2005.11.05
★紫式部(藤原香子) 関係年表★
§閲覧上の留意点とお願い
§本年表は、南波浩編『紫式部の方法 源氏物語 紫式部集 紫式部日記』(笠間書院、二〇〇二年十月刊行)に寄稿した
『ある紫式部伝――本名・藤原香子説再評価のために』を執筆する際に作成したものです。
したがって、紫式部伝研究史上、通行する諸説には見られぬ文献史料を許に考証・作成したものですので、
大学等のレポートに利用することはなさいませんようお願い致します。
★主要人物生没年★
紀 貫之 貞観十年(867?)〜天慶八年(945?)9月下旬卒。(萩谷説『源公忠集』)
清原深養父 貞観十三年(871?)頃生〜延長八年(931)〜? (村瀬説)
藤原兼輔 元慶元年(877)〜承平三年卒(933)(『三十六歌仙伝』)
藤原雅正 延喜元年(901?)〜応和元年11月卒(961)(『江家次第』)
清原元輔 延喜八年(908)〜永祚二年(990)6月卒。(『三十六歌仙伝』)
紀時文 延喜二二年(922?村瀬説 )or延長六年(928?迫説)
〜長徳二年(996)夏、卒(『権記』により推定)。
藤原為頼 天慶二年(939?犬養廉説)〜長徳四年(998)(『為頼集』奥書、『公任卿集』)
藤原為時 天慶八年(945?萩谷説)or天暦元年(947?岡説)〜寛仁二年(1018)〜?
藤原宣孝 天暦三年(950?)〜長保三年(1001)四月二五日卒。(『尊卑分脈』)
紫式部 天録元年(970 ?)or 天延元年(973?)or 天延2年(974?)or天元元年(978?)
〜寛仁三年(1019?)or長元四年(1031?)。
西暦(元号) 時系列年表
(★★★−本論のみの上原私見。★★−本論展開上依拠する説。★−本論文関連異説)
868(貞観10) 紀貫之生(萩谷説)
917(延喜17) 貫之、従五位下(50)
918(延喜18) 貫之、任美濃介
921(延喜21) 貫之、美濃離任(54)
922(延喜22) ★貫之(55)、時文出生か 母を滋茂女(村瀬説?)
927(延長5)
貫之、大監物(60) 滋望女(17)と結婚 (村瀬説は貫之(55))
928(延長6)
★★貫之 (61) 、時文出生か(迫説?)
930(延長8)
貫之、任土佐守(63)
933(承平3)
藤原兼輔卒(55)(『三十六歌仙伝』)、清原深養父、この頃卒。
934(承平4)
貫之、土佐離任(67)
945(天慶8)
貫之、九月下旬
卒 (78)(『源公忠集』萩谷説) 藤原為時生?(萩谷説)
950(天暦4)
時文、内裏蔵人 (29or23)、藤原宣孝生?
952(天暦5)
時文、近江少掾(31or25)、また和歌所寄人・梨壼の五人のひとりとなる。
960(天徳5)
時文、少内記(39or33)
963(応和3)
時文、大内記(42or36)
961(応和元) 11月、周防守藤原雅正、卒。(『江家次第』岡一男説)
966(康保3)
為時、播磨権少掾として任地に下向。
道長、兼家(38)の五男として誕生。母は摂津守中正の女・時姫。
清少納言、大蔵少丞・清原元輔(59)の次女として誕生。(萩谷説)
967(康保4)
5月25日 村上天皇(42)、崩御。
10月11日 村上の第2皇子・憲平親王(18)、即位。冷泉天皇。
969(安和2) 3月 左大臣源高明(56)、太宰権師に左遷。(安和の変)
8月13日 冷泉天皇(20)、譲位。
9月23日 冷泉の第1皇子・師貞親王(2)、立太子。守平親王(11)、即位。円融天皇。
970(天録元) ★紫式部、為時の次女(母為信女)として誕生【A(今井・後藤)説】。1010(寛弘7)「はた目暗うて経読まず」から、四十歳で老眼が始まったとして起算。
973(天延元) ★紫式部、為時の次女(母為信女)として誕生【B(岡、秋山、伊藤、中野)説】。
為時と母為信女の結婚年齢、姉や弟・惟規の官位等から年齢を起算した。
974(天延2) ★★紫式部、為時の次女(母為信女)として誕生【C(萩谷)説】。1010(寛弘7)当時の女性の厄年(37)を意識して出家への志向を書き記したことを論拠とする。(幼名・「もも」よって三月三日生 ももといふ 名もあるもの《我が妻・紫式部》を 時の間に 散る桜には 思ひおとさじ 藤原宣孝 「紫式部集」による)
清原元輔(67)、任・周防守。この間、恵慶、元輔、安法法師、能宣らが、内蔵助 ・時文から自筆本『貫之集』を閲覧し、感想を詠んでいる(『能宣集』『元輔集』『恵慶集』)。
『恵慶集』の詞書により、この閲覧は元輔の周防守在任中と認められ、天元元年(978)以前までの間のこととなる。
975(天延3) ★紫式部、為時の次女(母為信女)として誕生【D説】。母為信女。(南波浩説)
976(天延4)
/(貞元元) 為時の長男・惟規、誕生。母為信女。紫式部の弟説(岡一男説)に立てば 974年(天禄2)以後、この年までか。この後まもなくして、母死去。
為時、任果てて帰洛。
977(貞元2) 為時、皇太子・師貞親王(10)の学問の師となる。
8月16日、時文(56or50)、清原元輔(70)、藤原為頼(紫式部・伯父 39)らとともに左大臣頼忠歌合に出詠。
978(天元元) 清原元輔(71)、筑前守に転じたか(『桧垣嫗集』により後任・菅原輔正就任との間隔算定による)。紫式部、為時の次女(母為信女)として誕生【E説】。母為信女。(与謝野晶子・島津久基説)『紫式部日記』1008年 (寛弘5)に「さだすぎぬるを」とあるのを三十歳として起算。
982 (天元5) 1月15日 藤原宣孝六位蔵人『小右記』、2月19日 、皇太子・師貞親王、元服。
984(永観2) 8月27日 円融天皇(26)、譲位。円融の第1皇子・懐仁親王、立太子。
10月10日 師貞親王(17)、即位。花山天皇。
為時、式部丞、ついで式部大丞に任ぜられる。
986(寛和2) 為時、再び散位に。 時文、大膳大夫 (65or59)
★★★ 藤原香子(17or14or13or12or9)を紫式部と仮定して、時文とこの頃結婚か。
宣孝(37) 蔵人退任 前々年、臨時祭駒牽を忘失して叱責され(11月29日)、前年7月11日には、丹生社の祈雨使として土地の人に乱暴さる『小右記』
これによって殿上の簡を削られる(『大斎院御御集』)
6月23日 花山天皇(19)、出家。譲位。
7月16日 冷泉の第2皇子・居貞親王(11)、立太子。元服。
22日 懐仁親王(7)、即位。一条天皇。
989(永祚2) 1月5日 一条天皇(12)、元服。
/ (正暦元) 1月5日 道隆の長女・定子(13)、入内。
6月、肥後守・清原元輔(83)任地で卒(『三十六人歌仙伝』)。清少納言(25)歳。
8月30日 宣孝(41)、筑前守に。
10月5日 定子、立后。中宮と称す。
993(正暦4) 春 清少納言(28)、中宮定子(17)の許に初出仕。
995(長徳元) 宣孝(46)、筑前より帰洛。
4月6日
道隆(43)、逝去。
5月2日
道兼(35)、関白に就任。
8日
道兼、逝去。
11日 道長(30)、文書内覧の宣旨。
6月19日 道長、右大臣。氏の長者に。
996(長徳2) 1月16日 伊周(23)・隆家(18)兄弟、花山院(29)に対する不敬事件を起こす。
25日 為時、任淡路守。道長に愁訴して、28日、任越前守。(『日本紀略』)
3月28日 紫式部の曽祖父・文範(88)、逝去。
4月24日 伊周を太宰権帥、隆家を出雲権守に左遷。
5月15日 伊周を播磨、隆家を但馬にとどめる。
★★6月25日大膳大夫・紀時文(75or69)の生存が確認される最終記事(『類聚符宣抄』)直後、八月中旬までに没したか。
★ 夏、紫式部、越前下向(岡・角田・萩谷・久保田孝夫・中島あや子説、藤本勝義説は6月5日説)
★晩秋初冬頃
紫式部、父を追って越前へ下向(今井説)。
10月 伊周、ひそかに帰京。発見され再び太宰府へ。
12月16日 中宮定子(20)、一条天皇(17)の第1皇女・脩子を出産。
997(長徳3) 4月5日 伊周(24)・隆家(19)、都へ召還さる。
8月19日 左大臣・道長、「故大膳大夫紀時文後家香子申事等」を処理する。(『権記』)
★★★晩秋初冬頃
紫式部、父を追って越前へ下向
晩秋初冬頃
紫式部(28or25or24or23or20)、一人で帰洛。(角田・萩谷説)
998(長徳4) 秋、痘瘡(もがさ・天然痘)が大流行。 藤原為頼、実方ともに卒。(『為頼集』奥書、『公任卿集』)。
秋 宣孝(49)、任右衛門権左兼山城守。
★★★「夏もしくは秋までに」、
紫式部、一人で帰洛。
★冬頃
紫式部(29or26or25or24or21)、宣孝と結婚か。賢子の生没年からの推定による。
999(長保元) 11月1日 道長の長女・彰子(12)、入内。
7日 中宮定子(23)、一条天皇(20)の第1皇子・敦康を出産。
1000(長保2) ★★紫式部(31or28or27or26or23)、宣孝の末女・賢子(のちの大弐三位)を出産。
2月25日 彰子(13)、立后。中宮と称す。定子(24)、皇后宮と称す。
12月15日 皇后宮定子、一条天皇(21)の第2皇女・(●=女+美)子を出産。翌日薨去。
1001(長保3) 4月25日 宣孝(52)卒(『尊卑分脈』)。
1004(寛弘元) 惟規(28〜30)、少内記。
1005(寛弘2) ★12月29日 紫式部(36or33or32or31or28)、中宮彰子(18)の許に初出仕。最も流通する【岡・今井説 F説】。
1006(寛弘3) ★★12月29日 紫式部(37or34or33or32or29)、中宮彰子(19)の許に初出仕。【萩谷説G説】。
1008(寛弘5) 1月 為時、左少弁。
7月中旬より、紫式部 (39or36or35or34or31) 現存『紫式部日記』の敦成親王出産記事始まる。
9月11日 中宮彰子(21)、一条天皇(29)の第2皇子・敦成(のちの後一条天皇)を出産。
11月1日、 敦成親王五十日の祝。紫式部、「むらさき」の渾名をつけられる。
紫式部、藤原道長(43)との交渉を日記に積極的に記す。
1009(寛弘6) 春 魘魅事件。伊周(36)、内裏への立ち入り禁止。
11月25日 中宮彰子(22)、一条天皇(30)の第3皇子・敦良(のちの後朱雀天皇)を出産。
1010(寛弘7) 1月29日 伊周(37)、薨去。
★★紫式部(41or38or37or36or33)、老いの自覚と出家の意志を日記に記す。
当時の女性の厄年(37)を意識したか(萩谷説はこの厄年を起点に算定されている)。
1011(寛弘8) 春 為時、任越後守。惟規(38〜36)、父に従い越後に下向。到着後まもなく病没。
6月13日
一条天皇(32)、譲位。一条の第2皇子・敦成親王(4)、立太子。
22日
一条院、崩御。
10月16日
居貞親王(36)、即位。三条天皇。中宮彰子(24)、枇杷殿へ。
24日
冷泉院(62)、崩御。
1012(長和元) 2月14日 道長の次女・妍子(19)、立后。中宮と称す。彰子(25)、皇太后に。
1013(長和2) 5月25日 越後守為時女として、実資に「雑事」を啓す。(『小右記』)
7月6日 妍子(20)、三条天皇(38)の第3皇女・禎子を出産。
このころ紫式部(44or41or40or39or36)、宮仕えを辞する(?)。
1014(長和3) 1月下旬、 紫式部(45or42or41or40or37)、死去(岡・今井旧説)。『平兼盛集』巻末逸文を『右大臣頼宗集』の詠と仮定し、 「(藤)式部の君亡くなりて、その娘(賢子)見侍りて」とあることにより推定。
1016(長和5)
為時、三井寺で剃髪・出家。(『小右記』)
1018(寛仁2) 1月、為時の生存が確認される最終記事(『小右記』)。
1019(寛仁3)
正月5日 、紫式部「女房」として、実資に応対(『小右記』)。 以後、年内に紫式部(50or47or46or45or42)死去。
(萩谷説)『平兼盛集』巻末逸文を『定頼集』の逸文と推定し、寛仁2、3年の詠が連続していることから推定。
1031(長元4) 紫式部(62or59or58or57or54)、死去説。(角田説)『栄華物語』『続後撰集』による。