私の声が聞こえますか

#4(生い立ちの記その1〜私が生まれるまで)

れん理英子


 実は「霧笛の原稿を書く」ってのは、始めてなんですよ。何を隠そう、今までは、私信を適当に編集して貰っていつの間にか原稿になっていたのだ。ま、私も一度くらいは苦労をしてみても良いだろう。

 で、何を思ったのか、「生い立ちの記」なんてものを書いて了います。いちサラリーマンの「生い立ちの記」の、いったい何が面白いんだぁ? と、思わなくもないが、いずれ私が恐怖の大王と結婚して(*1)地球を征服した時、プレミアがつくでしょう。


 で、あれは確か遡る事六十余年、昭和5年の晩冬だった。山代温泉のとある羊羹屋に次男が生まれた。跡取りとして大切にされた長男とはまた別に、6人姉弟の末っ子として母親や姉達に愛され、経済的にも豊かに育った。いわゆるボンボンである。

 そして、小学校に上がったばかりのある日の事。新一年生だった彼は、同級生の旅館の息子と共に、母親に伴われて、街に来た軍人のエライさんの前に連れて来られた。その時、「君達は大人になったら何になりたいのかい?」とのエライさんの問に、旅館の息子は、「僕は陸軍大将になって、お国のために働きます」と、答えた。「君は?」と聞かれて羊羹屋の息子の彼は、「オレはでっけぇまんじゅうを作るんだっ」と、答えた。付き添ってた母親の心中は、察するに余りある。

時は流れて昭和12年春、金沢市の軍人の家庭に女児が生まれた。4人兄妹の末っ子として、両親や歳の離れた兄姉達から愛されて育った。小学校に上がって間もなく日本は敗戦国となり、父親は捕虜としてシベリヤに抑留されて、家は貧乏になった。しかし誇りを失わない母親の教育は厳しく、服装だけはいつも"えーとこの子"のようだった。いわゆる『心は公女様』だったのだ。

 当時、甘味に飢えた子供達は、進駐軍を見つけると無邪気に「キブ・ミー・チョコレート!」と、走って行った。しかし母親の厳しい教育を受けた彼女は、いつも離れた所から進駐軍兵士を睨みつけていた。この『小公女』が後に、カラオケ歌いまくって朝帰りしたり、徳永英明やHOUND・DOGのライブで拳振り上げたり、あまつさえパソコン通信にまで手を付けるようなオバサンにになって了う事を知れば、母親の嘆きはいかばかりだろう。教育がいかに虚しい物であるかが判る。

 そんなこんなである日、7歳上の次姉(*2)に縁談があった。この姉は女学生の頃より隣近では美人で秀才の誉れ高く、くだんの羊羹屋の長男の嫁に、との打診があったのだ。しかし母親は、いくら裕福でも商家の跡取り息子の嫁になるのは御苦労な事だろう、と考え、「家格が違い過ぎる(*3)ので遠慮させて下さい」と断った。家族の中で唯一人の子供であった彼女は、そんな姉達のロマンスや縁談を、とっても興味をもちながらも知らない振りして過ごした。

 そんな彼女も高校生となり、ふつーの県立高校でのびのびと青春を謳歌していた。が、ある日頭の痛い事が持ち上がった。生徒会の副会長になって欲しいと言われ、断りきれずに困っていた。苦悩の末、全校生徒を前にした立候補演説で、前代未聞の「立候補を辞退致します演説」をやってのけ(*4)、後々の語り草になって了った。

 そして高校卒業を迎えるのであるが、家族で唯一人、男女共学の戦後教育(*5)を受けて来た彼女は、大学進学を切望した。しかし父はシベリヤに抑留されたままで家は貧乏が続いており、「うちが苦しい時に女の子を無理して大学にやる必要はない」と言うのが母親の考えであった。事実大学を出して貰ったのは兄だけで、長姉は高校しか出ておらず、秀才の次姉も専門学校にいかせて貰っただけである。とても進学させて貰える状況ではなく、止むなく断念した。しかしこれが生涯の痛恨事となり、二十数年後、さして勉強の好きでない娘を大学院までやって了う事となる。未果てぬ夢を我が子に託すのは多くの人が犯す過ちであるが、それがいかに虚しい事であるかがよく判る。

 そして短大を卒業し、家事手伝いの日々を送っていた(*6)ある日、数年前に姉の縁談を断ったくだんの羊羹屋より、再び話があった。彼女を次男の嫁に、と言うのである。美人で秀才だった女性の妹であるから、そこそこ綺麗で頭も悪くはなかろう、と思ったらしい。お気の毒ではあるが、しかしまあ、彼の方も贅沢の言えたタマではない。現在は東京の薬品流通会社(具体的に何をしてるかは、謎だ)に勤めているものの、かつて姉婿と共に薬品会社を設立して潰したのどうのと、妖しい経歴(*7)があるらしい。

 しかし、彼女の母は明治の人である。一度断ったにも拘らず、再び話を持って来てくれた事にいたく感激した。それに、まあ、今度の話は気楽な身分の次男坊でもある。悩んだ末に本人に打診した所、「会ってみてもいーわよ」との事。21歳の彼女にとっては単なる好奇心である。

 会った印象は「まあ、悪くないわね」と言った所だ。東京に住めるのも魅力的ではある。しかし、数日後、いきなり先方から「結納はいつにしましょうか?」との問い合わせにはぶったまげた。結婚するか否かも決めていない。「このままじゃあ決められないから、先方に会って来るわっ」などと箱入り娘とも思えない事を言い出して今度は母親と兄をぶったまげさせておいて、自分は単身東京に出かけて行った。さすがに男女共学で育った娘である。

 彼は彼女をスケート・ショーに連れて行った。その素晴らしさにすっかり感動して了った彼女は、結婚を決意した。この少々頭の弱い公女様には、「素晴らしいのは"スケート・ショー"であって"彼"ではない」と言った単純な事柄が判断出来なかったようだ。

 そうして二人は結婚した。裕福で古い商家の末息子と、氏族で軍人の厳しい家庭の末娘が、結婚して庶民のサラリーマンとその妻として、西荻窪の民家の二階に間借りして暮らし始める。しかし、引き替えに自由を手に入れた彼らは、思いっ切りぶっつんして了った。「鯛やヒラメの舞踊りー」な人生を送って行くのだ。もう誰も止められない。驚いた彼女の親兄姉は、「結婚してから明るくなったね」と言うのがやっとである。

 翌年の桃の節句、雛のような女の子が生まれる。夫婦はこの娘に大きな望みを掛け、親からは大きな久月の段飾りの雛人形を買って貰った(*8)。「理知と英知に満ち溢れた子」になるよう、「理英子」と名付けた。当然の結果だが、二年足らずで彼等の望みは打ち砕かれる。あまりに毎真夜中に大騒ぎする赤ん坊だったので、近所のヒンシュクを買って部屋を出て行かねばならなくなる(*9)。その後生まれた二人の男の子には、いずれも他の人に名付親を依頼している。「子供に期待を持ってはいけない」と言う事実を早期に親に教えてあげた、との意味で彼女は賢明な娘だと言える。


これが私の「生い立ちの記」です。(どこがだ?)


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【著者注】*1 れんさんは今世紀中に結婚する気でいるようだ」との噂にとーるさんが「きっと恐怖の大王と結婚するのだろう」とか言ったとか言わなかったとか……。
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【著者注】*2 後に「うる星やつら」や「クリーミー・マミ」等のキャラクター・デザインを担当した高田明美氏を産む。
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【著者注】*3 無論、「うちは貧乏だからお宅と釣り会わない」と言う意味であるが、内心「うちは氏族だが向こうは商人だ」と言った気持ちもあったのではないか、と、後に彼女の孫娘は勝手に推測している。
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【著者注】*4 SF研にも似たような経歴を持つ人がいたような……。
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【著者注】*5 彼女が小学校2年生の時共学となった。毎朝友人と組んでは男子同級生たちの家の前に行き、「××くーん、いっしょに学校にいきましょーぅ。男女同権よーぉ」と叫んでは、男の子達を恥ずかしがらせて遊んでたらしい。とんだ公女様だ。
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【著者注】*6 貧乏で大学にも行けなかったのに、何故暢気に家事手伝いなんてしてるのだろーか? 昔の人は謎が多い。
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【著者注】*7 この妖しい経歴は、後に彼等の末息子に遺伝する。18歳で高校を出てから25歳で兵庫県の中学校の教員になるまでの7年間、彼がどんな学校に通い、あるいはどんな仕事をして来たのか、家族の者も知らない。なんでも、昼間は寝てたり友人が来てたりで、夜になって妖しげな電話があると、「仕事だ」と言って出て行ったらしい。
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【著者注】*8 「この雛人形が、夏が来る前に片付けられたのを見た事がない」と、後に独身のまま33歳になった娘は回想している。
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【著者注】*9 誰だ? 「栴壇は双葉より芳し」なんて言ってる奴は。
 その後生まれた男の子達はこの娘より遥かに素直で大人しく、「"女の子の方が大人しくて育て易い"なんて一般論は絶対嘘だわっ」と、後に彼女は断言している。
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