日常茶飯

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#78 
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種物はなあ…

 勝手が分からないと、肩身の狭いものである。 ときどき急に何かこう、あれが食べたいなと云うことがある。 麻婆豆腐が食べたいなァとか、ステーキだとか、鰻だったりと、急に食べたくなるのである。 で、蕎麦(そば)が食いたくなった。もり蕎麦である。

 近所に蕎麦屋がある。 その店は馴染みではない。 べつに、不味いとか店の人が悪いと云うのではない。 贔屓(ひいき)にしないのは他の理由で、これは以前に書いたから省略する。 贔屓の店はあるにはあるのだが遠いのだ。 近頃は行ってないが。

 近所のその蕎麦屋に這入ることにした。 もり蕎麦が食べたいのだから、種物(たねもの)は必要ない。 メニューを見ると写真付きで、天ぷら、山菜だとか種物が色々とある。 種は要らないが、いくら見ても、すべて種物がついている。 その他に、丼つきの定食があるだけ。 それじゃ仕方がないので、軽い種のきつね蕎麦で我慢した。

 食べているときに、向こうの席についた客が、<かけ蕎麦>と云うのを聞いた。 それじゃ、<ざる蕎麦>だってあるんだ。 後の祭りだが、きつねは案外美味かった。
'07年06月15日

水難の相

 内田百閒の「百鬼園先生幻想録」(新潮文庫、『百鬼園随筆』所収)に、こんな件(くだり)がある。 商人が船乗りに向かって、お前のおやじは何で死んだかと尋ねたら、船乗りが、 父も祖父も曾祖父もみんな海で死んだと答えた。 商人が驚いて、それでもお前は海に出るのが怖くないかと聞くと、今度は船乗りの方で、 お前のおやじや祖父(じい)さんや曾祖父(ひいじい)さんは、どこで亡くなったのかと問い返した。 そこで商人が、みんなベッドの上で死んださと答えたら、船乗りはびっくりして、 それでもお前さんは、ベッドに寝るのが怖くないかと云った。

 水難事故に限らず、場合によって水はこわいものであると思い知った。 朝一番に目が醒めて、新聞をみながらテーブルの脇を歩いていて、 うっかりコップにふれた。 昨晩の寝酒、ウヰスキーの水割りの残りで、水がたっぷりと入っていたらしいから、 最後の一杯を飲まずにその儘になって氷が溶けたものである。

 テーブルから転げ落ちたコップは、 無造作に下に置いてあった鞄のなかに落っこちた。 その見事な成り行きには恐れ入ったものである。 お陰で、鞄のなかは水浸し。 覆水盆に返らず。 あと何ミリ、ずれていたらコップにふれることはなかったし、 何事も起きなかった。 起きたとしても、口を開けた鞄がそこになかったら、無事だったのに。

 一難去ってまた一難。 その翌日に、花瓶の水をひっくり返した日には、水難の相かと思わず怪しんだ。 これは筆舌に尽くせぬ、大袈裟さである。 あしたは雨だそうで、そろそろ梅雨入りしそうである。 水にはくれぐれも注意しなきゃ。 やんぬるかな。
'07年06月13日

ラジオでも

 子どもの時分は、家のなかにはラジオは幾つかころがっていた。 カセットテープの録音機(テープレコーダ)にはラジオがついているものだった。 いわゆるラジカセ。 その頃はラジオは身近なものだった。 しかし、深夜放送を聞いたり、FM放送を録音したりしたのは、高校生のころまでである。 爾来、ラジオを聞かなくなった。 何故だろうと、思ってみるがどうもよく分からない。 いまや録音は半導体チップで間に合っているし。

 そう云うことで、長いことラジオ放送を聞いたことはないし、うちのなかから受信機が消えて久しい。 それが先日スーパーで、風呂で聞けるラジオを見つけた。 水滴防止機能つきで邪魔にならない大きさである。 FM、TVも受信できる。 メーカーは聞いたこともない名前。 それに中国製でこれが千円程度。 中国産の食品は物騒だから口にするものではない。 たかがラジオだから聞くことが出来ればいいと買ったのである。

 乾電池を入れて、電源を入れ音量のつまみを回すがウンともスンとも云わない。 おい、おい、しっかりしろよ。 で、乾電池を取り出して、もう一度入れると、ざぁざぁ鳴り出した。 つまり接触の悪い中国製に過ぎないだけ。 選局のつまみを回して合わせるのだが、何という局なのか丸で知らない。 第一、どんな番組があるのかも知らないのだ。 むかしは短波も聞いていたし、たいがいは局の周波数は覚えていたのになぁ。

 そんな過去の遺物のラジオに気が向いたのにはわけがある。 ためしに聞いていると、内容はともかく、聞きやすいのだ。 向こうで喋っている、その喋り方にはリズムがあったり、間があったり、と聞かせようとしている。 まあ、にわかラジオ聞きの云うことだから分かったもんじゃないけどネ。 兎に角、テレビと違って聞かせようとしている。 当たり前だけど。 その点、テレビは見せようとするばかりで、聞くことを邪魔することだってある。 日本人が普通に喋っているのに、字幕をつけるのは目障りに決まっている。 デジタル放送になったら、こっちのほうで字幕を消せるようになれば、少しは見直してもいい。 考えてみれば、視覚による情報の受容に偏っているのが現代である。 少しは聴覚を鍛えるのがいいかと思い付いた次第で、まずはおもしろい番組を探さなきゃ。
'07年06月11日

本のカバー

 帰りに電車を降りた駅の中にある本屋で高島俊男さんの新刊『お言葉ですが…8 同期の桜』(文春文庫)を買って、 それから少し遠回りをしてもう一軒の本屋に這入った。 近所には何軒かあるけれど、どれも小さい本屋である。 なかには明治創業の老舗はあるが、小さいから扱う本にも限りがある。 二軒目の本屋は、ちくま文庫を扱うからで、目的は、吉行淳之介の『懐かしい人たち』である。

 吉行淳之介が亡くなったのは平成6年7月26日、(いま調べたのだけど)肝臓癌、享年70。 『懐かしい人たち』の単行本がでたのは同じ年の春で、 <これまでの随筆集から抜き出したものである。 それには一つの方針があって、追悼文もしくはすでに故人となった人たちとの交友に限定してある。>
 井伏鱒二にはじまり、石川淳、森茉莉(鴎外の長女)、中野好夫、内田百閒、それから 父のエイスケに、開高健、そして向田邦子でおわる三十数名との交友録と云ったところ。 写真でみる吉行淳之介は、いつもネクタイをしていなかった。 それでいてサマになっていた。 吉行淳之介ほど服の着こなしが巧い人はいなかった、と何かで読んだ覚えがあるが、 ネクタイをしなくてサマになるのが、最も上質の服装のセンスと云うから、そうだったのだろう。

 本を買うと、本屋は紙のカバーをつけてくれる。 なかには、そのうえ袋に入れようとする店がある。 それは断っている。 袋は邪魔になるだけだし、いっしょに広告を入れるのが魂胆なのだ。 文庫本の場合、私は読んでいる間はカバーはついた儘(まま)である。 以前は、読んだ後もその儘にして本棚に乱雑に積んでいたのだが、 きょねんあたりだろうか、読んだ後はカバーを外して本棚に並べることにした。 少しは整然と並べるようになったし、おかげで本の顔である装幀もよくみるようになった。

 『懐かしい人たち』をぱらぱらと読んでいて、 「向田邦子に御馳走になった経緯」はおもしろかった。 それは吉行淳之介の人を見る感覚の鋭さであり、男女の機微である。 じつは以前に読んだはずなのだ。 それで、本棚を探すと直ぐみつかった。 『向田邦子ふたたび』と云う文庫で、3年前に買った。 矢張りカバーは外した方がよい。
'07年06月08日

梅雨前の出来事

 例年だと、梅雨前のいまごろが気候も良く過ごしやすいのだが、ことしは暑くて調子が狂って仕舞う。 夏日の日が続いているし。 ところが、日が暮れてもあたりはまだ明るい。 おもてを歩いてみると涼しくて気持ちいい。 矢張り6月だなと思うのである。

 きのう日曜の夕方、ちょっと遠くにある大型スーパーに出かけてみると、 梅酒をつけるガラス瓶がずらずらと並んでいる。 普段は何に使っているのだろう、特設売り場は御中元をあつかっていた。 人で混んでると思っていたら、それほどではない。 案外と日曜の夕方の方が混んでないのかな。 いや、レジに長蛇の列をつくっている日には、買い物する気になれないのだ。 列をみるとつい並びたくなる人もいるだろうが。

 レジの精算はバーコードを読み取るだけである。 読んだデータは、レジスターの上にあるディスプレイに商品名と値段が表示される。 コンピュータのシステム化には恐れ入ったものです。 商品に張られたバーコードをぴぃと読めば、レシートに買った物の名前と値段が印字されるのだから。 ところが完璧なシステムも間違いはあるらしい。

 うちに帰って、ふとレシートを見ると見覚えのない項目がある。 気づいたのは値段が莫迦に安いからで、19円。 えっ、天つゆの小袋を買ったことになっている。 代わりに、買った惣菜がレシートにないから、何だか知らないけれど入れ違いになったのだろう。 でも、惣菜が19円と云うことはあり得ない。 変なところで得した次第となったのは遺憾であるが。 システム化とはこわいもので、こんな間違いに気づかないのだ。
'07年06月04日

お言葉ですが…

 文藝春秋社のサイトをみると、今月の新刊文庫のリストが載っている。 高島俊男さんの『お言葉ですが…8』もある。 待ってました。 でも、これについては云っておくことがある。 「週刊文春」の連載で、一年経つと単行本になり、 それから3年後に文春文庫にはいるので、文庫で読んでいる。 ところがきょねんの夏ごろか、高島さんの連載は打ち切りになった。 理由は単行本が売れなくなったから。 雑誌はみないが、たまたまその何号か前の「週刊文春」で、高島さんが書いていたのを読んで知った。

 文春文庫も醒めたもの。 以前は<読書界「日本語ブーム」のさきがけ>とはしゃいでいたのである。 これまでは巻末に索引があった。 ところがきょねんの『お言葉ですが…7 漢字語源の筋ちがい』では、それがない。 コンピュータでつくるのだから難しい筈はないのだけれど。 で、『お言葉ですが…』の打ち切りである。 私は文庫でしか読まない。 これは高島俊男さんに限ったことではないのだ。 残念だけれど。 売れなくなったのは以前の読者が買わなくなったと云うことで、偽読者だったのか知らん。

 ここで別のことを思いついた。 だから高島さんの本が売れなくなった話題は、ここで<打ち切り>です。 いまでは本の買い手は個人とは限らない。 自治体の市民図書館がある。 これは相当売上げに影響する存在で、ベストセラーなら纏めて何冊、十何冊、それ以上と買うのが市民図書館である。 昭和と平成の違いのひとつは図書館で、以前に書いたことであるが繰り返す。 子どもの時分、図書館に寄りつこうとしなかった。 雰囲気は暗かったし、本は閉架式。 並んでいる机を受験生が占拠していた。 それが、いまでは本は開架式。直接本棚から手にとってみることが出来る。 受験生らしいのは隅っこに追い遣られているし、子ども用の図書室だってある。

 そのモデルとなったのが千葉県浦安市の図書館で、 むかしその館長が市長選に出馬して<選挙の票になった>からと、山本夏彦が書いているので知った。 図書に予算が付くようになったのである。 近所の中央図書館は羽振りはよさそうで、毎週そうとう買っている。 買うのは市民の要望を受け付けて、多いと何冊も買うらしい。
 じつは前の小泉政権が行った三位一体の改革で、多くの自治体の財政はわるくなっている(これは別のことだけれど、 ひどい話なのだ)。 よく分からないのは、これで図書館の予算が変わって出版の売上げが変わるようだと、これも変なものだな。

 ついでに、文藝春秋のPR誌「本の話」は以前は更新すると一部がサイトで読めていた。 気前よかった。 それがいつ頃からだったか、出し惜しみするようになった。 いま、高島俊男さんについて関川夏央さんが<うるさいじいさんは世にはばかる>と書いている。 あ、タイトルじゃありません。高島俊男さんは…なじいさんですなア。
'07年06月03日

スパムは困る

 以前スパム(迷惑メール)についてこんなことを書いた(と思う)。 ちかごろ(いつだったか忘れた以前)、スパムは殆ど来なくなった。 尤も、たくさん来ているのだが、プロバイダのスパムブロックサービスがフィルタ(網)に捕まっているからで プロバイダの手柄ではない。 これは来るたびにスパムの特徴をみわけて、条件を加えていった成果であって、 プロバイダが用意した条件(おまかせブロック)も効いているかも知れない。

 状況はいまも変わらない。 それは当然で、段々とスパムを判定する条件は厳しくなっているのだもの。 まず、フリーメールはだいたいが身元が怪しいからIPアドレスで拒否するのはいまでは常識だし。 そのうち本文のキーワードで拒否するようになる。

 以前はブラウザでスパムの判定や、捕まったやつを覗いたりするのに時間が掛かったのだが、 いまではなくなった。 直ぐに反応するようになった。 ご苦労なことだが、由緒正しいメールも届かないことがある。 先日もスパムと判定されたメールを確かめると、そうでないのがある。 一週間は保存されているのだが、随分前、逃したことがある。

 スパムはみたくはない。 だが、それを一々あとで確かめるのも迷惑する。 もう少しうまい仕組みを作ったらどうだろうと思うけれど。 あれっ、通信には違いないのだから、じつはその気になれば送信元はわかるのにね。 個人まで手が回らないだけである。
'07年06月01日

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