焼津 私の育った町 私の家は市街地ではなくやや郊外にあり、漁業とはまったく無縁の生活であった。ただ、小学校から中学にかけては、
船員や魚加工を営む家にも友人もいたし、釣りも好きだったので、港の近辺にもよく出かけていた。
今から30年ほど前のことで、港周辺もまだ活気が残っていたころである。港周辺の道路は魚を積んだトラックが行き交い、冷凍庫はフ
ォークリフトで鰹を積みこむ作業に忙しかったし、魚製品の加工場や缶詰工場は魚のにおいを漂よわせて操業していた。
焼津港に注ぐ黒石川の河口は、塩の香りと加工場廃水の悪臭が混ざり、焼津が漁業の町であることを実感させる場所であった。
この川の海側には、北浜通があり、魚製品の加工場が並んでいた。そのころすでに最盛期は過ぎていたようで、廃業したり郊外へ移転し
てシャッターの閉まったままの工場も多かったのであるが、一昔前の魚の街の雰囲気が好きで時々出かけていった思い出がある。
この細い通りに沿って並ぶ家並みの海側には、明冶時代に作られたという防波堤が続いていた.ここの堤防は他のところのものと違い石積み
のものであって、その古い感じが幼いころから私の心に刻まれていた。残念なことに、近年沖の埋め立てが終わって堤防は完全に撤去されてし
まった。北浜通りも、古い工場はなく民家が並ぶだけで、そこにかつての面影はない。魚の町焼津の風景は払拭されてしまったようだ。
実はこの堤防の上からみる富士がまたみごとなものであったのだが、そのことに私が気づいたのはずいぶん後のことで、いくどと行かな
いうちに、その堤防はなくなっていた。その風景は記憶として思い出すことしかできなくなってしまったのは残念だ。せめて写真ぐらい撮って
おけばよかったと、二度とみれなくなってから後悔した。いつでも見れると思えば行動しないものである。街の姿は常に変わっていくこと
を実感し、ゆえに何でもまめに写真に残しておくべきだと思うようになったのは最近のことだ。
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