注記、初出誌・学燈社「國文学/特集・王朝文学争点ノート」2000年12月10日発行に誤植補訂。

「研究ファィル」夢と人生ー「物語学の森」の谺から

 かつて、三島由紀夫が、恩師・松尾聡校注にかかる、旧版の日本古典文学大系『浜松中納言物語』の刊行に寄せて、「夢と人生」なるエッセイを書いたのは、昭和39年(1964年)、三島39歳の時のことであった。没後三十年の今年発刊される『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)のパンフレットを眺めながら、彼がこのエッセイを書いた年齢におおよそ近づきつつある私も、三島流の夭折の美学に照らせば、残された人生の時間に、何を書き残すべきかを考えねばならないはずなのだが、申すまでもなく、私自身の人生は、“研究的生活”そのものが緒についたばかりであり、日常の些事万般に追われて、荘周の夢の如き夢想世界に彷徨っているのが実際である。しかも現在の私は、以下に記す通り、文学のみならず、文化・思想・言語へと関心が拡散して行く傾向があるので、そのいくつかをいささか強引に白楽天の「三の友=詩琴酒」になぞらえながら要略し、私の「研究ファィル」もこれらの一つに綴じ込んでいただくことにする。

◆詩へー文献学史のこと この三月、渡邊静子先生(現・大東文化大学名誉教授)の指導のもと、注釈作業を継続してきた、飛鳥井雅有の全日記作品の注釈が完結した(『大東文化大学紀要 人文科学編』27号/1990年〜38号/2000年)。とりわけ、最初に手がけた『嵯峨の通ひ路』には、雅有(29歳)が、嵯峨の小倉山荘に赴いて、藤原為家(72歳)と阿仏尼から源氏学や古典の秘伝を授かる濃密な「学び」の生活が綴られている(「幻の伝本をもとめてー伝阿仏尼等筆『源氏物語』の周辺」「物語研究会会報」28号/1997年)。なかでも、「幻の伝本」阿仏尼本探索の過程で生まれた、本文校訂の問題は、『源氏物語』諸本研究の中間報告として、「伝〈青表紙本『源氏物語』〉伝本の本文批判とその方法論的課題ー帚木巻における現行校訂本文の処置若干を例として」(「中古文学」55号/1995年05月)なる論文となった。たった一巻のみ現存する、伝阿仏尼等筆本の本文についての私の調査結果と、濱橋顕一氏の「伝阿仏尼筆帚木の本文について」『論叢源氏物語1ー本文の様相』(新典社、1999年06月)や、同書に収載される、渋谷栄一氏「定家本『源氏物語』本文の生成過程についてー明融臨模本『帚木』を中心として」において示された釈文は、いくつかの点において私と決定的な見解の相違が生じている。例えば、ミセケチ、補入等、目前にある本文の様態をどのように再建するかという作業に関しても、私も含めて各人まちまちの釈文が提出されており、この作業は決して主観を排除できず、釈文はあくまで解釈本文であって、客観性を保証されない、という事実を痛感せざるを得ないのである。くわえて、加藤昌嘉氏「本文の世界と物語の世界」『源氏物語研究集成/第十三巻』(風間書房、2000年05月)においては、私の「〈「青表紙本」原本〉=古伝系別本第一類=青表紙本系別本」という分類や、私の学説の先蹤たる室伏信助氏の説を「諸本“二分類説”(加藤氏の命名による)」は、阿部秋生説の「誤読でなければ歪曲である」とする批判も提出された。用意周到にして真摯な姿勢の加藤氏の批判について、当然反論の用意もあるが、今は私の主張の主眼のみ記すと、「青表紙本系統」という冊子の形態による本文系統の命名は、現在の研究状況に照らしてグルーピングにも無理があるということに尽きており、現在の本文批判の水準からして、その方法論的前提が曖昧なまま推移してきたことへの異議申立てなのである。例えば、私が帚木巻で三例示したのみの「青表紙本」系諸本、「河内本」、「別本」各本文の様態の一覧を再度確認するだけで、結論(=諸本の優先順位)は、誰にも「@伝阿仏尼筆本」「A伝明融等筆本」と判断されるはずなのであって、文字通り「青表紙」である「大島本」は、この三本中では、最も痛んだ本文を保有しているに過ぎない。また、他の「青表紙」諸本と「別本」の差異は、この様態から分類も出来まい。したがって、かかる考証の過程から導いた私の「系統論」には現在でも絶対の自信を持っている。要は、問題の立脚点が、かかる諸本の様態の捉え方の相違に発していることであれば、互いの立場を再確認することで、新たなる生産的な争点も見えてくるはずである。

 こうした争点を抱え込む中で、私の関心は「伝明融等筆本」や「大島本」の成立にまつわる飛鳥井源氏学(仮称)成立史と言う享受史的志向と、俊成にまで遡源される「青表紙本」への関心から、源光行の『水原鈔』、源光行・親行の『原中最秘鈔』、源孝行『紫明鈔』へと継承発展されて行く、河内学派の学問生成史に遡源する志向とがある。

 〈文献学史〉関連文献 「絶望の言説ー『竹取翁物語』の物語る世界と物語世界」「解釈と鑑賞」(1997年01月号)○「権威としての〈本文〉ー物語本文史の中の『伊勢物語』」『想像する平安文学/第一巻/平安文学というイデオロギー』(勉誠出版・1999年05)○「三谷・狭衣学の文献学史的定位の問題」「日本文学」(2000年09月号)

◆◆琴へー琴曲『広陵散』の物語内容など

 かつて、私の、青春の形見の書とも言うべき、二十代の若書きの文章を集めた、『光源氏物語の思想史的変貌ー〈琴〉のゆくへ』
(有精堂、1994年)を幸運にも上梓出来てからはや六年、次には七絃琴の実演などを収めたDVDなどのメディアミックスを念頭に、三十代の節目に形に残るものを、と心に期してはいる。拙著刊行以後も、古琴に関する関心は持続して決して倦むことがなかったのだが、夢はいつかはかなうもの、昨年暮、作曲家某氏より、人を介して、北京故宮博物館珍蔵にかかる唐琴「九霄環佩」と同じ銘を持つ、あやしげなる古琴一張が架蔵に帰した(「中国音楽勉強会会報」二七号、一九九九年十二月参照)。以来、作曲家某氏との約束もあって、中国民族音楽研究所の余明先生に師事し、唐代からその存在が確認される「減字譜」を解読しつつ、典麗絶妙なる琴の奏法と悪戦苦闘する日々が始まったのである。まったく音楽素人だった私は、『史記』列伝57に逸話が残る、司馬相如が卓文君に求愛した時の『鳳求凰』をレパートリーにできたばかりだが、「五絃譜」のみが残る『王昭君』を余明先生に釈譜していただいており(直接には林謙三氏『正倉院楽器の研究』風間書房、1964年、第五章より)、光源氏が須磨で憂愁の情念を奏でたこの曲を復原できそうである。また、明石の浜辺で奏でられた「かうれうという手」は、最新の研究成果を盛り込んだはずの、藤井貞和氏『源氏物語論』(岩波書店、2000年)にまで“未詳の孫引き”が踏襲されているが、この『広陵散』は、『神奇秘譜』(朱権・編、1425年)に、四十五章の標題からなる楽曲が伝えられ、私が『琴操』の「聶政、韓王を刺せる曲」で考証したように、聶政が父の仇討ちのために琴の修行に励んだ悲憤もかくやと思われる大曲であることが判明している。この琴曲については、『河海抄』が典拠とした『晋書』「稽康伝」に、稽康の刑死以後この曲が廃絶したとされ、諸注釈書も踏襲するが、実は『神奇秘譜』の編者朱権が、この曲の序に記しているように、「隋亡而入于唐、唐亡而民間有年、至宋高宗建炎間入于御府」とあるのが精確な伝流史で、隋の宮廷楽曲であったものが、唐の滅亡で民間に流伝し、宋の勃興ともに、宮廷音楽に復していたというのが事実のようである。とすれば、この琴曲が都を追われた光源氏に奏でられたことの意味は、やはり「叛逆の志」だったのかもしれない。

 また、「若菜」下巻の女楽で女三宮によって奏でられた『胡笳の調べ』は、葦笛を琴曲に移したその音色が『大胡笳』『小胡笳』など、既に復原されていて、CDで誰しも聴く事は可能である。しかし、琴曲『王昭君=胡笳明君』は、私が拙著で考証した『楽府詩集』の他は、三谷陽子氏の『東アジア琴筝の研究』(全音楽出版社、1980年)に若干の言及があるばかりで、不明な点もあるが、さらなる中国古琴学関係の文献の精査によって、琴曲そのものの復原のみならず、その全容解明も間近だと私は思っている。

 〈音楽〉関連文献 ○「懐風の琴ー『知音』の故事と歌語『松風』の生成」「懐風藻研究 7」(日中比較文学研究会、近刊)

◆◆酒へー「物語学の森」の谺から 私の研究生活を綴った、ホームページ「物語学の森」を開設して、二年余の年月が経過した。私は自身の仕事について、「文献学・文献情報学/(マルチメディアによる物語研究、王朝女性作家群像、物語史、文化学としての平安王朝)」と書いている。これが私の全文業の志向性である。しかしながら、この電子空間も、あるいは、酒と囲碁と琴に陶然と時を過ごした、稽康たち竹林の七賢や、荘周の夢の如き、夢想世界を徘徊しているにすぎないのかもしれない。三十代半ばの光源氏が、『胡蝶の舞』を眺めながら、陶然と晩春のひとときを過ごす、「胡蝶」の巻論になんともいえぬ愛着を感じている昨今の私である。

〈「物語学の森」〉関連文献 ○編集部「学校で役立つホームページ検索入門」『新教育情報誌パソティア』(学習研究社、2000年10月)○「恍惚の光源氏ー『胡蝶の舞』の陶酔と覚醒」『想像する平安文学/第九巻/音楽と歌謡の想像力』(勉誠出版・近刊)