Last Up Date 2000.01.31          

日記を物語る 2000年01月INDEXホームに戻る             

01月30日(日曜日)

風邪気味のため、外出を控え答案の採点、成績管理。さらにはシラバスの作成など。以上。

01月31日(月曜日)

昨年の暮れに国文学研究資料館で行われた「21世紀の源氏物語研究」で、僕の発言したところはやはり本人が校正してほしいということで、今月始めにはファイルが届いていたのですが、今日が締め切りだったため早速送り返しました。話し言葉は判りやすく話しているつもりでも、いざ「文字」にされると、かなり行ったり来たりしていることが判明。僕の講義も実態はこうなのかと思うと、それでも好成績の学生さんというのは、僕の意図を読みながら聴きとっていると言う、神業のレベルなのかもしれません。以下は、質問二点のあと、資料館にお願いした、要望でございます。

 上原 最後に、三番目のインターネットの問題なんですが、これはお願いでございまして、質問ではありません。ひとつの問題提起なのですが、学術関係のインターネットの関連情報であっても、やはり無法地帯の観があると思います。ですから、ここは資料館という公的な機関ですので、たとえば、この画像に関してはフリーに使ってよいとか、こういったものは駄目だという、その制度化の問題について、ある程度叩き台をつくっていただけるといいのではないかと思うわけです。

 といいますのは、たとえば、WEB上で源氏物語の関連情報を検索いたしましても、たとえば国文科を出られて、今は研究の世界を離れている方でも御自分の卒業論文をアップなさったりしている。中には非常に学術性の高いものも当然あるわけなのですが、それをどのように評価付けして、さらに論文上ではどのような形で引用したらいいのかということ。これもいちいち評価制度を確立しなければ、将来的には大変なことになるだろうと思うんですけれども、こういったWEB上の論文をどう価値評価するのか、という環境整備の問題。さらには、私も授業の成果をホームページにアップしているんですけれども、その際には渋谷栄一先生のWEB上の「源氏物語」の「柏木」巻のテキストを使用しさせていただいておりまして、これは一応学会でお会いしたときに渋谷先生にはお断りしたんですけれども、こうした私的なレベルの引用がWEB上では公的なものとなってしまうわけで、引用に関する許認可のルール作り、もしくはマナーのような問題に関しても、一つの基準がある程度できてきますと、将来的にはいろいろな展開が可能になるかと思います。けれども、現時点ではまったくの無法地帯であるという現状ですから、そのあたりのところをぜひお考えいただきたいと思っているわけで、これはお願いでございます。


01月01日(土曜日) 賀正

あけましておめでとうございます。猪瀬直樹『ペルソナ−三島由紀夫伝』(文芸春秋社.1995)を再読したりしてのんびりと過ごしました。

01月02日(日曜日) 

正月恒例の東京−箱根間往復関東大学駅伝競走、さらにラグビー大学選手権、関東学院大学×大東文化大学を観戦しました。すると画面から、僕の教え子である森雄一郎くん{ゼッケン9}が、母校のHB=司令塔として大活躍、スクラムから押し出されてきたボールを右へ左へ自在にフィフティーンを操っていたのでした。顔もすっかり面長のカナリいい男になっていました。古典の授業を巧みに脱線させ、僕をラグビーネタの雑談へと誘っていった高校生時代と同じように、彼の巧みなパスワークは冴え渡り、後半30分には6点差まで詰め寄ったものの、結局はチャンピオン関東学院に力負け。ノーサイドのホイッスルの後、初めて彼の涙を見る{確か、高校二年生の時の試合も力負け。僕「モリ、泣いたんかよ」森「泣きましたよ。でもオレラはいいすけどゥ、三年生は全部終わりなんスよ」僕「大学行って今度は勝てばいいじゃん」と交わした会話を思い出しました}。来年は時間を作って応援に行かなければ。森、お前には来年があるぜ{そう言えば彼は日本文学科に決められた{決して本人が志望したのではない}と言っていたような。ちなみに鏡監督も日本文学科出身の先輩です}。

01月03日(月曜日) 

今日も箱根駅伝を観戦しました。前日の記憶の曖昧な部分を訂しました。あしからず。

01月04日(火曜日)  24000カウント

午後、小諸の布引観音の傍にある、昨年出来たばかりの温泉に出かける。勇気を出して露天に出てみましたが、この時期の信州の午後で、しかもやや標高が高いこともあって、明かに外気は氷点下なのに湯温は39度しかなかったのでした。けれども、気分は最高。となりのお爺さんたちが、「オイ、軍隊の野営を思い出すなあ」などと話し合っていました。風景と言えば、冬枯れの山林に囲まれ、東北の方向に雪の浅間山。正面に千曲川のひなびた河岸とちらほらと広がる人家。のんびり走る信州高原鉄道{旧・信越本線}、その上に、上信越高速自動車道など、まさに絶景でした。この春は、他の町にも温泉が立て続けにできたようですから、温泉めぐりといきましょうか。

01月05日(水曜日)

いつまでも遊んでいられません。佐久インターを07:17、所沢を08:48に通過、自宅には09時に到着できました。家を出掛けに父が広げていた信濃毎日新聞の一面は「三島由紀夫の遺書公表」とあったので、さっそく近所のコンビニで買って帰ってきました{同じく五面に遺書の全文と富岡幸一郎、安藤武のコメント、さらに佐伯彰一の解説など}。自決から30年、楯の会の元会員全員に当てられたもので「楯の会会員たりし諸君へ」で始まり、少数での決起に至った理由と、会の解散を宣言したあとで、末尾には 「青春に於て得たものこそ終生の宝である。決してこれを放棄してはならない」という三島文学の原点にある「永遠の青春性」が垣間見得る表現がありました。他社版や週刊誌などにも掲載されると思いますから、ぜひお読みください。

01月06日(木曜日)

やはり、仕事へのエンジンがかかりません。夜は雨です。

01月07日(金曜日)

雨も上がりまるで早春のような暖かさ。思わず愛車を洗車しました。ところで、信濃毎日新聞を開いてみたら、99年度の長野県内の四大進学率は全体の25%{約6000人}で全国37位{Σ( ̄ロ ̄|||) ガーン}、短大進学率は同じく17%{約4000人}で全国01位{o(*゜▽~*)o ぐはっ}との報道。長野県内にはたしか10以上短大があるはずなのですが、首都圏への進学志向が高く、各大学が他県からの学生募集など、どうやってやりくりしているのかカナリ心配になってしまいました。午後、今年初めて書斎できちんと机に向かって『中世王朝物語事典』の原稿をすこし書きました{正確に言うと40枚近く書いたノートを圧縮する作業です}。夕方、成増のスポーツジムに行き、まず向かいの本屋に立ち寄る。そこで、見出しが気になって「週刊プレーポーイ」を開くと、「倍率一倍でも魅力のある大学」とかなんとか、この時期にこの手の雑誌を手にしているはずの購買層{ムッとした若旦那たち、ゴメンネ}になんともジャストフィットの企画がありました。しかし、河合塾提供の競争倍率一倍台の大学は僕の関係する大学もちらほらあって、またまたカナリのショックを受ける{倍率のことはとっくに知ってたけど。でもこの雑誌は男性週刊誌だからこのデータに載っている首都圏の大学にはほとんど受験資格がないはずで、彼らは地方に行くしかないのだか}。

ジムでは、今年から再びエアロバイクとジョギング、そして水泳のフルコースを復活させることを決意。そして実行しました。ランニングはまだ出来たけれども、10分、約01`で切り上げる。おかげで夜はバク睡することができました。

01月08日(土曜日)

今年初仕事。所沢市松井公民館で古典に親しむ会。「薄雲」巻巻頭から。この正月で09年目に入りました。夕方は、スポーツ・ジムへ。混んでいて総てのメニューがこなせなかったのが残念でした。

01月09日(日曜日)

午前中は、余明先生のスタジオで琴のレッスン。{「中国音楽勉強会会報 1999.12.25」より。画質はよくありません}右手はマスターしたことにして、左手の親指と薬指の奏法を学ぶ。やはり地道な練習が必要ですね。

午後には八重洲富士家ホテルで大井田晴彦・木谷眞理子さんの結婚披露宴に出席。仲人は鈴木日出男先生ご夫妻に司会は松岡智之さん。東京大学の日本文学関係の先生はみなさん御出席なされており、秋山虔先生、野山嘉正先生といった泰斗もズラリ並んでいらっしゃった。大学関係者はほぼ東大出身者で占められ、私学出身は僕と学部が早稲田の松岡くんだけ。高橋亨さんのスピーチは一生記憶に残る素敵なものでした。二次会では秋山・鈴木・藤原克己先生といった歴代の東大教授と親しく文学談義をさせていただけたし、鈴木先生の新編全集の『源氏物語』の校注にかける情熱に圧倒されました。小島先生には教科書で、野山先生には放送大学でお世話になっています。大井田くん、ありがとう。そしておめでとう。

01月10日(月曜日)

雨も上がり、青い空が広がりました。ハッピーマンデーの成人式であちこちで晴れ着姿を見かけました。

01月11日(火曜日)

渋谷でうつほの会の新年会。ちょっと飲みすぎました( ̄ロ ̄|||)。

01月12日(水曜日)

清泉女子大学。今年初めての授業が最後の授業。さっそく、二年生のおふたりが一昨日の成人式での晴れ着姿の写真を見せてくれました。基礎演習は『源氏物語』の終わり方について。四年間同じ演習をとりつづけた学生さんが安堵と充実感とさびしさからか、目を潤ませながら挨拶に来てくれました。キャンパスは別れの季節です。

01月13日(木曜日)

雨の東京成徳大学。こちらは今年あと二回あって、テストも節分の日というのんびりムード。帰宅して野口元大先生から『校注古典叢書 うつほ物語』の五巻目を頂戴していました。また、この作品の研究者にはレアものの、『現行主要テキストとのページ数対照表{私家版}』付。さっそく文献リストも更新しました。

01月14日(金曜日)

青山学院。こちらも今年初めての授業が最後の授業。ここでも成人式での晴れ着姿の写真を見せてくれました。文学史は天気も良かったので七絃琴を持参して披露しました。この琴は音が低く教室全体に響かせるのは難しいことが分かりました。教員控え室でも琴の話題で持ちきり。書道の長尾先生は僕の母と同じ年。今年で停年のため、最後の講義に向かわれたのでした。

帰宅すると、河合塾研究者インフォメーションを更新した旨の連絡がメールで届いていました。御覧ください。

01月15日(土曜日)

ほんとうはすべきことがたくさんありますが、琴の稽古。夕方はジムでトレーニング。全然仕事はしませんでした。

01月16日(日曜日)  25000カウント

今年初の研究会は枕草子の会。「池は」の段。能因歌枕との距離をどう読むかが課題になりますね。

01月17日(月曜日)

前日の大学入試センター試験の古文はなんと『うつほ物語』俊蔭巻の若小君物語。テキストはおうふう本のようですね。この物語がよりたくさんの人々に読まれますように。

01月18日(火曜日) 

琴を爪弾く手がもてあまし気味のため、楽譜を買いに行きました。やはり池袋のジュンク堂が充実しています。さっそく「ふるさと」は弾けるようになりました。春休みには、中国の古代曲のみならず、ポップス系もマスターしておきたいと思っています。たとえば「Squall」とか「First Love」とか。夜、「名作アニメ最終回」なんとかという番組を見ていたら、ほとんど見ていたことが判明。僕の田舎はチャンネルも少なかったのに、なんだかんだいって、うちの親は子供に甘かったのでしょうね。ゲストの高木美保が、やたらストーリーに詳しいのも当然、彼女は僕と同じ年らしい…。物語を文字ではなく、音声と画面で知った世代のはしりということですね。もちろんテレビは白黒だったし。この話。これでおしまい。

01月20日(木曜日)

そろそろ願書の締め切りを迎える大学でも、今日までの受験志願者数を考えると、来年度の経営がカナリ厳しい気配の大学が続出とのこと。僕もWeb上であれこれとチェックしてはいますが、どこの大学も志願者は大激減状態で、存続も危ない大学は速報値も公表していません。ほんとうに、これから大学はどうなってしまうんでしょう。

東京成徳大学は、今年度最後の授業でしたが、みなさん、もしまた逢えたら四月に逢いましょう。

01月21日(金曜日) 

青山学院も学年末の試験で終わり。97年度入学の二年生の某さんが、俄然卒業に意欲を見せてくれました。すぐさまテストを採点して、点数を教えて追加の課題を科しました。「頑張って」。テキストで提出された清泉の受講生の全レポートをアップしました。ごらんください{ただし、無断引用お断り}。

01月22日(土曜日)

物語研究会例会。浅尾さん、下鳥さんともにプロのレポートとはかくあるべしという内容で、だからこの研究会は若い力を結集できるのだと思いました。この充実感をもたらしてくれたみなさんに感謝。

01月23日(日曜日) 

余明先生の中国民族音楽研究所=ユーミンコーポレーションのスタジオで琴の稽古。かなり進歩しましたね。夕方はジムで軽く汗を流しました。

01月24日(月曜日)

元輔集の注釈作業。今日もたっぷり文献操作の方法を勉強できました。もちろんニュースステーションの話もでました。

01月25日(火曜日)  26000カウント

古琴の教則本である、許光毅編著『怎祥弾古琴』{人民音楽出版社.1994}を大学院時代の同窓で、現在、上海外国語大学で教鞭をとっておられる呉大綱さんに中国国内の出版関係のWeb上で検索して、お送り頂きました。古琴の名曲も収められていますので、この春はぼちぼち練習します。ああ、もっと中国語を勉強しておくんでした。

ジムの途中に立ち寄った本屋で「週刊東洋経済 01/29」{東洋経済新報社}を購入しました。特集は「大学白書2000」。このデータの中に、志願者ベスト50大学中、もっとも志願者が減った大学は我が母校で、45109人{92年度}〜14719人{99年度}の減少率はなんと67.3%になるそうです。ほかには、教養課程を移転する青山は41位 36.7%。駅伝大活躍の駒沢 42位 40.5%、神奈川 47位 49.3%、ラクビーの関東学院 49 位 63.5%など、大学スポーツ神話は完全に崩壊していたことになります。また46位の立正 47.5%も含めて、教養課程が遠隔地の大学は大幅ダウンが顕著です。さらに、収入における借入金比率の一位は國學院で 70.6%。残りの三割でやりくりしていると言うことになりますが、民間企業ならとっくに…{ただし、収支は16位 −2.3億のみ }。大手予備校によれば、今後の冬の時代に生き残れる大学は、日東駒専レベル以上だとのことです。この手の業界誌はシビアすぎて怖いくらいです。

01月26日(水曜日)

やっと新年度の出講日が確定しました。今年出講していた大学の講義科目がようやく総て揃ったのです{この正月初出講の折、出勤簿の上に掲示してあった志願者速報を見た時には、正直、契約解除も覚悟しました。実際、ある学科の講師は全員今年度限りだそうです}。僕も短期大学から兼任で見えていた先生の分まで担当することになったため、「中世文学」も入っていました。御心労を思って御礼の電話をすると、僕のプロモーターの某先生も担当科目は知らない状態。つまり、主任教授と理事長兼学長しか知らない人事であったことも判明してしまったのでした( ̄ロ ̄|||)  Oh My God !!。

午後、清瀬にある喫茶店「玄」でレポートを添削させていただく。こころよくコーヒーは上原スペシァルカップで。おかわりまでさせていただいた。ありがとう、全部添削できたのだから。でもオーナーの大槻くん{学部同級生}から、仕事を持ってこられると話しかけられなくて昔話ができないよ、と寂しがられてしまいました。  

01月27日(木曜日)

惰眠をむさぼる僕の許に、東原伸明さんから『物語文学史の論理−語り・言説・引用』{新典社.2000.01.31/\6400}を頂戴しました。まさに鋭利な剃刀の如き論術が、本の最初から最後の頁まで端整に収められた本です。「あとがき」の一節を引用しましょう。「私が{物語研究会に:上原注}入会したのは一九八四年、引き算をしてみると、今から十六年も前になる。当時は「若き研究者の集団」というキャッチフレーズが流行(?!)していたように記憶している。この頃は研究会に出席しても私が若手と呼ばれることはなくなった。代わりに周囲は本当に若い人ばかりで戸惑いを覚えるようになった。自分でも情けない気がするが、馬齢を重ね無駄飯ばかり食ってきたのではなかろうか。そのくせ少しも成熟せずひたすら未熟だったのではないかと、忸怩たる思いがする。いや、だが、しかし、それでも、物研の会員は「若き研究者の集団」でなければならないのではないだろうか」。僕は彼よりも三つ下{もっと年長の先輩会員だとおもっていたので、年齢を改めて知りびっくりしています}で、入会は四年遅れの一九八八年になりますが、この時代のものけんは、まだ創設メンバー以下が、全共闘世代の余韻の残る同志的紐帯のもとに結ばれているんだという、そんな得体の知れない雰囲気や熱気が体感できる会でした。東原さんはその頃、第三世代の中核メンバーとして、会の理論的な牽引者的存在であった人です。その彼があまたの論文の中からさらに精選して、みずから補綴・改稿を加えて、テキスト入力し、さらに推敲して出来あがったこの一書。襟を正して拝しましょう。みなさんもぜひ御高架をお勧めします。

01月28日(金曜日)

しばらくご無沙汰していた対照言語学研究会に参加しました。台湾/政治大学で教鞭をとっておられ、今、御茶ノ水女子大で研修中の林綺雲先生の、「行かれる」「行ける」「思われる」「思える」など、いわゆる「ラ抜き言葉」の動態調査を明治〜大正期の文学作品で試みたもので、すでに明治40年頃からこの現象が始まっていることが判りました。ただし、構文論的な視座がないことなど、もちろん批判があったことは記すまでもありません。

01月29日(土曜日)

お茶の水で昨年末の古代文学会・物語研究会合同シンポジュームの反省会兼打ち上げ。あのシンポに約一年半の月日をかけて、さまざまに議論し、練り上げた会でしたが、この一回で終わらせるのはもったいないと、来年の夏に向けてふたたび合間見える方向で話は進みました。この会で得たものは計り知れず、まだその恩恵を自分自身理解しきれていないような気もしています。


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