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日記を物語る 98年5月   INDEX‖ ホームに戻る

5月3日(日曜日)           

某社の古語辞典を書き始めて一月たった。今まで語誌(ことばの成り立ち・使用法の変遷)を書かせてもらったことはあるのだが、今度のは高校生向けと言うことで、最初は何から手を付けて良いのやら分からなくて戸惑ったものだった。とどのとまりは、日本最大の某社の辞典を(さっきの語誌を書かせてもらった辞典の改訂前の版)を基準として、用例の解説の検討、用例本文の検討を行えばよいわけで、言葉は悪いが巧妙なパクリはいくらでも可能だ。しかししかし、僕にも意地がある。源氏に関しては、孤立例でない限り、某辞典には使われていない用例で勝負することにした。でもねえ、ほとんど僕の当たっている項目が、平安朝文献では一つしかないのばかりなのだが…。

5月4日(月曜日)

とりあえず、担当分の執筆完了。紹介してくれた室城秀之さん(白百合女子大学教授)の顔をつぶさぬよう、初回の入稿だけは締切(5月6日)を守ることにする(^^)。投函したのは午後1時40分、昼食をとり、所沢インターから一路実家のある長野県佐久市へ。時計は2時。快調に飛ばす。平均時速?KM。僕の新座御殿から、(ここではこう呼ばせてくれ。実際は14.5坪。必死にためた貯金と親父の援助でやっとこ手に入れたんだから。)実家まではジャスト150KM。上りの大渋滞を眺めつつ、さらに加速。おっといけない。とかいいながら、FMを東京から長野に切り替え、トンネルを10個無事通過して、浅間山に迎えられつつ、3時30分、到着。まだ火のあるこたつに座り込む。車の平均時速は時間と距離から計算して下さい。私は算数が苦手な国文学者です。母が家にいて行程を逐一報告させられる(無人でも私の実家では鍵をかける習慣がないのでいつでも帰れます。田舎だねえ)。これもまた恒例行事。桜は散って葉桜になっていた。角川の教科書のパンフレット(僕は『古典講読源氏物語・大鏡』の編集委員)などを父にみせる。

5月5日(火曜日)

母を連れて軽井沢高原文庫へ。裏道は知っている人だけ。いつも車を止めていた体育館の駐車場はオリンピック会場となってしまい、再改造中につき、ちゃんとした駐車場に止める。それにしても文庫内は静かだ。菊田一男・市川染五郎(現・松本幸四郎)・遠藤周作の写真が何気なくかざってある。染五郎を現代劇へと導いたのは菊田一男であることは以前から知っていた。ところで、若き日(おそらく20代後半)の幸四郎は長男・染五郎と松たか子を足して二で割ったような顔をしていた。血は争えないものである。母は松たか子の父を知らなかった。まあそれはいつものことだが、川端さんが地蔵の前でたたずむ写真に怯えたのには笑った。一階の喫茶室では堀多恵子氏(故辰雄夫人)が館員と雑談していた。物静かな方である。館員のみなさんの対応でVIPとすぐ分かった。

屋外の野上弥生子の別荘の茶室は簡素であった。理事長はいまだ故中村真一郎とある。理事会は年一回くらいなのかなあ。なんて余計なことを考えたりする。

5月6日(水曜日)

母が立川の叔母に逢いたいというので乗せて帰る。早朝6時40分発。所沢には8時15分。新座御殿には30分。駅スパートで、母の行動予定をプリントして、僕は仕事へ向かう。その途中、大学(大東文化)の人文科学研究所へ物語研究会の例会通知の原版を届ける。事務の山田さんが、家に持ち帰って封詰めしてくださり、発送までしてくれるのだ。10時。そそくさと大学発。中野駅で母を降ろし、僕は高田馬場の某ゼミへ。4時間みっちり。二葉亭から鴎外までマッタリ指導。帰りがけに成増のオレンジワンで、水泳。神野藤(昭夫・跡見学園女子大学教授。お世話になってます)さんが、北京日本学センターに出張中のため、黙々と泳ぐ。帰宅して、一杯飲んだら、あっという間にテレビは砂嵐状態でなにがなんだか分からず。二階に上がり万全の体制で寝る。

月7日(木曜日)

立川の叔母の家に電話。母より「国語科通信101号」(角川書店・1998.2)の拙文「教室の中の『源氏物語』−『古典講読 源氏物語・大鏡』完成に寄せて」を送るように指示がある。母がいきなりおしかけているので詫びる。こちらは母の姉である。父の姉(大正二<たしょうじ>さん。年がすぐ分かって気の毒だ)は癌だそうだが、元気に歩いて会いに来てくれたそうだ。すこし安心。

5月9日(土曜日)

中古文学会(立教大学)。市川康さん(学部時代の同級生)とともに聞く。井野葉子さん(青山学院女子短期大学の非常勤で今年は同僚)も隣に来て、話しながら(失礼)聞く。藤井貞和(詩人・東大教授、そして、モノケンの創設メンバー)現る。私とは三年ぶり。楽しそうにノートを取っておられる。最近の仕事は凄いの一言につきる。特に「思想」に書いた「国文学の誕生」と「国文学の発生」は、入魂の、渾身の書。それにしても、藤井さんと話せただけで、今回は来た甲斐があったと思う。

日記研究はねえ。田口尚幸君(愛知教育大学助教授・茶髪だった?!)は片桐洋一(関西大学教授)先生と仲良く質疑応答。片桐さんが「私は一度も『伊勢物語』三段階成立論を実証するとはと書いたことはない。これは仮説である」と述べた言葉に感銘。懇親会でお話をする。『うつほ物語』の藤原君の巻に小式部内侍本の歌がある話(三段階成立論では小式部内侍本の成立は院政期)をしたら「のもせもすだく…」とすぐ反応された。知っていたのだ。なんと。「論集が発刊されたら献本します」とお話しした。

 二次会はほとんど記憶がない。いろんな人の名刺や論文の抜き刷りをたくさんもらっていた。西所沢駅で目覚める。「やっちまったぜ(!!)」タクシーでUターンして帰る。嗚呼。

5月10日(日曜日)

倉田実(大妻女子大学教授)さんと目があった(実は前日指名された)ので、森野正弘(國學院大學特別研究員)さんの「明石入道と琵琶法師」の発表について質問三点。余計なことも言ってしまったか。「楽琵琶か、盲僧琵琶か」は核心の部分。森野君なんとかかわす。まあまあか。宮崎荘平(國學院大學教授)先生からもお礼の言葉「中世文献から『源氏物語』に戻すとどうしても矛盾がありますね」。

熱く長い、ある時は退屈な、ある時はド緊張、そして親睦の二日間が終わる。

5月15日(金曜日)

青短の講師室で、陣野英則さんと中古文学会の反省会。ドトールコーヒーで延長戦。コーヒーは旨かった。

5月16日(土曜日)

物語研究会5月例会(明治大学)。出席者37名。明治の学生さんがたくさん来てくれた。増尾伸一郎(歴史人類学・東京成徳大学助教授)さんの「『地神経』と五郎王子譚の伝播」は期待通りのすごい内容であった。文化研究の新しい可能性が拓かれる。と同時に“物語の限界”も明らかとなった。

三谷邦明(ご存じモノケン創設メンバーの一人・横浜市立大学教授)さんの発表は、パフォーマンス交じりの熱弁。ただし、『源氏物語』本文の朗読になると極端に滞る。黙読の天才なのか。あまり本文のところでつかえる物だから、松岡智之君(東大院生)などからは三谷さんが体調を崩していると勘違いして、健康を気遣う電話もあったほどだ。実際はかなり健康を回復している様子である。二次会・三次会(沖縄の店)例のごとし。満足。

5月19日(火曜日)

一時限目。跡見で国文学概説。ポールシュレーダー監督の「mishima」せながら、『金閣寺』『仮面の告白』の世界を簡潔に語りつつ、日本文学の自省性に及ぶ。ただし、二つとも読んでいた学生は皆無。かろうじて『潮騒』を数名読んでいたのみ。これが現在の国文学専攻の学生の実態である。車で茗荷谷に移動して、放送大学の一学期二回目の講義「文化史の中の『源氏物語』」。12時45分。昨年放映の「冷泉家展」のビデオを見ながら解説したうえで、藤原俊成・定家・為家の古典学から、阿仏尼本『源氏物語』に至るまでの話。『十六夜日記』、飛鳥井雅有『嵯峨のかよひ路』、そして本文批判(テクストクリティーク)の原理論まで。ペーパーは「幻の伝本をもとめて−伝阿仏尼等筆本『源氏物語』とその周辺」(「物語研究会会報」28号・1997.8)を中心に進める。藤本孝一氏の為家関係の文献、古筆切(こひつぎれ)の読みにまで展開。満足していただけたろうか。いったん帰宅、4時。すぐ大泉学園に自転車を置き、渋谷へ。余裕で6時。國學院大學の『うつほ物語』輪読会の前に室城さんと『源氏物語ハンドブツク』原稿の打ち合わせなど。常磐松校舎五階の針本研究室で、教科書の指導書付録の課題ノートの執筆者等々の打ち合わせ。6時25分。首都高速向かいの青山学院へ。31分着。青短懇親会。井野さんは今日もおしゃれである。鈴木裕史さんと再会。石井正己さんと柳田全集の話。清水真澄さんと平家研究、仁和寺文献の話。大軒史子先生、拙著にお褒めの言葉。藤本勝義さんは気配りの人。小林正明さんは女の子のパパになる由。栗坪学長、短大の雄・青短の将来について強気の弁。受験生の集まり具合ならば当然か。カラオケもところどころ「くりちゃん」を編作詞しつつ歌われる。最高。榎本正樹さんとインターネットと文学の話。文学がいかに食えない仕事かを実感。彼はひばりが丘の人、西武池袋線で帰る。長く楽しい一日は終わった。 

5月21日(木曜日)

久下裕利(昭和女子大学助教授)さんに何度も校正のためのお電話をいただいた、『研究講座竹取物語の視界』(新典社)が完成して届く。なかなか豪華執筆陣で、書き下ろしも充実している。考えてみると、この論文「今昔『竹取』説話は古態を有するか−『竹取物語』の表現構造−」(大東文化大学『日本文学研究』28号・1989.2)ら十年たっていたのである。たしか、25歳、三本目くらいに書いたものだった。しかも没にされた修士論文の残骸というべきものである。しかし、久下さんや、曽根誠一(花園大学教授)さんが、選んでくれたものでもあるから、半ば複雑な気持ちで転載を許可したのだった。でもやっぱりこの本に載せてもらってよかったと思う。この論文を生き返らせてくれた、久下・曽根両御大に感謝したいとおもう。平成も十年たったんだなあ。いろいろあったが、ここまできたか。いや、まだこれからだ。

5月23日(土曜日)

白百合女子大学で、『浜松中納言物語』の輪読会今日は京都から松浦あゆみさんが来てくれた。巻一末部に「九九九人の王」という「走れメロス」的な説話が引用されている。三島由紀夫が愛した古典『浜松』はロマンのあるテクストだ。しかし、共同研究という形態は、若手研究者の場合、生活とのかねあいもあって、メンバー全員のテンションを維持してゆくのは難しいことだとしみじみ想う。

5月24日(日曜日)

日本文学協会の『枕草子』の会。これからは真剣にこのテクストを勉強したいと想っている。実はわからないことばかりなのだ。二次会、三次会熱く語り合う。土砂降りの中、自転車で帰る。熟睡。

5月25日(月曜日)

萩谷朴先生(大学院時代の指導教授・恩師)を囲んで『元輔集』注釈の会。先生は昨年八〇歳になられたが、相変わらず、頭の切れ味は抜群であった。僕の車で池袋までお送りする。比較文学の小島憲之氏が逝去されたことをお知らせする。池田亀鑑博士の東大での助教授据え置きのこと、時枝誠記博士・春名好重さんのこと。今の時代、こうした国語国文学会の歴史的な泰斗と直に肉声を交わした人が何人いるのだろうか。これからも末永くご指導を仰ぎたいと想う。西武リブロで『おもいっきり侃々』(河出書房新社・1991)がまだ店頭に並んでいるところをお見せした。

5月26日(火曜日)

朝はやじうま新聞を聞きながら、コーヒーを飲みつつメールを開くのが日常。今朝の朝刊は松田聖子一色かと思いきや、なんと角川書店の『高校生の現代文』の文部省からの差し替え指示の話題がスポーツニッポンに載っているという。昨年の秋のことだったのに、何で今更?。どうやってリークしたのだろうか。それにしても教科書検定とは不思議だ。『源氏物語』の垣間見の描写など紫の少女の容姿を、明らかに光源氏という男の視線から性的な欲望の対象として見つめている(拙文・『源氏物語』十二面の十・衣装『アエラムック源氏物語がわかる』朝日新聞社・1997.7参照)。これこそ実は完璧なセクハラ・テクストなのである。検定はこれがフリーパスで、現代文の「かわいいおしり」は何でだめなのか。こんな話を編集会議でしたことなどを思い起こす。古典でのセクハラはよくても、現代文では不許可なのである。文部省の不思議な感覚というべきものを、メディアの側がプロテストしてくれたのだろうか。

 跡見の国文学概説は松田聖子再婚の話を小倉千加子のコメントとともに分析。30代半ばの肉体の老いへの恐怖と、子供の成長に伴う「分離不安」の裏返しだという(朝日新聞・1998.5.26付朝刊)。彼女はこれに昨年末、父の死が加わったのだという(そういえば新聞の訃報欄で見たな)。彼女と僕は同じ寅年の生まれ。だから、彼女の歌声は僕の青春にも重なるわけで、美しく生きて老いてほしいと願っているのは、僕一人ではないはずだ。しかしながら、スキャンダルまみれの彼女は、であるからこそ、サクセスストーリーを生きる現代のカリスマなのである。それゆえ、美の衰えは恐怖なのであろうか。「私もそう若くないし」というコメントも見える。僕も少しずつ老いを感じることはある。しかし、それにしても、この年にもなったらウェディングドレスで記者会見するのはやめてほしかった。でもこれがやりたかったったんだろうなあ、と思う。究極のママドル、ここまで極めればこれは哲学なのだ、なんちゃって。ついでに郷ひろみの『ダディ』の一節に「渚のバルコニー」と「お嫁サンバ」が引用され、昔の恋が想起されるくだりについて、これは「引歌」の現代版のバリエーションであると説いて、一気に講義のテーマへと引きずり込む。講義のテーマは板書してあって、確か「日本文化論の和歌的視角」というんだった!?。でも今期一番おもしろい内容だったんじゃないの?。
5月27日(水曜日)

一太郎ver6が、立ち上がらない故障のため、Wordで作文していたが、思い切って、我がディスクパワーをサバイバル−フォーマット−ウィンドウズ3.1−95−通信機器−モデム−プリンター−オフィス8まで、インストールし直す。朝6時から、10時まででほぼ完了し、いったん仕事に出た後、まっすぐ帰宅してすぐ通信設定を行い、これもほぼ完了。快調。今日から一太郎はVer.8でかけることになった。わがホームページの開設も現実味を帯びてきた。

5月28日(木曜日)

朝、山口博(聖徳大学教授)先生から、『新潮45』6月号の「日本のアラビアンナイト『宇津保物語』」の抜き刷りをいただく。今年一月に日本比較文学会で講演されたときのものだそうだ。先生は、あまり日のあたらなかったこの物語を、正倉院の五絃琵琶の音色が聞こえてきそうな、美しいオリエンタルファンタジーにしたててくださった。ほんらい、物語はロマンのテクストであったはず。それを俺の陳腐な物語論はどれほどつまらなく語っているのだろう、と思うと一気に気合いが入る。よし、はやく『源氏物語ハンドブック』の項目を仕上げて、教科書の指導書を書かなければ。これも古典文学普及のための大切な仕事だ。帰宅すると植田恭代(跡見学園女子大学でご一緒しています)さんから、(麻原美子編『日本の文学とことば』東京堂出版・3月)が届いていた。今、日本の古典を如何に一般読書人・初学の学生に読んでもらうか、本当に腐心していることがよくわかる。よし、日記はこれまでにして、さあ、仕事だ(今月は締め切りラッシュで、夜はもっぱら執筆活動のため、酒量はめっきり減った。でも水泳にゆけないのが悲しい)。

5月29日(金曜日)

朝、五時に目が覚めたので、『源氏物語ハンドブック』草稿に手を入れ、室城さんにメールで送る。今日は大学出講日なので、朝のうちには開いてもらえるだろう。あと十数項目になった。

8時35分、普段よりかなり遅れて家を出る。二分遅刻して一時限目跡見で物語史。雨で学生の集まり具合はよくない。遅刻は30分までと宣言しているので、余談しているうちに徐々に集まってくる。交通の便が旧川越街道(国道254号線)のバス路線(あるいはタクシー)しかないというのは学生さんには気の毒だといつも思う。先週は定家本『伊勢物語』の概説。今日は片桐洋一の三段階成立論の概説、研究史批判。狩の使章段(69段)と『古今集』の詞書とを読み合わせたところで終了。 来週はその修正を図る核心部分。ペーパーは、勉誠社の「想像する平安文学・第一集−平安文学のイデオロギー」に掲載予定の「権威としての<本文>−物語本文史の中の『伊勢物語』」。

いったん自宅に忘れ物を取りに帰り、11時30分、一路青山へ。環状八号線−旧早稲田街道−新青梅街道−明治通り−外苑西通り−外苑通り−青山通りの道順が定着してきた。しかし、今日も明治通りで近道に失敗、昼休みを五分ロスした。12時50分。学食へ。

三時限から日本文学史。前回の国風暗黒時代(漢文学史)の小レポートでイエローカード二名。三回でレッドカード(単位やらねえぞ)と通告。鳥毛立女屏風の樹下美人図を上手にイラストに入れてくれた彼女には花まる。金賞。先週が「かなの成立から、かな文学へ」。今日は、定家本『古今集』、曼珠院本『古今集』を拡げながら、仮名序を読みつつ、やまと歌という古今集的な日本の伝統的美意識の生成と、平安という女性性の文化をプロデュースした男文化について、真名−仮名を並置させながら語る。教壇生活13年来唯一の趣味として、テキストの朗読を月+日で本日34番の人に指名し、後はリレー指名。結構これでお友達関係が分かったりする。クラス指定の授業もおもしろいものだ。教室は二年生のためリクルートスーツが目立つ。休み時間、榎本正樹・陣野さんと講師室で楽しくお話。4時限目、古典演習『源氏物語』桐壺。一年生。口頭発表の二日目、兼子さんの自由研究「『源氏物語』の女性達」。拍手が起きる出来映え。レポート五枚提出を指示。ついで瀬戸さんの輪読レポート、全集・新編全集・集成・新大系をパソコンに入力して比較鑑賞。僕の中でどれほど全集本の読みが染み込んでしまっているかを実感。新大系の藤井貞和注釈の独自性に驚嘆。瀬戸さんには来週もがんばっていただきます。発表・レポートがある程度まとまったら、ホームページに掲載する予定。5時30分、青山を立ち、大東文化会館で、対照言語学研究会、黄順花さんの口頭発表を聞く。7時。韓国慶南大学の教員・学生のアンケートをもとに韓国語の「やりもらい」の使用形態の調査。鈴木泰先生の門下のお茶の水女子大の大学院留学生の質疑は的確。日本語学習のなまりも感じられなかった。海外の日本語教育の進展はかなり進んでいる。けれども日本文学研究だけはちっとも国際化しようとしないのは、情けないことだ。

 

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