Last Up Date 1999.05.11

日記を物語る 99年02月   INDEX‖ ホームに戻る

02月01日(月曜日)           

春めいた朝を迎えました。結局締め切りを延ばして戴いて辞書を書きました。「思ふさま」を名詞・形容動詞・副詞に分けて書くのですが、なんと『源氏物語大成』の索引篇では若紫巻の明石入道の言葉である「わが身のかくいたづらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり」の「思ふさま」が動詞+名詞で分かれて採られているようで検索できませんでした。やはりCD−ROMに期待することになるでしょう。

 水泳から帰宅すると僕の少年時代のヒーローのひとり・ジャイアント馬場さんの訃報{01月31日没・61歳}がニュースで流されていました。ここ数年、特に胸のあたりの筋肉が落ちていたので気になっていましたが、癌だったとは。彼がたいへんな読書家で、油絵も玄人筋であったことは有名な話です。ライバルのアントニオ猪木の計算され尽くしたガッツポーズに比べ、なんとも田舎臭くて照れたようなしぐさが忘れられません。“黒い魔人”ボボ・ブラジル戦や“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリック戦などは名勝負として記憶している方も多いのではないでしょうか?当時のワールドプロレスのスポンサーが三菱電機で、ブラジルの食い散らかした花束を三菱掃除機で片づけていたことを覚えている人は、昭和30年代後半生まれの、真のテレビ少年です。

02月03日(水曜日)           

なぜか衝動的に、この春休みは『源氏物語』全巻読破を思い立ちました。巻毎なら必要に応じて読んでいますが、通読は苦行に近い、まさに精神力が必要です。来週から始めたいと思います。

 ジャイアント馬場さんの訃報に際し、『朝日新聞』夕刊の文化欄に、辺見庸氏の「肉体の悲しみ、精神の古層」なる追悼文が掲載されていました。辺見氏もまた、僕と同じように「壮大無比なるあばら骨」に「ずいぶんまっとうな精神の古層」を見、そこに「孤独のかげろう」が「棲んでする気がする」と締めくくっています。そうです、まさにジャイアント馬場さんは「この国では珍しい詩情を湛えた人」だったのでした。またひとつ“僕の中の昭和史”が消えて行きました。

02月04日(木曜日)           

神野藤昭夫・関根賢司さん編になる『新編伊勢物語』{おうふう、\1900円}をいただきました。藤井貞和さんの解説に、T『伊勢物語』を読む、U『伊勢物語』を学ぶ、参考文献からなります。特にUは編者の蘊蓄{うんちく}が傾けられ、藤原高子{ふじわらのたかいこ}の年譜・自筆書名など目を見張るような資料や各種影印が収められています。今年の後期にはこれをテキストにして、東京成徳大学の「中古文学」の講義を行う予定にしています。同じ郵便でまたまたB出版から執筆依頼状が届きました。まだ、書いていない原稿も含めて都合三つの原稿を戴きました。この不景気にもかかわらず、毎月「朝日新聞」の読書欄に広告が載るのですから立派です。乞うご期待。

02月05日(金曜日)           

午前中に遅れに遅れた辞書を書き上げて送付しました。ひと休みして午後は教科書の指導書付帯の問題集の校閲をしようと机に向かいましたが、頭が「ことばの検索」モードになっていたため、問題を解くのに四苦八苦してしまいました。

また、シラバスの校正ゲラが届き始めました。僕自筆の『竹取物語』関係の「玉」の字は、すべて「む」の字で活字に起こされていました。ちょっと「ムッ」としました\(‘(‥)’)/

02月06日(土曜日)           

毎月第一土曜日は所沢市松井公民館の「古典に親しむ会」があります。話の枕に「関屋」巻の関連記事を読みました。来月からは「絵合」巻。いよいよ並びの巻から正編へと展開することになります。

夜、原豊二さんから徳川黎明会蔵の『掃墨物語絵』について問い合わせを戴きました。死蔵状態だった『鎌倉時代物語集成/第七巻』(笠間書院.1994)を始めて開いてみました。僅か4頁たらずの掌編ですが、『古本説話集』の平中墨塗滑稽譚を絵詞{えことば}化したものだったんですね。勉強になった夜でした。

02月07日(日曜日)           

角川本郷ビルで『徒然草・枕草子・評論』の編集会議。執筆者全員の方に集まっていただくため、日曜日になりました。昨年度の経験を活かしつつ基本的な執筆マニュアルが作られており、比較的スムーズに終了しました。

02月08日(月曜日)           

月末から締め切りの原稿を書き、上旬に提出、中旬は中抜きという生活が定着してしまいました。でもこれも必要なことなのかもしれません。

02月09日(火曜日) 7500カウント           

思い立って『竹取物語』の古本と言うテクストの校訂を再開しました。この本は新井本とも呼ばれるもので、一般に流布しているものとはかなり異なるところが多く叙述が丁寧なのが特徴です。後光厳天皇筆と言われる古筆切七葉はこの本文系統の上位にあり、かつて契沖の校合本があったことも判っていて、本文批判の理論構築の実験台には都合のよいテクストで、僕のライフワークと言うべきものです。しかし、時間をおいて再開したため、校訂基準が一定しなくなってきて、最初に戻ってチェックし直したりしています。テキストデータの提供は今月下旬を目標にしています。

母校の学会機関誌「日本文学研究/38」が届きました。平安朝文学専攻の先生の御退職にあたり、中古文学の特集号です。デビュー論文もあり{処女論文という言葉は使っては行けません}、自身の研究の展開もあり、それぞれたいへんな力作揃いです。ただし、誤植がかなり目に付いたのは玉に瑕でした。これは出版代行某社の校正担当者に問題があるのかもしれません。

02月10日(水曜日)           

正門前の守衛さんと職員にガードされつつ(?)国文学研究資料館で共同研究。今年度の報告書『「うつほ物語考証」の研究』(国文学研究資料館・1999.2/221頁)が完成しました。本書は尊経閣文庫本と無窮会大久保本の翻刻からなる『うつほ物語』研究の資料の宝庫です。発行部数僅少のため頒布できませんので、図書館でご覧下さい。苦労して翻刻したものでしたので喜びもひとしおです。特に作業キャップの江戸英雄さんのご尽力を特筆しておきたいと思います。

02月11日(木曜日)           

古代文学会との勉強会。勉強もしたしお酒も飲んだし雪も降った。そして帰宅して泥のように眠りました。

02月13日(土曜日)           

漢文のビデオ教材を作っています。ただし、画面は本文だけで顔は映りません。漢文と英語は同じユーラシア大陸にあるから語順が同じなのでしょうか?。天安門事件の前の年{1988年}、中国を旅行しましたが、ビールを「麦酒{ビーチュ}」と発音していました。これも同じ語源なのでしょうか、戦時中スマトラに駐留して現地の華僑と中国語で会話をしていたという萩谷先生も、「僕はそう思っていたよ」と話して下さったことなどを、撮影中ふと思い出しました。

02月15日(月曜日)           

今まで書かなかったのですが、僕の仕事の一つとして医学部受験生の国語・小論文指導をしています。定員も10名で学生には一教室を一年間与えられ先生方も担当の生徒さんの机に私物をおいてあるという、“すごい”学校です。僕が教室の鍵をもっており、僕のように貧乏暇なしの書生には、講義時間の変更も可能なので助かります。ちなみに授業料は月額平均40万円{年額ではない。先生のキャリアによって授業料がちがうのです}?!。今日、講義に出向くと、担当していたふたりの生徒さんは今年も合格する気がなかったらしく{ひとりは某私大の経済学部生で覆面浪人}、来年度も僕が主任的立場で指導することが決まっていました{ヤル気あんのかよ〜〜}\(‘(‥)’)/。生徒さんが明らかに僕より高価なものを身につけています。当然、医者の子弟が多いけれど、ご覧のみなさんでご希望がありましたらどうぞお問い合わせ下さい。

仕事の途中立ち寄った早稲田の五十嵐書店で、角川文庫の『とはずがたり』{松本寧至・校注1968}の下巻を平積みの下の下からこれを発見。値段も付いておらず、番頭さんに端本{はほん・揃っていない物}だと言うと、\300円で譲って下さいました。今は無き池袋の高野書店で上巻を購入していたので、これで両巻完結。最近周辺でロクなことのない僕には久しぶりにうれしいことでした。

僕が池袋近郊で短時間活動する際{三時間程度}、駐車場にしている西武百貨店の駐車場は「セゾン美術館」の上にあるのですが、本日で完全に閉館する日なのでした。めずらしく人が多いなあ、と思っていたら、NHKの七時のニュースでも“この事件”を伝えていました。無料で入れる特権を持つ僕は、結局一回しか入らなかったのでした。現代美術ではなく、古代美術ならよかったのに。いずれにせよ、文化後進国の日本に生きていることを実感しました。

 所沢のダイオキシン問題は深刻です。ニュースステーションを見ていたら、所沢インターの見慣れた光景が映されており、その北側に産廃施設が集中していることを知りました。そういえば、跡見への通勤で裏道{畑の中の農道}を使っていた僕は、よく大きなトラックで道が塞がれていて、遅刻しかかったこともあったのでした。やはり、これは移転してもらうしかありません。所沢市・新座市の北部、三芳町の南方面一帯のあたりです。

02月16日(火曜日)           

港区六本木の日本学術会議で新規団体登録説明会に室城さん、三浦則子さんと出席しました。事務局機構を若干整備しなければなりません。昨年、不登録になり裁判をした団体があったと新聞で読みましたが、その団体の方から質問があったりして、説明者に緊張が走ったのがおかしかったりしました。その裁判費用は誰が払ったんでしょう?登録のメリットについて質問があり「実際は、学術会議の会員の推薦と選挙権を有すること。ただし、文部省(学術論文の認定)や郵政省(学術雑誌の認定)の有力な参考基準となっていると側聞しています」との発言がありました。

青山通りを歩いて南青山にある僕の行きつけの店で三人お茶をのみ、渋谷まで歩きつつ古本屋さんを巡ってから帰宅しました。春めいた日でしたので車で通勤している僕には映らなかった、華やかなブテックや素敵な帽子屋さんなど、新鮮な春を待つ街の光景が広がりました。僕の世代の人にとっては、知る人ぞ知る、フォークグループ・かぐや姫のメンバー、山田パンダの『風の街』「♪♪表参道・原宿は、懐かしすぎる友達や、人に言えない悲しみすら、風〜が〜運んでしまう街♪♪」(1975年、吉田拓郎作曲)そんなイメージの街並でした。

02月18日(木曜日)           

昨年秋に書いたT堂の『古典文学事典』の『竹取物語』『うつほ物語』『落窪物語』のゲラが届きました。編集サイドと編者のシビアな意見が付されていました。無理すれば分かってもらえるような書き方では通用しないのですね。勉強になりました。

02月19日(金曜日)           

例の漢文のビデオ教材を二本撮り終えて帰宅し、先日、頂戴したばかりの柴田憲子さんの歌集『糸杉』を拝読しました。柴田さんは、僕が所沢の松井公民館の古典に親しむ会で『源氏物語』講読を始める前からの古参会員の方です。年始会の自己紹介などで御自身の半生などを断片的にお話しくださってもいたのですが、歌集を紐解き、僕のちょうど倍の人生を力強く生き抜きいた方であることを改めて知りました。お子さんは名医の誉れ高い方だとも伺っています。特攻隊の生き残りでいらしたご主人を昭和63年に癌で亡くされたあと、弟さん二人をやはり癌で送られたことが率直に歌われています。「還り来る魂を信じて迎膳に夫の好みし胡麻豆腐供ふ」「すでに声失う弟指に書く『呼吸装置をはずして下さい』」「延命の機械音絶えし病室に冷えゆく汝の額を見守る」このような挽歌に胸を打たれます。また、こうした人たちに支えられて僕は学問をしているのだということに深い感謝を捧げます。

02月20日(土曜日)           

午前中に『竹取物語』の本文校訂をすすめ「龍の頸の玉」段まで終えました。また、96年以来書きかけの「胡蝶」巻の論文の序章を推敲して参考論文を再読することにしました。

02月21日(日曜日)           

女子大・短期大学の受験生激減がひどいようです。受験倍率が二倍を切ると併願者の歩留まり率からして実質全員合格にせざるを得ませんが、今年は名門と言われる女子大も例外ではないようです。三月まで入試を行う東京近郊にある短大などはどうなっているんでしょうか。自らの生活・将来設計に直結する問題だけに気になって仕方がありません。

 夕方ジムに行き、軽く水泳。今年当初の目標だった減量は、一食をリンゴで済ませ、酒量を制限していることもあって五年前の水準に戻りました。ここまではだいたい毎年できるのですが、結局5月頃には元に戻ってしまっている。今年は気を抜かずに行きたいですね。

02月22日(月曜日)           

久しぶりに大東に行き萩谷先生と『元輔集』の注釈作業を二時間余り行いました。先生は現在82歳でいらっしゃいますが、いつものように分析力もたいへんシャープでしたので、帰りの車の中、「万が一僕が倒れたら都内の学校は代講をお願いします」。もちろんジョークですが p(^^)q

02月24日(水曜日)8000カウント達成御礼            

今日は雨。冷たい雨が冬の町を洗い流して行くかのようです。夜、勉強会の帰りに立ち寄る阿佐ヶ谷のレストランで久しぶりに食事をしました。帰宅すると僕の車の隣で車庫入れに困った顔をしながら苦労していたカナリのふとっちょくんのことがやたら思いだされ、点検してみるとやっぱりちょっと擦られていました p(!!)q。今月はこれで二度目です。一言断るべきなのでしょうが、あの愛敬のある困った顔と、不釣り合いなほどスレンダーな彼女(ゴ・メ・ン・ね)を連れていたことに免じて許してあげることにしましょう。

02月25日(木曜日)           

Asahi-NETが局部的なメンテナンスのため更新予定の僕のテクストの送信が遅くなりました。その間、物語研究会のトップページのカウンターを付け替えました。精確には水泳帰りの19:25分に設置しました。これで物研ページのみのアクセスが分かるようになりますね。

本日、メールと電話で知人3人の大学院合格を知りました。まさに期待に胸を膨らませている心境でしょう。おめでとうございます。

02月26日(金曜日)           

昨年の話です。長野オリンピックで日本中が熱狂していた頃、新井将敬代議士が品川のホテルパシフィックで自殺しましたね(1998.2.19、享年50歳)。僕はこの月の水曜日(2.4)に物研の年度末会計の打ち合わせのため、このホテルのレストランを使っていたのでした。この新井代議士、僕が学部4年生だった昭和60年(1985)にアルバイトをしていた国文学研究資料館での帰り道(木曜日でしたか)に、戸越銀座で蜜柑箱の上に立ち拡声器を持って街頭演説する姿を毎週見かけたことを思い出します。彼は故渡辺元大蔵大臣・副総理の前秘書として衆議院選に立候補すべく奮闘中の青年政治家でした。当時、彼は今の僕の年齢に近い、そう37歳だったんですね。政治家にならなかったらロック歌手を目指していたという、長髪で溌剌としていた彼の演説を、足を止めて聞くこともしなかった僕なのに、甲高くよく通る声の、未来への希望に満ちた演説は、今も耳の底に残響しています。その直後の選挙では、在日であることを悪意的に宣伝されたりして落選。その次の選挙で初当選したのでした。その後、自民党の改革派の先頭に立った彼も、実はカネには汚れていたんですね……秘書さんも長続きしたことがないという、気性の荒い人という批評も目にしました。もう彼の事件を思い起こす人もないかのようです。2月の終わりにこれを記して彼の追悼にしたいと思います。

02月27日(土曜日)           

日本人は熱しやすく醒めやすい民族だと言われますが、臍{へそ}曲がりの僕は回顧譚が続きます。長野オリンピック公式記録映画、バド・グリーンスパン監督の「NAGANO’98 OLYMPIC/BLD GREENSPAN’S STORIES OF HONOR AND GLORY」が公開されたようですね。すばらしいヒューマンタッチの映画に仕上がっているようです。ところで、オリンピックイヤーの翌年のヒーローたちのその後をみなさんご存じですか?ちなみに、「かあちゃんに捧げた金メダル」の清水宏保選手は世界記録保持者の座を、先日の世界選手権でジェラミー・ウォザースプーン選手〈上原泰・撮影/1998.02.04/CBSインタビュー中〉に、わずか0.03秒差の34.79{もちろん日本新}であったにもかかわらず、奪われてしまいましたが、三月の世界種目別選手権での奪回を期しているものと思います。ところで堀井学選手はどうしているんでしょう。ちょっと心配ですね。笑顔の愛くるしい岡崎朋美選手は、今年“抜きの年だった”にもかかわらず、世界選手権の成績からして日本女子スプリント界の女王の座は揺るぎないようです。また、先日の世界ノルディック選手権のノーマルヒルは船木和喜・宮平秀治・原田雅彦でのメダルを独占。オリンピックの話題を独占した日本ジャンプチームは、ルール改正に伴い身長の低い岡部孝信選手は泣かされましたが、チームそのものの未来は安泰のようです。とりわけ原田選手は公式記録映画の七人のヒーロー中でも重要な描かれ方をされているようです。4年に一度しかない、オリンピック、これに青春のすべてを賭けることのできる選手たちが僕にはうらやましくて仕方がありません。いつだったか、大学の教員控え室で、オリンピックに出場するトップアスリートと、学者になるのとどちらが大変かという話を、先生方と話し合ったことを思い出しました。結論は、僕らは疲れたら休めるし酒も飲めるけれど、彼らは毎日体調を維持管理して節制しなければならない。やっぱりオリンピック選手は偉いぞ!!と言う結論になったわけでした。今でも僕はそう思います。だって、三月までに完成の契約を交わした、漢文のビデオ教材撮影のためのスタジオ予約を、僕は今月何回変更したことでしょう。やはり僕も象牙の塔の住人に成りつつあるのでしょうか。

僕の弟が、昨年長野オリンピックのボランティア活動中に撮影した超一流のフィギィア・スケーターの写真を公開しましょう。エルビス・ストイコ(カナダ、銀メダリストタラ・リピンスキー(アメリカ、金メダリスト


番外編3月12.3日オランダ・ヘーレンフェインで行われた第4回世界種目別選手権では、清水選手が500bで転倒したウォザースプーン、ヤン・ボス選手を抑えて王座を奪回。二位には長野オリンピック500b二走目で同走の選手と接触転倒して腕を脱臼してしまった地元オランダのベンネマルス選手が入り復活しました。女子500bは岡崎選手が、あのオリンピックのニューヒロイン、マリアンヌ・ティメル選手とともに三位。シーズン最後はめでたし、めでたしのフィナーレとなりました。


02月28日(日曜日)           

日本文学協会事務所で『枕草子』を読む会。僕が書いた「〈笑ひ〉と〈をかし〉、語りの構造−『枕草子』後期実録的章段群の“語る文芸のかたち”」に引用した漢詩句の典拠が、明治書院版の『新釈漢文大系』の底本の流布本系にはあっても平安朝伝来の古注本系『蒙求』にはないことが判明。「後生畏るべし」。やっぱりきちんと調査を徹底しなければいけませんね。ただし、僕の論文の本旨に影響するものではありません。


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