私の声が聞こえますか

#6(阪神大震災と私の母)

れん理英子


 あの阪神大震災をネタにして了っては、いけないだろーか? 親兄弟だけでは飽き足らず、育った街まで売り飛ばそうとする、れんさんである。


 そう、事の発端は昨年11月、法事で西宮に帰省した時だ。母が一人暮らししているはずの実家には[*1]、なんでこんなにモノがあるんだぁ?ってくらいに、あらゆる部屋に所狭しと溢れ返っていたのだ。しかも、ただ床に溢れてるだけでなく、うずたかく積み上げられている。居間の中の渓谷に、かろうじて母の布団が敷かれてあった。

 想い起こせば若い頃から、彼女は掃除が苦手であった。家族はそんな状況に慣れ切っていて、特に不満は無かった。ただ、よその家に行くと、いつもきれいに片付いているのが不思議だった。なぜなら、専業主婦だった彼女は、毎日朝から晩まで忙しく働いていて、それでも、なお、家の中は、あーゆー状態だったのだ。

 そして、父が他界し、働きに出るようになって、更に拍車がかかったようだ。数年振りに帰省した私は、一歩家の中に入って、いきなり目眩がした。皆さんご存知の、いつもゴミに埋もれて暮らしている、この私がっ、である。そして、台所を片付け始めた。訪ねて来た友人が思わず掃除を始めて了うよーな部屋に住んでる、この私が。地震発生を二ヶ月後に控えたそこは、もう、既に、瓦礫の山だった。後生大事に置いてある、スーパーのお惣菜パック、ペットボトル、酒の空きビン、いつのモノだか判らない薬や化粧品、6袋分くらい捨ててやった。

「未練がましく中身を調べるよーなマネは、するんじゃないよっ」

と、言い置いて。

 これでかろうじて食事のスペースが空いた。もう疲れ果てて、何に使うんだか判らない料理本の山や、一人暮らしでどーしてこんなにっ! と、思うよーな、大型冷蔵庫2台にぎっしりと詰め込まれた食料品には、手を付けられなかったのが残念だった。

「ここは関西だからいいよーなものの、関東や東北でこんなとこに住んでちゃあ、確実に地震で死んじゃうんだからねっ!」

と、捨て台詞を残して帰った私だったのだが。


 最近よく言われる事だが、関西人は地震に対するトレーニングが出来ていない。小学校で火災訓練はやったが、地震に関しては何もやった記憶が無い。震度3の地震があっただけで、もー、精神的パニックに陥るような土地柄だった。大学出て東京で働いてた友人は、

「東京は地震があるからいやや」

と言って神戸に戻って了った。

 しかし、母は子供の頃、福井地震に遭ってたらしい。グラッと来た瞬間、目が醒めると同時に、50年近く前の地震が走馬燈のように甦り、台所のテーブルの下に潜り込んだ。回りが真っ暗になって、机ごと埋まったが、隣の奥さんの、

「れんさーん、生きてるなら出ておいでーぇ」

の声に、瓦礫をかき分けて外に出た。火事場のバカ力だったと、後に語っている。布団の上には屋根瓦が振り積もっていた。

 取り合えず仕事があったので、通帳、印鑑、中島みゆきと徳永英明のCDを持ち出して、勤め先の関西学院大学に行った。各方面に電話連絡をして後、昼に切り上げて(何しに行ったんだか)、以前受付のパートをしていた公民館に避難、別の所に避難している館長に替わって、館長代行をやりながら、自らも避難生活を送る。

 翌日も一応、ちらりと関学に顔を出す。一緒に事務やってる同僚が、2日間連絡が無いらしい。関学の事務局に尋ねても、怪訝に思ってはいるようだが、動いてくれない。何だか不安だったので、バイクで、彼の家のある方に甲山を登って行った。間もなく、"土砂崩れの為、通行禁止"の立て札があったが、

「"通行禁止"ゆうたかて、ここで止まったら、わかれへんやんけぇ」

と、無視してバイクを走らせた。家まで来ると、すっかり土砂崩れで[*2]、何とか現場で息子らしき人を見つけた。何でも、その同僚を始め、奥さん、お母さん、次男と、住んでた人は全滅で、幸い家を出てた22歳の長男[*3]だけが残ったらしい。彼女はその長男の住所を聞いて、関学に連絡した。

「ほんま、××さん(亡くなった同僚)もゆうてたけど、ここ(関学)は冷たいわあ」と、怒ってた。しかし、関学も、教授がたくさん死んで大変らしい。

 その後一週間は、関学を休んで、避難所となった公民館の管理に明け暮れた。そこは、他の避難所に比べれば遥かに住みごこちが良く恵まれてるのだが、それでも管理は大変なようだ。電話に出た弟下[*4]がいうには、同じ被災者でふつーのオバサンである母に対して、手に余るような苦情を言って来る人が時々いて、

「ほんまに、自分がいちばん不幸やと思とる人間が、世の中には、いてるんやっ!」

と、怒り狂っていた。母に替わってもらったら、

「いやあ、もー、大変やわぁ。仕事やから、しゃーないなあ」

と、打って変わって元気だった。

 後に、人が入れ替わる時に、小学校に避難していた隣の家族に来て貰って、大分楽になったようだ。いわゆるひとつの職権乱用であるが、許してやって欲しい。

 10日後に私が訪ねた時は、後片付けが大変そうだった。住める家も、もう住めない家も、とにかく家具や荷物をどーにかしなくてはならない。母も仕事の合間に片付けに行ってる。私も手伝ったが、彼女の掃除能力の無さに就いては、もう、何も、言うまい。この期に及んでも、つまらないモノを取っておくクセは直らないのだから、きっと一生治らないのだろう。

 回りの家は、皆大体築30年くらいの、外見は似たような建物だったはずだ。しかし、ペチャンコになってる家もあれば、かろうじて建ってる家もある。うちの大家さんの管轄の家は、皆かろうじて建っていた。どちらにしても、復旧出来る状態ではなく、取り壊さねばならないのだが[*5]、有事の瞬間の人命には、大いにかかわる問題だ。何が違ってたのだろーか?

「『しっかりと建ってたおかげで、命拾いしましたわ』と、大家さんを褒めてやったんよ」

と母。いったい何様なんだろーか。

「それと、あれ」

と、指差す方向に、比較的新しそうな家。

「ツーバイフォー言うんやて。あれが建つときは、近所の人達みんな、『あんなオモチャみたいな建て方して。あんな家、大丈夫なんかなあ』と、言ってたんよ。それが、ほれ、あの通り。大したモンやなあ」

 瓦礫の山で燦然と輝く無傷のツーバイフォー。築年数が浅いとは言え、驚きである。

「ツーバイフォー、侮り難し」

 近所のおばさん達は思い知らされたようだ。

 現在彼女は、昼間は関学で働いて、夜は公民館の夜間受付、と言った、効率の良い避難生活を送っている。なにせ同僚は死んじゃったわ、入試は始まるわで、あまり関学も休んでられないらしい。


 しかし、うちの母もだが、人間いざとなればいくらでもパワーが出て来るもんだなあ(命と体力があればね。弱ってるお年寄りは本当に気の毒だ)。神戸、西宮は私の大好きな街だったので、家が壊れた事より、街が無くなった事の方がショックだった。定年退職したら、仙台か神戸(or西宮)に住みたいと思っていたのだ[*6]。でも、この調子なら、私の定年を待たずに復興する事だろう。


 "あの日"の晩に、やっと通じた電話での、母の言葉は忘れられない。

「おとなりの××さんちなんて、いっつも、すっごく片付いてたのに、今は、もー、うちとおんなじにメチャメチャやわあ。掃除なんてしてもしゃあない」

「電気来てるから、家壊れても、冷蔵庫は生きてるの。おなか空くと、食べ物を取りに帰れるんよぉ[*7]。食料溜めといてよかったやろ」

 もー、なんにも言う事はありません。


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【著者注】*1 うちの家族は、母、私、弟上下の、4人全員一人暮らしなのだ。
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【著者注】*2 ここは何度もテレビに映された。
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【著者注】*3 私が関学に母を訪ねた時、ちょうど彼が来た。遺体確認の話になり、「母と祖母は確認出来たけど、父と弟の区別がつかず、血液鑑定で確認した」との事。母は、彼と話して泣いてるうちに、定時になると、やりかけの仕事をほっぽらかして帰宅した。
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【著者注】*4 昨年4月まで芦屋の中学校で働いてた彼は、今は兵庫県北部の、ど田舎に赴任して難を逃れた。しかし、以前勤めてた芦屋の方では、かなりの被害があり、生徒も死んだりしたそうで、土日は手伝いに行ってるようだ。
 話は変わるが、彼は、これまで兄とトランシーバーのノリで楽しんでた移動電話IDOを、母にも買ってやった。元々、十分に安価で売ってた所、「被災地の母に持たせる」と言えば、「そんな人から儲ける訳にはいきまへん」と、さらに一万円引いてくれたらしい。さすがに、関西で生まれ27年間、ずっと関西人やって来ただけの事はある。
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【著者注】*5 市役所では『全壊』と認定された。
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【著者注】*6 唯一私は神戸の強い日差しは苦手で、仙台は日差しが弱くていいなあ、と思っていた。でも、神戸人の多くは「夏が好き!」と断言してはばからない。
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【著者注】*7 ちょっと前に私が送ってやった酒も冷蔵庫で生きてるようで、片付けにきては、瓦礫の中でイッパイやって帰るらしい。
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