タイトルのない夏
Trinity
両谷承

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十六


 自動販売機に硬貨を十一枚放り込んで、シンジはコカ・コーラを買った。呑み口を開けて、一息で三分の一ほどを飲み下す。環状八号線沿いを、道端に停めてあるロードスターのところまでゆっくりと歩いた。

 ここ十日ほどで何度となくにわか雨を浴びせられたにも関わらず、洗っても貰えなければチェーンオイルも潤滑油も注して貰っていないロードスターは、やっぱり不満そうだ。とは云えシンジだって下着以外は着たきりなのだから、おあいこである。シンジはシートにまたがって、太陽に熱せられたタンクに軽く手を当てた。長旅の後でこの年寄りバイクには酷なことをさせることになるが、これからレースをしなきゃならない。真っ直ぐ、顔を上げる。ガソリンスタンドが見える。その向こうが、第三京浜の入り口のループだ。

 コーラを口にして、腕時計を見た。もうじき、午後五時になる。傍らを流れている環状八号線はいくらか澱んでいて、渋滞の一歩手前と云ったところだ。シンジはもうここで、一時間近くキョウとアルトを待っている。

 キョウが『スラム・ティルト』を出たときに、ミキが追わなかったのが少し不思議だった。キョウが何を考えているのかもちゃんと分かっているわけではないが、ミキについてはなおさら分からない。

 キョウがミキのことが好きなのは、本当だろう。そのことについて疑う気はない。けれど、だからキョウは挑んできた、ということなのだろうか。なんとなく、疑問が残る。ミキが手に入れたいのはシンジかもしれないが、彼女はシンジを手に入れようとは思っていない。そのことがキョウには分かっていないのだろうか。そうかもしれない。そうだとしても、いくら熱に浮かされて惚けた頭にだってそんなことでミキが自分のものになるわけがないことくらいは見当がつかない筈がない。

 どちらにしても、シンジはもう勝負の申込みを受けてしまった。誰の目からしても、馬鹿げている。それでもそのことを、下らないとだけは云わせない。

 『スラム・ティルト』を出る前にカズが云った言葉を、なんとなく思い出す。きっと、シンジはキョウと勝負がしたいのだ。キョウが誰を欲しがっていようと、ミキが誰のことを好きだろうと関係はない。そう思えばすっきりするし、余計なことも入り込んでこない。いつものようにわくわくする、と云うことはないけれど、それでもシンジは体の中に少しづつアドレナリンが染み出てくるのを感じる。

 いつもと同じ。このあいだはシンジの負けだった。なら、今日は勝ってやる。コーラを飲み干して、缶を握りつぶした。

 コーラの缶を捨てに行こうと立ち上がると、クラクションが聞こえた。音だけで分かる。缶をごみ箱に放り込んで、ゆっくりと振り向いた。シンジのロードスターの向こうに、ツートーンのアルトがハザードを出して停まっている。

 キョウのアルトの後ろ姿は、いつも表情豊かだ。環状八号線をゆっくり流しているときも、必死になってシンジのロードスターから逃げ切ろうとしているときも、シンジには運転しているキョウの感情の動きがはっきりと伝わってきた。今、何か決意を抱いているようにアルトの後ろ姿は黙りこくっている。

 ロードスターに戻る。アルトの開いた窓からは何か宗教曲のようなものが聞こえてくる。シンジは顔も出さなければ、声を掛けても来ない。シンジはシートに座って、ゆっくりとヘルメットを被った。サングラスを掛け、グラブを着け、それからイグニッション・キーを差し込む。セルモーターを回すと、ロードスターのショベルヘッド・エンジンが目覚めた。まだ寝惚けているような、どうにも落ちつかないアイドリングを始める。

 キョウがまた、クラクションを鳴らした。シンジは無視して、エンジンの音を聞いている。キョウは苛ついてるのかもしれないが、知ったことじゃない。シンジは待つ。少しづつ、ハーレイの機嫌が戻ってくるのを感じる。覚悟していたようなむずかり方はしないで、いつにもまして歯切れいい排気音だ。実は、こいつがあのアルトと勝負したがっているだけかもしれない。

 跨ったまま歩道を足で蹴って、シンジはロードスターを車道に押し出す。バックミラーに目をやると、薄い茶色のサングラスを透かしてキョウがにらみつけてきた。左手を握って、シンジは親指を立ててみせる。サム・アップは返ってこない。左足をステップに乗せて、シフトペダルを踏みつけた。


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