1999.12.26 Up Date

『徒然草』ノート

『徒然草』の男性観を中心にした章段についての現代語訳とコラムをお届けします。

三 男は

 よろづにいみじくとも、色好まざらむ男は、いとさうざうしく、玉の盃の底なき心地ぞすべき。

 露霜にしほたれて、所定めず惑ひ歩き、親の諫め、世の謗りをつつむに心の暇なく、あふさきるさに思ひ乱れ、さるは、独り寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。

 さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからず思はれむこそ、あらまほしかるべきわざなれ。

何事に秀でていても、恋愛の情趣に興味を示さない男と言うのは、ひどく物足りない感じがして、(言わば)玉の盃の底が欠けているように思われる。

(尽きせぬ恋の思いに)露や霜に濡れそぼちながら、あてどころなくさまよい歩き、親の忠告や、世間の非難に耳を傾けたりすると心も落ち着くところもなく、あれやこれやと思い乱れてはいるものの、とは言っても、独り寝をすることが多く、熟睡出来る夜もないと言うような男こそ見所があるとは言えよう。

そうとは言うものの、どっぷりと恋にのめりこんでいると言うのではなく(冷静にふるまうことで)、女性に手強く思われている男というのが、理想的なのであろう。

 

青春は絶望」に始まる。

 かつて、小林秀雄とならぶ文芸評論家として活躍した、亀井勝一郎(一九〇七〜一九六六)は、『愛の無常について』(一九四九年)のなかで、このように述べている。

 人間になりかかっている人間だけが絶望するわけです。つまり、自己に絶望し、自己を否定しながら、第二の自己を形成していく。絶望とは、「生まれ変わる」ための陣痛に他なりません。(略)絶望のない青春は、どこかごま化しがあると思わねばならず、一般的に言っても、これは人間判断の場合の一規準となるでありましょう。大学の入学や、入社試験のとき、私がもし試験官であったなら、口頭試問で必ず次のように尋ねたい。

  「あなたは絶望したことがあるか。いついかなるとき、あなたは、絶望したか?」

 絶望したことのない人間は、言うまでもなく落第であります。       「人間生成」  

この一文を読んでから、もう一度本段を読み返してほしい。兼好もまた、恋愛の情趣を理解できぬ男を批判し、恋愛を経験することで、人生に絶望することの必要性を説いているではないか。人生に恋愛は欠くべからざるものであるということ、ひいては、青春の永遠性こそ、兼好の生きた鎌倉時代も、亀井の生き抜いた敗戦直後も、諸君の生きる平成の現代もまた、未来永劫{みらいえいごう}変わることのない、人間として生きることの証{あかし}そのものなのである。

五 愛着の道

 女は髪のめでたからむこそ、人の目立つべかめれ、人のほど、心ばへなどは、もの言ひたるけはひにこそ、物越しにも知らるれ。

 事に触れて、うちあるさまにも人の心を惑はし、すべて、女のうちとけたる寝もねず、身を惜しとも思ひたらず、堪ふべくもあらぬわざにもよく堪へ忍ぶは、ただ色を思ふがゆゑなり。

 まことに、愛着の道、その根深く、源遠し。六塵の楽欲多しといへども、みな厭離しつべし。その中に、ただかの惑ひの一つやめがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、変はるところなしと見ゆる。

 されば、女の髪筋をよれる綱には、大象もよくつながれ、女の履ける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ伝へ侍る。

 みづから戒めて、恐るべく、慎むべきは、この惑ひなり。

女は髪が美しいことが、容姿の秀でていることを際だたせられるもののようであって、その人柄や気立てなどは、話の語り様から、物越しでも推し量ることが出来るものである。何事につけても、ちょっとしたふるまいでもって男の心を惑わせるのは、いったい、女が心を許して熟睡もせず、自身の身を惜しみもせず、絶えられぬようなことですら堪え忍んでいられるのは、ただ恋愛にすべてを賭けているからである。

 まこと、男女の愛欲というものは、その根源は深遠なのである。六塵(人間を取り巻く様々)の欲望は多いけれども、すべてを捨て去ることが出来るはずである。その中に、ただ、異性への欲望と言う迷いばかりはやめることが難しく、老いも若きも、知者も愚者も、なんら替わることがないものと思われる。

 というようなわけで、女の髪の毛をょって作った綱には大きな象すら繋ぐことが出来、女の履いている足駄で作った笛を吹くと、発情期の秋の鹿がんならず寄ってくると言い伝えられております。

 自身を戒めて、恐れ、慎むべきものは、異性への色欲である。

鎌倉時代の女性観

第八段「世の人の心を惑わすこと」を要約すれば「世の人心を惑わすものとして、色欲に及ぶものはない。人間の心は愚かしいものであることだ。焚き染めた匂いなどは仮りそめのものなのに、しばらく衣裳に薫物をしていたと知っていながら、なんとも言えぬ匂いがすると、必ず心がときめいてしまったりする。昔、久米の仙人が、洗濯する女の脛がすきとるように白いのを見て、神通力を失ってしまったような例は、実際にその女性が手足やら、はだつきなどもうつくしくぽちゃりとしていたので、女性その人が魅力的であったので、致し方ないのだ」ということになる。

 兼好の女性観は、今日の対女性観に照らせば、かなり問題のあるものであり、特に、「色欲」に関して言えば、第八段よりも、さらに本段では否定的な側面が強調されている。

 これは、そもそも仏教思想が、女人禁制・女人結界などの言葉に象徴されるように、男性絶対優位の価値観を基盤として形成されたものであったために,先のような記述がなされたのであって、作者・兼好個人の問題に帰するものではないということを理解しておきたい。

七 同じ心ならむ人と

 同じ心ならむ人と、しめやかに物語りして、をかしきことも、世のはかなきことも、うらなく言ひ慰まむこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらむと向かひゐたらむは、ただ独りある心地やせむ。 互ひに言はむほどのことをば、「げに。」と聞くかひあるものから、いささか違ふところもあらむ人こそ、「我はさやは思ふ。」など争ひ憎み、「さるから、さぞ。」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少しかこつ方も我と等しからざらむ人は、おほかたのよしなしごと言はむほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たるところのありぬべきぞ、わびしきや。

同じ心持ちを理解できる人と、しんみりと話し込んで、興味深いことも、世のはかなさについて、心隔てなく語らって心を慰めることなどはこのうえなく嬉しいことであろうに、実際にはそんな心持ちを同じに出来る人などはなく、少しでも意志の疎通を怠るまいとお付き合いしているのは、ただひとりで居るような気持ちがするものである。互いにぜひ言いたいことについても、「その通りだ。」と聞く価値はあるものの、いささか意見の違う人があることが望ましい。「私はこう思う」などと言い争って「だからこうだ」などと話し合ったりしていると、心も晴れ晴れすることであろうが、実際にはしっくりしない思いをのべる、その言い方が自分とは違う人がいて、そのような人は自分とは違う人が多く、そのような人はおざなりな話をしているうちは抵抗もなくつきあえるものの、真の心からの供とは別の人であるのは、寂しいことだ。

兼好の孤独感

『徒然草』には多種多様な人間観、人生観が語られているが、『日本古典集成』の解説によると、全体の章段は以下のように分類できるようである。

A 作者の感想や意見をのべたもの            50%

B 逸話・奇聞・滑稽談     その他の話を記したもの 25%

C 有識故実など、知識を書きとめたもの         22%

D 物語的な場面を描いたもの               2%

E 思い出や自賛をしるしたもの               1%

ただしこの分類は絶対的なものではなく、あくまでひとつの目安というべきだが、大体の傾向は推し計ることができよう。

 では、友情を論じた本段は、いずれに分類できるのだろう。

 いうまでもなく、Aの作者の感想や意見ということになる。兼好の対人間観は、今日の価値観に照らして、そぐわぬ物もあるが、本段のように、洗練された都会人の孤独は、現代にも通用するものであることは、いうまでもないことである。

 

一五 春の暮れつかた

 春の暮れつかた、のどやかに艶なる空に、賤しからぬ家の、奥深く、木立ものふりて、庭に散り萎れたる花見過ぐしがたきを、さし入りて見れば、南面の格子みな下ろしてさびしげなるに、東に向きて妻戸のよきほどに開きたる、御簾の破れより見れば、容貌清げなる男の、年二十ばかりにて、うちとけたれど、心にくく、のどやかなるさまして、机の上に文をくりひろげて見ゐたり。

 いかなる人なりけむ、尋ね聞かまほし。

春の夕暮れ時、のどかな天気で優美な空の下、上品な家で奥行きも深く、木立が生い茂り、庭には散りしおれている桜の花も見過ごしがたかったので、中に入り込んでみると南面の格子を下ろしていてさびしげな気配がするのに、東向きの妻戸はちょうどうまい具合に開いていたので、御簾の破れから覗いて見ると、たいへんな美貌の男で、年は二十歳ほどの貴公子で、くつろいで様子ではあるものの、いかにも奥ゆかしく、落ち着いた様子で、机の上に文を広げて読んでいた。

どんな男なのであろうか、尋ねてみたいものだ。

兼好の男性観

『徒然草』には本段のように作者の深い人間観察が、さりげないエピソードの中に語られていることが多い。

 たとえば、雪の趣深く降った朝の文に、雪について何も触れなかった作者を諌める手紙をよこした人を偲ぶ、「今は亡き人なれば、かばかりのことも忘れがたし」(三一段)や、本書にも採られている「九月二十日のころ」(P二七〜八)には、客人に対する配慮を忘れぬ風流人について、「その人、ほどなく亡せにけりと聞きはべりし」 とその後日譚を文末に記すことで、余韻の中にそのエピソードの人物の理想性・気品の高さを賞揚する方法をとることがある。

 物語仕立ての本段は、その典型ということになるようだ。

 

一六 あやしの竹の編み戸の内より

 あやしの竹の編み戸の内より、いと若き男の、月影に色あひさだかならねど、つややかなる狩衣に濃き指貫、いとゆゑづきたるさまにて、ささやかなる童一人を具して、はるかなる田の中の細道を、稲葉の露にそぼちつつ分け行くほど、笛をえならず吹きすさびたる、あはれと聞き知るべき人もあらじ、と思ふに、行かむ方知らまほしくて、見送りつつ行けば、笛を吹きやみて、山の際に惣門のある内に入りぬ。榻に立てたる車の見ゆるも、都よりは目とまる心地して、下人に問へば、「しかしかの宮のおはしますころにて、御仏事など候ふにや。」と言ふ。 御堂の方に法師ども参りたり。夜寒の風に誘はれくる空薫き物のにほひも、身にしむ心地す。寝殿より御堂の廊に通ふ女房の追ひ風用意など、人目なき山里ともいはず、心遣ひしたり。

 心のままに茂れる秋の野らは、置き余る露に埋もれて、虫の音かごとがましく、遣り水の音のどやかなり。都の空よりは雲の往き来も速き心地して、月の晴れ曇ること定めがたし。

 粗末な竹の編み戸の中から、とても若い男が、月明かりにを受けながら、色合いははっきりしないものの、艶やかな狩衣に濃い紫の指貫袴という格好で、少年ひとりを供として、はるかに続く田の中の細い道を、稲葉の露に濡れそぼちながら(これを)分け入りつつ進んで行くと、笛を何とも言えず上手に吹き鳴らしているのだが、(こんな所では)情趣を解してくれる人もあるまい、と思っているうちに、この男の向かっている先が知りたくなり、その後を付けていったところ、笛を吹くのをやめて、山際の惣門のある家の中に入っていった。榻に轅を載せて駐車してあるのが見えるのも都ならぬこの地では目に付く心持ちがして、下人に尋ねてみると、「某の宮様がいらっしゃる最中で、御仏事などがございますようで」と言うではないか。

 御堂の方に僧侶達が参集していた。夜寒の風に乗ってくる薫き物の芳香も、身にしみ通るような気持ちがする。寝殿から御堂の廊下を行き来している女房達が、薫りを追い風で匂わせようとしている心遣いなどは、人の訪れる山里とは言いながら、気配りがなされている。草木が自然に任せて生い茂っている秋の野のようなこの庭は、一面に下りた露に覆われているようで、虫の音も悲しげに泣き、遣り水の音ないも落ち着いて聞こえる。都の空よりも雲の往来は早いような気持ちがして、雲間の月も晴れたり曇ったりするして絶えず移り変わっているようだ。

兼好の創造力

 この作品の注釈に人生を賭けたといってもよい安良岡康作氏は『徒然草』の中でも本段が最も高い構成力を有していることを評価している。

 『徒然草』は、「三 男は」と「五 愛着の道」の恋愛観のように確かに矛盾するかのような記述も見られるが、平安朝の物語文学の世界や『枕草子』に学びつつ、それら先行文学よりもより洗練された深い情趣を巧みな文章表現で描くことで、高い芸術性や思想性を獲得した作品と言うことが言えるだろう。

 たとえば、本段の貴公子の登場方法や、邸の有り様、さらには、薫物の描写などは、『源氏物語』のそれをしのぐものがあると安良岡氏は述べている、同じような情景描写のある、「夕顔」や「橋姫」の巻などの名場面とを読み比べてみよう。

  本文は烏丸本を校訂した 『古典講読 徒然草・枕草子・評論』(角川書店・1999)によります。

Text By Sakukazu Uehara Copy right 1999(C)Allrights Reserved