いり酒の一つとしてみりんに焼き塩やたまりを入れる方法や、精進の煎酒としてみりんに梅干しだけを入れて煮出す方法が紹介されています。

■ 現代の食卓にも復活させたい調味料
 これほど全盛をきわめた煎酒も文化・文政(1804〜29)のころを境に急激に姿を消していきました。その理由は、そのころからしょうゆが大量生産化されるようになって、手軽に入手できるようになったからと考えられています。
 しかし煎酒の適度の酸味と塩けは、現代の食生活にこそ望まれるよさがあると思うのです。
 私はこの煎酒を、日本酒二カップに梅干し二個入れて弱火にかけて七割くらいまで煮つめ、さましてこし、しょうゆ小さじ一杯くらいを加えて作り、びんに詰めて冷蔵庫に常備してあります。大根のせん切りと貝割れ菜、あるいはレタス、きゅうり、セロリなどをあえると、油なしドレッシングのサラダという感じでたいへんさわやかです。塩味もきつくなく、刺し身につけてもつけすぎという心配がなく、なによりも魚のくせが気になるかたに喜ばれています。

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●  第9回 砂糖

■ タイの保存に使われた砂糖
 江戸時代の料理には、砂糖はほとんど使われていません。砂糖がたいへん希少だったからなのですが、薩摩国(さつまのくに)(現・鹿児島県西部)にはタイを砂糖漬けにしたものがありました。『鯛(たい)百珍料理秘密箱』天明五年(1785)刊の「さつま砂糖漬鯛」がそれですが、「これは此国(このくに)にかきる(限る)事なり他国にはとんとなし」とあることからも、たいへん珍しい料理だったようです。
 タイは庶民には高根の花、希少な砂糖を使ってだれが作ることができたのかはわかりませんが、くわしく作り方が記されています。
 タイを三枚におろして皮をひき、生千(なまび)(生干し)にしてから一分(ぶ)(約三ミリ)くらいの厚さに切ってみそに漬け、二日ほどおいてみそをふきとり、白砂糖をまぶして壷(つぼ)に漬け込みます。保存を意識してのことでしょうか、「風さへ入(いれ)申さねばいつまでももつなり 入用之時(いりようのとき)に出し 一度あらひて(洗って)そのまゝ何にてもつかふ(使う)也(なり)」とあります。使い方としては、汁物のわん種、酢の物、なます、取肴(とりざかな)などをあげています。
 この本のとおりに作ってみると、確かにこはく色に透き通ったタイの砂糖漬けができました。真夏の八月初めごろ作ったのですが、その月末ごろまで室温に置いても腐敗しはしませんでした。すっかり砂糖がとけて、タイはべっこうあめのような色になっていました。茶懐石の八寸の器に山の幸とともに盛ってみましたが、とり合わせもよくなかなかの逸品です。タイのシコシコとした歯ざわりと甘(あま)がらさがなんともいえません。

■ 江戸時代、砂糖は高価な調味料
 元来日本には砂糖の原料であるさとうきぴがなかったので、砂糖を作ることはできませんでした。砂糖はすべて輸入だったのです。
 江戸時代以前、天正八年(1580)に、織田信長に砂糖が献上されています。そのころから南蛮貿易により砂糖の輸入が増えていきました。
 江戸時代の砂糖の状況について『日本食生活史年表』(昭和58年刊 楽游書房)から拾ってみます。
 慶長十五年(1610)に中国から奄美大島へひそかに甘庶(かんしょ)(さとうきぴ)が持ち込まれ、同時に栽培法と製糖法が伝わり、その翌年、黒糖100斤(約60キログラム)が得られた、とあります。それにしても微々たるものでした。
 享保三年(1718)、菓子作りの専門家によって書かれたという『古今名物御前菓子秘傅抄(ここんめいぶつごぜんがしひでんしょう)』が、日本で最初の菓子専門書として世に出ました。今もなじみ深い「まんぢう 草餅(くさもち) かし葉(わ)もち 葛(くず)もち」が現在とほとんど変わりない作り方で記されています。また南蛮渡来の菓子「かるめいら こんペいたう かすていら」などの作り方もあります。しかしながら、安永元年(1772)、江戸小石川(こいしかわ)の寡婦(かふ)お玉が売り出して評判になった大福餅には塩餡(しおあん)(砂糖の入らない塩味のあん)を入れたとありますから、砂糖はまだまだ庶民には届かなかったようです。
 文化六年(1809)ころから、江戸で菓子類に和製の砂糖が使われるようになったといいます。少しずつ生産量も増えたのでしょう。
 慶応元年(1865)には、薩摩藩で洋式の製糖機四台を購入し、外国人技師の指導で製糖を開始しています。しかし、三年後の明治元年(1868)でも砂糖の輸入量は一万数千トン。ンに上っていますから、まだ国内の生産では需要に追いつけなかったということでしょう。当時の砂糖の価格は米の約七倍、依然として高価な調味料でした。

■ 砂糖を使わないさっぱり味のすし飯
 江戸時代には、お菓子は別として、料理の甘味はどのようにしていたのでしょうか。
 昨今では、すし飯の合わせ酢は塩、砂糖、酢がお定まりになっていますが、享和元年(1801)刊の『名飯部類(めいはんぶるい)』のすし飯には砂糖は使われていません。すしは元来、自然の乳酸醗酵を待って作ったなれずしでしたが、酢が出まわるようになってから、早(はや)ずし(当座ずし)が作られるようになりました。『名飯部類』の「こけらずし」は早ずしで、押しずしの一種です。上等のものにはタイやアワビなどの薄切りをのせて押します。
 具体的な作り方は、まず洗って浸水しておいた米に塩を加えて炊きます。次に「広き器(いれもの)に写(うつ)し 冷(さま)し すし桶筥(はこ)(すしの押し型)に竹の皮を舗(しき) 飯(めし)を入(いれ) 掌(て)にて高下なきやうに直し(高低のないようにならし) 具を置(おき) ふたゝぴ飯具を置(おく)」というふうに飯の間にタイやアワビなどをはさみながら、「ずいぶん厳酪(きふきす)(酸味の強い酢)を木葉の頬にて点濾(ふりかけ)べし」とあります。つまり、酢を打っているだけで、砂糖入りの合わせ酢の記述はありません。これに「圧石(おもし)」をかけて、しばらくしてから切り、「蓼(たで) 山椒(さんしょう)染紫姜(そめはじかみ)」を添えて食します。
 作ってみると、さっばりしており、甘味のないすし飯がかえつて魚の具と調和するようです。

■ 素材の味わいを発見した「厚やき豆腐」
 現在では砂糖を使うのがあたりまえになっている料理にも、江戸時代には使われてはいません。
 『豆腐百珍続編』天明三年(1783)刊に「厚やき豆腐」というのがあります。擬製豆席のようなものといえばおよそ見当がつくでしょうか。作り方は、油でいりつけた豆席に細いせん切りのきくらげやごぼう、くわい、麻の実などを混ぜ、「酒しほ(さかしお) 生豆油(きじょうゆ)」で味つけして厚手のなべで焼き上げます。「酒しほ」とは、酒そのものという説もありますが、いろいろな料理書に使われている「酒しほ」から判断して、私は今のところ「塩けのある酒」と考えています。
 いずれにしても、調味料は「酒しほ」と「生豆油」のみで砂糖は使われていません。本には「酒しほ」と「生豆油」の分量が書いてありませんから、どれほど使うのかはわかりませんが、試作してみたところ、かなり塩分を落とさなくては食べられないということがわかりました。砂糖の入らないこの種の料理は、単に甘味を入れないだけではとても濃い味になってしまいます。塩味をどんどん落として、いい味加減になった「厚やき豆膚」を食べてみると、豆腐やごぼうにこれほどの香りや味があったのかと驚きました。今までなんと調味料の勢いで食べていたことかと思い知らされました。

■ 江戸料理に学ぶ味つけのくふう
 なますといえば、紅白なますのように砂糖のたっぷり入った味の濃いなますを思い浮かべますが、『大根料理秘傅抄』天明五年(1785)刊の「大根湯なます」は砂糖の入らないさらりとした煮なますです。短冊に切った大根とにんじん、きくらげ、麩(ふ)などを、しようゆ、酢、塩を加えて強火でさっといりつけ、「柚子(ゆず)こまごま(ゆずの皮のみじん切り) 線生妾(せんしょうが) 柿のせん切り せり」なども加えます。この和風サラダ風の湯なますは、たっぷり食べられますし、さめても味が変わらないのはうれしいことです。
 江戸時代の料理書では、煮物でさえも砂糖は使われていません。先の『鯛百珍料理秘密箱』にある「薩摩名物ころ煮鯛」は、タイの一寸(約三センチ)角四方の切り身と豆腐の煮物なのですが、油でいりつけたあと、酒としようゆだけでいり煮にし、もみじおろしを添えます。
 『豆腐百珍』天明二年(1782)刊に出てくるさまざまな豆腐料理にも砂糖は使われてはいません。たとえば「小竹葉(おささ)とうふ」(焼きたての豆腐をつかみくずし、しようゆで味つけして卵とじにし、さんしょうをふる)、「雷とうふ」(ごま油で豆腐をいため、しようゆで味つけし、白ねぎのざくざくを打ち込み、おろし大根とわさびのせん切りを加える)、「ぐつ煮とうふ」(赤みそと白みそを酒でゆるめたものに豆腐を入れ、よく煮て、すったさんしょうの実を置く)など。
 これらの砂糖なしの料理を見てみますと、油のコクや酢の酸味、さんしょうやしょうが、ゆずなどの辛味や香りのあるもの、柿などの自然の甘味のある食品などをみごとにとり入れていることがわかります。
 私たちの食卓から完全に甘味を断つことはできませんが、ちょっとしたくふうで控えることができますし、甘味を控えることで塩分をおさえる効果も出てきます。自然の食べ物は、素材そのものに味のあるものだと思います。

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●  第10回 青物

■ 青物としての価値が光る「野の菜」
 「野菜」というとき、山野に自生する菜を連想する人は少ないでしょう。しかし、江戸時代の料理書をひもといてみると、野菜の条に山野草の多いことに気がつきます。もともと野菜は「野の菜」だったに違いありません。そういえば今でも中国では「野菜(イエツアイ)」という言葉は「蔬菜(シューツアイ)」とは区別して、「野の菜」の意味で使われています。
 江戸時代の料理書には「青物」という言葉が使われています。
 江戸時代初期、寛永二十年(1643)に出された、料理専門書としてはもっとも古いといわれる『料理物語』にも「青物」の名が出てきます。この本の前半は食素材を「海の魚(うお) 磯草(いそくさ) 川いを(お)(川魚) 鳥 獣(けだもの) きのこ 青物」と七つの群に区別し、その料理法を簡単に列挙しています。そして「青物之部」には、「大根 牛芳(ごぼう) 里芋」などに混じっで数多くの山野草があげらぼぼれています。たとえば「たんほゝ(たんぽぽ) よめがはぎ(よめな) 蓬(よもぎ) 常山(くさぎ) はこべ なづ莱(な) 芹(せり) 土筆(つくし) 独活(うど) 蕨(わちぴ) 防風 すべり克(ひゆ) 藜(あかざ) 薊(あざみ) たで からしの葉 芥子(けし)の葉 大豆のは(葉) はゝき草(くさ)(ははこ草) くこ うこぎ 野びる 藤葉(ふじのは)」など。
 現在ではなじみの薄いものもありますが、当時は青物の一つとして立派にその位置を占めていたということでしょう。料理法は、はこべやなづ莱は「汁物 あへ(え)物」に、はゝき草は「あへもの すさい(酢の物)」にというふうにあり、山野草の料理が献立の一部として通用していたことがうかがえます。
 「青物」がいつから「野菜」といわれるようになったかは調べてみないとわかりませんが、おもしろいことに幕末の嘉永二年(1849)に書かれた『年中番莱録(ねんちゅうばんさいろく)』には、目録の頁(ページ)には「四季青物之部」とあるのに、本文の見出しには「四季野菜之部」となっています。つまり江戸末期には「青物」も「野菜」も同じように使われだしていたことになります。

■ 『年中番菜録』は日常の献立のヒント集
 『年中番莱録』は毎日のお総菜の手引書なのですが、内容は、119種の食素材をあげて、各素材の料理法をわかりやすく述べています。そして、その中の半分近くの食素材が青物で占められており、今でも利用できる料理が数多く記載されています。 
   「番菜」の意味については、この本の序に「関東にてはそう莱(ざい)と称し 関西にて雑用ものと唱(となう)る献立の数ヾ(かずかず)をかき集(あつめ)て年中番菜録と名つ(づ)けて」とあります。関西では今でも「おばんざい」の言葉が生きています。
 また附言(ふげん)には次のように書かれ、この本の編まれた主旨が読みとれます。「番莱は日用のことなれば いまだせたいなれざる(世帯に慣れない)新婦はさらなり(いうに及ばず) 年たけたる女房(古女房)まかなひ(い)の女(台所仕事を受け持つ女)といへ(え)ども折ふしさし詰まる(ときおり思い浮かばない)ことあり 此(この)書は只(ただ)ありふれたる献立をあけ(げ) めつ(ず)らしき料理または価(あたい)とふ(う)とく(値段が高く)番さいになりか(が)たき品は一さい取ちず(含まず)ふと思案に出(で)かぬる時のたよりをむね(いい献立案が出ないときの頼りになることを目的)とすればつねつ(づ)ね手まわりに置(おき) 番莱の種本(たねぼん)と心得たまふ(う)べし」

■ 自然の命が息づく山野草のお番菜
 では『年中番菜録』をはじめとする江戸時代の料理書には、山野草はどんなお番菜として登場するのでしょうか。
 たとえば、よめなは『年中番莱録』には、汁の具やお向(むこう)に使われています。よめなの汁には、吸い口としで芽うどやからしがよいとあり、お向は「酢醤油 したしもの」などにして「ほし大根小口 又たけの子の皮やわらかき所きざみてあしらふ(う)事もあり いづ(ず)れ上品なり」とあります。
 この本より以前刊行の『料理伊呂波(いろは)包丁』安永二年(1773)刊にも、ひたし物として「よめな ぅどたん尺(ざく)(短冊切り) ふりこ(ご)ま」、また『素人庖丁』第三編文政三年(1820)刊の「浸物之部」にも「よめな ほし大根はりはりす(酢) しやうゆ(しょうゆ)」の記述があります。 
   『江戸料理集』 延宝二年(1674)刊には、よめなの下ごしらえとして「葉計(ばかり)つみて 湯煮を しやきゝ(しゃきしやき)といふほと(ど)にして用(もちうべ)へし」とあり、さっとゆでて歯ざわりを大事にしたことがわかります。うどや干し大根のはりはりとの組み合わせもこの歯ざわりを意識してのことだと思われます。
 『名飯部類(めいはんぶるい)』享和二年(1802)刊には、よめなをさっとゆでて絞り、塩をからめて、炊きたての白飯に混ぜる「羊腸莱飯(よめなめし)」が出てきます。緑の美しいこのごはんは、よめなを細かく刻んでぎゆっと水けを絞って混ぜるのがよいようです。そうすれば、かなりたくさん混ぜてもぱらりとした飯に仕上がります。よめなはくせのない野草で、その点からもたくさん使えますので、私たちも緑色野菜としておおいに活用したいものです。
 たんぽぽは『年中番莱録』に、汁の具として「嫁莱(よめな)と同じや(よ)う心得てよし」とあります。また「胡麻醤油(ごまじょうゆ) したしもの」の例をあげ、「よめな つくつくし(つくし)なと(ど) 取(とり)まぜてしたしにしたる おもしろきものなり」とつけ加えています。たんぽぽを使ってみたいと思われるかたは、芽が出たばかりのやわらかなものを摘んでください。大きく育ったものはかたく、しかも苦味も強いようです。
 わらびの料理も非常に多く数えきれないほどです。
 『年中番莱録』には、汁物の具にするとか、お向として「からし醤油 したし物」に使うなどしています。お平(ひら)の煮物には、油揚げとのとり合わせが定まりのようです。
 『素人包丁』第三編の「浸物之部」には、干しわらびをさんしょうの粉入りのしょうゆであえて、「はりくり」(針のように細く切った栗)を天盛りにしたものや、わらびと白ごまを酢じょうゆであえて刻み栗を天盛りにしたものなどが出ています。

■ 干した山野菜は「四季通用」の食
 山野草は季節感を楽しむとともに、わらびやぜんまいなどは乾燥させて「四季通用」の保存食としても年じゅう使われていました。乾燥させることによって、独特の歯ざわりが生まれ、風味も加わり、別のおいしさをいつでも利用できるよさがあります。
 そして数多くの料理書には、山野草の効能などをも含めて書かれています。その効能は現代医学から見て理にかなったものかどうかはともかくとして、人々の関心の深い青物であったことには違いありません。
 ただ、江戸時代初期の『料理物語』と幕末の『年中番莱録』とでは、山野草のとり上げ方がだいぶ変わってきています。『料理物語』ではあれほど多くとり上げられていた山野草が、『年中番莱録』では「嫁菜 蒲公英(たんぽぽ) 蕨(わらび)」くらいになり、あとの青物は現在野菜として流通しているものばかりになっています。『年中番莱録』には、山野草は「番菜にはあまりせぬものなれど到来のせつ(いただいたとき)など用ひ(い)てよし」とあり、しだいに使われなくなっていることがわかります。
 これは、城下町などの発達で都市形成が進んだことにより、都市生活者にとって山野草は一般的ではなくなったということかもしれません。

■ 大根の葉、かぶの葉は立派な青物
 さて大根やかぶの葉を捨でずに利用しているかたは今どのくらいいらっしやるでしょうか。
 江戸時代の料理書には青物として「葉」にも話が及んでいて、たとえば「大根」という項目の次に「おなじく葉」となっていて同格にとり扱われています。「葉」にはそのはか「かぶの葉 にんじんの葉 ふきの葉 蓮(はす)の若は(菓) 新ごぼうの葉 間引き莱」などの例があります。葉にんじんのやわらかいものはしゃきしやきとして、『年中番莱録』にも「胡麻しやうゆ したしもの 上品なり」と書かれています。いかに青い葉物を大事にしたかがうかがえます。
 私たちも身近にある緑の葉をもっと利用したいものです。これらはビタミンAやC源だったり、今注目されている繊維も多いということに気がつくでしょう。

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●  第11回 乾物

■ 日もちのよさと新たな風味が魅力
 江戸時代の料理書を見ていると、乾物などの加工品についての記述が目立ちます。たとえば『江戸料理集』延宝二年(1674)刊には「萬塩物干物等使様(よろずしおものひものとうつかいよう)」などの条があり、相当数のページをさいています。当時食品全体から見て、乾物や塩蔵物の占める割合が大きかったことがうかがえます。
 以前、養生書『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』元禄九年(1696)刊に出てくる植物性食品と動物性食品の利用法について調査・分析したことがありました。それによると、野菜類に関する記述百十七種のうち加工・貯蔵法の記述は五十一種とほぼ半数近くありました。このうち乾物について書かれたものは十九種もあります。魚介類は三百五種の記述のうち加工・貯蔵法の記述が百六十九種あり五十五%を占めていました。このうち乾物の記述のあるものは六十八種に及んでいます。
 加工品が単に食品を長もちさせるという目的だけに終わるなら、生の新鮮な食品の代用品にすぎないかもしれません。しかし乾燥あるいは塩蔵をすることによって独特の風味や歯ざわりが生じて生のものにはないよさが生まれます。江戸時代の料理書には、そんな加工・貯蔵品のよさを生かしたさまざまな料理が展開されています。

■ 干(ひ)ダラを使って酒の肴や混ぜごはんに
 乾物といっても魚の場合、単に干したものから、塩をして干すもの、煮て干すもの、火であぶってから干すものなど一様ではありません。魚は漁獲量が不安定ですから、いつでも食べたいときに必要量が手に入るというわけにはいかなかったでしょうし、腐敗もしやすいので、いかに貯蔵するかは現在よりはるかに意味があったと思われます。
 魚の乾物の中では干ダラが料理書に数多く出てきます。
 『料理早(はや)指南』三編享和二年(1802)刊の「干鱈(ひだら)」の条では、まずもどし方に触れています。「水につけ置(おき)二三日(にさんにち)をまたずして出して遣(つか)ふ(う)也(なり) 又仕方によりで(料理によって)水につけずして洗ひ(い)て直(すぐ)に調する(料理する)物有(あり)」と。そしてその料理法として次のようなものをあげています。
 「交膾(まぜなます)」…水につけておいたタラの水けをふいて焼き、細かにむしり、苣(ちしや)の葉の細かく切ったものを混ぜ合わせます。酢としょぅゆをかけ、生栗をもみ砕いたものを散らします。
 「小丼(こどんぶり)」二種…一つは、干ダラをもどしたものに大豆と削りカツオ節をたくさん入れ、みりんとしょぅゆで煮ます。もう一種は、水につけておいた干ダラの皮をむき、皮も身も細かに切って酒ばかりで煮、こしょうみそであえます。
 「手塩物(てしおもの)」…干ダラを洗って小さい短冊に切って壷に入れ、酒を入れて目張りをし、四〜五日か六〜七日たってから用います。手塩物とは手塩皿(小皿)に盛って出す酒の肴というところでしょうか。
 『茶之湯献立指南』元禄九年(1696)刊の十一月の献立には、茶の湯の八寸(酒の肴)として「干鱈むしり」が見られます。作り方は「干鱈はじりじりと焼(やき) 大に引きさくべし」とあります。干してあぶったタラのにおいは独特で、大きく裂いた身はじっくりかみしめながら楽しめることでしょう。
 『当流節(せつ)用料理大全』正徳四年(1714)刊は、四條流料理の百科事典ともいうべきものですが、これには、焼いた干ダラの皮をはいで身を小刀で薄く削る方法が紹介されています。湯でもどして煮物などに使うとあります。
 『名飯部類(めいはんぶるい)』享和二年(1802)刊には「乾呉魚飯(ひだらめし)」が出てきます。これは、干ダラを「文武火(ぶんぶか)(中火)にて炙(あぶり)乾(ほ)し 揉(もみ)細(こまか)にし」、炊き上がった飯に混ぜ合わせたものです。ちなみに文火(ぶんか)とは弱火、武火(ぶか)とは強火のことです。
 魚の乾物には干しトビウオや干しダイもあります。『料理伊呂波(いろは)庖丁(ぼうちょう)』安永二年(1773)刊には、これらの干し魚を酒に浸してむしり、浸し物に使っています。浸し物の材料の組み合わせには「干(ほし)とび魚 わかめ むめぼし(梅干し)」「干鯛(はしだい) ぬか漬(づけ)なす せうが(しょうが)せん(せん切り)」などの例があります。こんぶ、ひじき、てんぐさなどの海轟の乾物も重要な食品でした。北海道の干しこんぶが北前船に載って遠く沖縄までも運ばれたことはよく知られた話です。

■ 尾州(びしゅう)の切り干し大根が長崎の名物料理に変身
 野菜の乾物は江戸時代には、野菜が生育しにくい寒い時期を乗りきるための大事な食べ物でした。天候不順の年にはこれで命をつないだこともあったでしょう。現代の豊かさの中で思い描く乾物のイメージとはずいぶん違います。
 ところで二〜三年前、女子栄養大学のある埼玉県坂戸(さかと)市の隣市で生ゴミ減量作戦キャンペーンが展開された折、調理学研究室に「調理のくふうで生ゴミを減らせないものか」という依頼が入りました。折しも西からのからっ風の季節だったこともあって、捨ててしまっている大根の皮や葉を風に当てて干すことを思いつきました。大根の皮や葉は捨てると大量のゴミになりますが、太陽と風にしばらく当てると風味のある干し大根や干し莱になります。
 干し大根は、江戸時代の料理書の中でいちばん多く利用されている野菜の乾物です。大根はその土地独特のものがあり、切り干し大根などは、その切り方によって歯ざわりも異なりますから、じつにさまざまな料理が生まれています。
 その中の一つ「大(だい)こんさんちやう(ちょう)醤(あえ)」は『諸国名産大根料理秘侍抄(ひでんしょう)』天明五年(1785)刊に出てくる切り干し大根のあえ物です。白ごまをいってよくすり、三年みそか尾州(愛知県)の赤みそのすったものを加え、おろしたわさぴと酒を少し入れてすり合わせるというものです。ごまみそのあえ衣は味が濃厚になるきらいがありますが、わさぴが入ることでそれを感じさせなくなります。
 原文によりますと、この料理は尾州の宮重(みやしげ)大根の切り干しを使った長崎名物とあります。長崎には生大根が少なく、尾州から下つた切り干しをいろいろな料理に使っていたのでしょう。干して日もちがよくなり、軽くもなった大根が、尾州から長崎まで運ばれたという流通機構をうかがい知ることができます。

■ 四季使える干し菜もお客には「春うち」に
 干し莱も野菜の乾物として忘れてはならないものです。大根葉やかぶの葉などを干し莱にします。江戸時代には、干し菜を炊き込み飯や雑炊の具、みそ汁の実、煮物などに使っていました。
 『料理伊呂波庖丁』には、干し菜の作り方について「冬大根の葉ずいぷん和(やわ)らかきところを陰干しにして置(おき)」とあります。また『名飯部類』の「乾莱飯(ほしなめし)」の条には、干し菜とは「諸菜冬時採(しょなふゆとり)おき(いろいろな菜を冬に収穫して)日(ほ)乾(し)蓄(たくわえ)るもの」とあり、「乾莱ざ(ぞ)うすい」の条には「青蕪(かぶら)菜(だい)こんの茎葉(くくは)日乾(ほ)したるを」とあります。
 『年中番莱録(ねんちゆうばんさいろく)嘉永一年(1849)刊には、干し菜を煮物に使う例として「油揚げに鮎(あゆ)なと取合せに(煮)しめる すこし汁あるもよし 油をすこしいれて汁なきや(よ)うににしめ向(むこう)へつけてもよし(お向として使ってもよい)」とあります。さらに干し莱を使う時期は「四季とも(四李を通して)つかふ(う)べし
 御客用にはまづ(ず)春うちばかり(春の間だけ)と心得てよし」としています。春とは立春を過ぎたころを指します。干し菜は本来端境期の食べ物ですから、お客にはその時期に使うのはよい、とつけ加えているのでしょう。
 乾物としてはこのほか、里芋の葉柄を干した干しずいきや、ゆうがおの果実を細長くむいて干したかんぴょう、ぜんまいやわらぴなども多く使われていたようです。
 冷蔵庫の普及した現在では、あえて乾物を使わずともすむようにも思えますが、生のものとは違った乾物のおいしさを味わってみるのもいいものです。空気がカラカラにかわく冬には、自家製の乾物を作ってみてはいかがでしょうか。

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●  第12回 豆腐

 豆腐は江戸時代の人々にもたいへん親しまれた食べ物でした。江戸後期、天明年間(1781〜1789)になって初めて素材別の料理の本が刊行されました。その最初のものが豆腐料理の本でした。
 『豆腐百珍』は天明二年(1782)に刊行され、当時のベストセラーになったといいます。続いて『豆腐百珍続編』天明三年(1783)刊、『豆華集』天明八年(1788)刊と豆腐の本が次々と出たのですからその人気のほどがうかがぇます。それらの本を中心にいくつかの料理をとり上げてみます。

■ デザートにぴったりの「玲瓏(こおり)とうふ」
 『豆腐百珍』に豆腐をかんてんでかためた「玲瓏とうふ」という料理が出てきます。原文はたったの二行で「干凝莱(かんてん)を煮ねき其(その)湯にて豆腐を烹(たき)しめさましてつかふ(う) 調味このみ随(しだい)ひ」というだけで、たいへん不親切な説明です。材料はかんてんと水と豆腐、調味は好みしだいということで、作り手しだいでどんな仕上がりでもよいことになります。涼やかなかんてん液でかためられた氷中豆腐のような風情が思い浮かぴます。
 何度も試作し、豆腐とかんてん濃度の徽妙な歯ざわりの調和を見つけ出しました。初めは豆腐はもめん豆腐を使っていたのですが、恩師の上田フサ先生(女子栄養大学名誉教授)の「絹ごしのほうがテクスチヤー(口当たり)が合うのでは?」のアドバイスで、絹ごし豆腐のほうがかんてん液との調和がよいことに気づきました。かんてん液の濃度は、かんてんの質によっても異なりますが、およそかんてん半本に水二カップ半というところです。
 また、かんてん液の中で豆腐を煮るのは扱いにくいので、流し缶に適当な大きさに切った豆腐を並べ、煮とかしたかんてん液を流し、冷やしかためました。
 さて、どんな味で食べたらよいかを考えた結果、ところてんが思い浮かぴ、酢じょうゆと練りがらしということで試食しました。冷たくして出すと献立の中の立派な一品になりました。
 またあるとき、試食したかたから「黒みつではどうですか」という思いがけないヒントをいただいて、ついにデザート用の「玲瓏とうふ」ができ上がりました。アメリカでは豆腐をジャムで食べることやチーズケーキの材料に混ぜて使ってもいるので、というのが黒みつの発想の起点だったようです。
 暑い日だけでなく、寒い日のなべを囲んだあとのデザートとしても喜ばれます。

■ 四角い豆腐を丸くする「霞(あられ)とうふ」
 四角い豆腐を丸くするといっても、豆腐をすってふきんに包んで丸く形作るのではありません。豆腐を四角に切ってざるに入れ、振り動かして丸く仕上げるのです。
 『豆腐百珍』に「よく水をおししぼり小骰(こさい)(小さいさいの目)に切り笊籠(いかき)(竹のざる)にて振りまは(わ)し角(かど)とりて油にてさっと煤(あげ)る也(なり) 調味好ミ(み)しだひ(い)」とあります。
 やわらかすぎる豆腐は形がこわれますから、もめん豆腐をふきんに包んで、少しの間まな板で押します。これをさいの目に切り、ざるで丸くするのですが、竹のざるでは目がすぐに詰まって先に進みませんでした。柄のついた金属のざるのいわゆる万能こし器が手早くきれいにできます。これを天ぷらよりやや高い温度の油に入れ、一気に揚げ、敷いうちに塩をパッとふります。ビールのおつまみに好評でした。塩をふらなければ、みそ汁の具にもなります。
 『料理早指南』初編享和元年(1801)刊の「すまし吸物の部」にも「あられ豆腐」の名があります。ここでは豆腐は揚げず「ざるに入(いれ)てふれば角へりて丸くなる」とだけ書いてありますので、そのまま丸い豆腐が吸い物の種となったのでしょう。
 「霞とうふ」は精進の吸い物にも使われていたようで、『卓袱( しっぱく)会席趣向帳』明和八年(1771)刊には、秋の吸い物の部で「初たけ」とのとり合わせで使われています。
 「霞とうふ」と同名でも、かならずしも丸い豆腐ではない場合もあります。時代とともに料理そのものは変化していくのに、料理名はそのままという例はいくらでもあります。たとえば、『料理珍味集』巻(まき)之二宝暦十四年(1764)刊の「霞豆腐」は「豆腐大ざい(大きいさいの目)に切(きり) 葛あらく砕き とぅふにつけて油にて揚(あげ)る」とあり、四角い豆腐にあらく砕いたくずをあられのようにつけたものです。
 これとは逆に、料理は同一でも、料理の呼び名が変わっていく場合もあります。

■ 「玉子ふわふわ」と「ふハ(わ)ふハ豆腐」
 『料理物語』寛永二十年(1643)刊には「玉子ふわふわ」という、卵をだしでのばして蒸し煮にする料理が出てきますが、豆腐をすって卵とよくすり混ぜて煮る料理は「ふハ(わ)ふハ豆腐」といいます。
 これは『豆腐百珍』にあり、次のように記されています。「鶏卵(たまご)ととうふ等分にまぜ よくすり合(あわ)セ ふハふハ烹(に)にする也 胡椒(こしょう)の末(こ)(粉末)ふる ○鶏卵のふハふハと風味かわることなし 倹約を行(おこな)ふ人 専(もっぱ)ら用ゆべし」
 この料理は「玉子ふわふわ」の代用、つまり卵の増量として豆腐が使われたもので、「倹約を行ふ(おこなう)人 専(もっぱ)ら用ゆべし」とあるので、当時、卵は高かったことがうかがえます。
 作って試食してみますと、卵と豆腐がなじんだ淡泊な味で、ふわふわな口当たりと、その中でピリリときいたこしょうが全体を引きしめています。
 試作の方法は、吸い物加減に味つけしただし汁を煮立たせ、鶏卵と豆腐を同量程度すり合わせたものを流し込み、ふたをして一分ほどで火を止めました。
 「倹約を行ふ人専ら用ゆべし」とありますが、現代では「健康を気づかう人専ら用うべし」ではないでしょうか。
 この料理は江戸時代の献立記録にもあり、
 たとえば、壬生(みぶ)藩(現栃木県内)の藩主の食事記録−文化二年(1805)七月の約一か月分(二十九日間)−の中にあります。「夕御膳(ごぜん)」の献立の一品で、「お向(むこう) ふわふわ豆腐 もみのり 御汁 冬瓜(とうがん) 御香物 白瓜(しろうり)当座漬 御飯」となっており、その八日後にも供されていますから、比較的ポピュラーな料理だったのでしょうか。
 ちなみに、藩主の一か月の献立のお莱(さい)でいちばん多かったのが豆腐料理で、なんと二十八回も登場。ほとんど毎日、朝昼夕のいずれかには供されていたことになります。このうち汁の実に使われたのはたったの三回しかありません。三〜四日に一日の割で精進の日がありましたが、その日の主莱は豆腐でした。重要なたんばく源であったわけです。

■ 豆腐と餅の出会い「合歓(ごうかん)とうふ」
 豆腐と餅の組み合わせは意外性があって驚きましたが、餅の重さと淡泊な豆腐は、食べてみて初めてその相性がわかり蓋した。
 この料理は、豆腐と餅を同じ大きさに切り、ゆでて重ねて茶わんに盛ります。くずあんをかけ、搾りしようがを落とし、花ガツオをかける、というものです。しようがの汁の香りと辛味で全体が引きしまります。食べ味としては、豆腐と餅が同じ厚さよりも、豆腐のほうを厚〈するほうがよいようです。つい食べすぎて胃がもたれるという心配もなく、栄養的にもよくなることはうれしいことです。
 最近は豆腐は植物性たんばく源という点ばかりではなく、ローエネルギー食品としても注目されるようになり、欧米でも消費が増えているといいます。また、豆腐の大豆たんばくと魚の組み合わせはより栄養価を高めますので、その点からも日本食が見直され、欧米からも注目されているわけです。
 江戸時代の料理書に記されている豆腐料理には、遊び心が過ぎて実用的ではないものがありますが、私たちの食生活を豊かにするために役立つものが、ご紹介した以外にもまだまだあります。単調になりがちな豆腐料理、手を変えて、もつと食卓にのせたいものです。

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●  第13回 海藻 ニュー

■ 多彩な海藻を利用していた江戸初潮
 古くから日本人は海藻をよく食べてきました。乾燥という手段で長く保存することができますので、かつては飢饉に備えて蓄えられてもいました.乾操品はいつでも手軽にもどして使える利便さもさることながら、軽くなることによって輸送が便利になることにも大きな意味があります。その普、北海道のこんぶが沖縄へと運ばれたことにより、こんぶ料理が沖縄の人々の体を養う重要な食べ物になったことなどはそのよい例です。
 海藻は江戸時代の料理書にも数多くとり上げられでいます。特に江戸時代の初めごろに利用されていた海藻の種類は、現代よりもはるかに多かったようです。
 江戸時代前期の寛永二十年(1643)に刊行された『料理物語』の「磯革之部」を見ると、種類がとても豊かです。「昆布(こんぶ) 若和布(わかめ) 荒和布(あらめ) さがらめ 青苔(あおのり) もづこ(もずく) 搗和布(かじめ) とさか 甘苔(あまのり)(あさくさのりの席料) 十六嶋(うっぷるい)(島根県十六嶋付近でとる岩のり) かたのり みる 於期(おご) しやうが(しょうが) のひぼ のろのり ふじのり 海鹿(ひじき) ほんだわら ところてん(てんぐさ) 能登(のと)のり 浜松(はままつ) め耳(みみ)(わかめの根) 日光のり」など二十種以上にのぼっています(海藻は地域によって名称が異なりますので、これらの中にはなにかよくわからないものもあります)。これほどの種類は現代の料理書には見つけることはできません。それどころか、幕末の嘉永二年(1849)刊の『年中番菜録(ねんちゅうばんさいろく)』にさえ五種類の海藻しかとり扱われていません。ということは、江戸時代の終わりには、一般に流通している海藻の種類が少なくなっていたと見ていいのかもしれません。
 ここでは、現在もっとも利用されているわかめとひじきをとり上げてみました。

■ 客料理の素材として珍重された生わかめ
 わかめについてはまず、江戸時代前期の『江戸料理集』延宝二年(1674)刊を見てみましょう。これには「わかめ(干しわかめ)」と「なまわかめ」とに項目を分けて記載してあります。
 「わかめ」でとり上げている料理には「本汁 ひたし物 水あへ(え)」があります。「本汁」とは本膳料理の本膳の汁のことで、みそ仕立てです。「水あへ」は時代によって内容が変わるのですが、大まかにいうと煎酒(いりざけ)(日本酒に梅干しと削りガツオを入れて煮つめたもの)に酢や塩を補って魚や鳥肉、野菜などをあえたものです。
 一方「なまわかめ」の項には、適する料理として「本二三ノ汁 吸物 ひたし物」をあげてあります。「本二三ノ汁」の本は先と同じく本謄、二三は二の膳、三の謄を意味します。本汁はみそ仕立て、二の汁はすまし仕立てになるのが普通の様式です。三の汁は他の献立状況によって異なりますが、すまし仕立てが多いようです。
 さらに生わかめの料理として「吸物」をあげているのはおもしろいことです。「吸物」はすまし仕立てには違いないのですが、お酒をくみかわす合間に出される汁で、ごはんのおかずではありません。当然塩けのうすい汁でしょうし、見て景色のよいことも要求されるでしょう。また一口吸って風味がよく、お酒がさらに進むようなものでなくてはなりません。
 「なまわかめ」の項には、生わかめの切り方を「四半 大さくさく」と指示しています。「四半」とはすじをとったわかめをきちんと四角に切ることですが、別の箇所にわざわざ図入りで、幅一寸(約三センチ)、長さ二寸と記すほどの念の入れ方です。「大さくさく」とは「巾(はば)五分(ぶ)(約一・五センチ)計(ばかり)にさくさくと切る」ことと注釈がついています。生わかめの利用時期については「十二より正迄(旧暦十二月〜同正月まで)」と限定しています。早春のわかめはやわらかく、特にこの時期の磯の香りを賞(め)でたのでしょう。
 干しわかめと生わかめの利用法について、次のようにはっきりと差をつけているのも興味深いことです。干しわかめは「賞くわん(賞翫しょうがん)にも少(すこし)は用へ(もちゆるべ)きか(珍重なものだと賞味するような使い方を少しはしてもいいだろうか)」とありますが、生わかめは「貧くわん也(なり)(賞でながら味わうものである)」といいきっています。
 さて江戸時代後期になると、わかめはどんなふうに利用されるようになるのでしょうか。『年中番莱録』を見てみましょう。この本は日常のありふれた料理のみをとり上げ、献立にちょっと困ったときに頼りにしてほしいと願って書かれたお総菜集です。海藻は「四季通用之部」に入っていて「わかめ ひじき 和布(めい) 荒和布 こんぶ」が紹介されています。
 わかめの利用法には「汁 吸口からし上品」とあります。わかめの汁には、からしの吸い口がぴりっとした辛さで磯の香りとよく合うのでしょう。煮物にするときは「取合(とりあわせ)のものにより御客に出してよし」とあります。とり合わせ例は書いてはありませんが、出姑めのころの竹の子やふきのようなものがいいでしょうか。また、さっぱりした酢じょうゆ味のわかめ料理もあります。ひなびた味わいの「干(ほし)大根きざみ」とのとり合わせなのですが、作ってみると歯ざわりのよいなかなかしゃれた料理です。初夏には新しょうがをせん切りにして混ぜるといっそうさわやかな一品になります。

■ さまざまな種類があるひじきの煮物
 ひじきの調理法は大まかにいえば煮物やあえ物なのですが、江戸時代には煮物は現代よりも細かに分類されていて、料理名にも調理法にも微妙な差があります。
 『江戸料理集』では、干しひじきの煮物として「にしめ に物(もの)」が、生ひじきには「にしめ肴(ざかな) 小に物(もの)」の例があります。「にしめ」は煮汁のないように煮上げたもので、「に物」は汁を残した煮方と見ていいでしょう。生ひじきの「にしめ肴 小に物」はどちらも酒の肴になる煮物です。お客をもてなすことを意識して生を使っているところはわかめの場合と同じです。磯の香りを味わうには生のほうが優るということでしょう。「小に物」は、材料を大切りにして用いる大(おお)煮物に対する料理名で、材料を中切りくらいにした煮物です。ちなみに、細かに切って煮るものは細(こまか)煮物と呼んでいます。
 同書にはまた、ひじきは「にあへ(え)」にもするとあります。これはいくつかの材料を細かに切って別々に火を通し、合わせたものですが、「時の青き物を専(もっぱ)らと(かならず)用ゆるを煮あえと云うなり 青物いれさ(ざ)れは(ば)こまかに物也」とあります。青き物とは普通には野菜のことですが、ここではひじきも含めているようです。そして青き物ととり合わせる材料に「あわぴ みるくい(ミル貝) 赤貝 まて(マテ貝)たいらぎ たこ」などの魚介顆をあげています。これらをそれぞれ煎酒をたっぷり使っていりつけて合わせ、供するときに塩加減を調(ととの)え、酒を差してもういちど温めて出すようです。ひじきや季節の青物を魚介顆と組み合わせて煮なますのようにしたこの料理は、現代でも応用できそうです。
 『年中番菜録』には、ひじきは油揚げやこんにゃくなどととり合わせて煮しめてよし、あるいは油を少し入れて煮しめてよしとあり、現代にも受け継がれているひじき料理が紹介されています。さらに白あえにもよしとあります。当時の白あえの衣は、白ごまをよくすり、白みそと豆腐を加えてすり混ぜたものですが、この衣でうすく味つけしたひじきをあえます。栄養的なとり合わせのじつによい料理です。

 海藻はエネルギーがほとんどないため、現代ではダイエット食品として注目されていますが、海藻の持つよさはそれだけではありません。現代の日本人の食生活の中で唯一不足している栄養素はカルシウムですが、海藻頬はカルシウム源としても見直されています。そのほか各種の無機質、食物繊維、ビタミン頼も豊富に含まれ、微量元素の存在も期待できる食品です。私たちの食卓にもっともっとじょうずにとり入れたいものです。

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