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1998.10.23補訂

物語史の中の『松浦宮物語』

                定家少将の物語

『松浦宮物語』は、鎌倉初期の評論集『無名草子』(藤原俊成卿女〈実は孫〉・1200?)に、

 また、定家少将の作りたるとてあまた侍るめるは、ましてただ気色ばかりにて、むげにまことなきものどもに侍るなるべし。『松浦の宮』とかやこそ、ひとへに『万葉集』の風情にて、『うつほ』など見る心地して、愚かなる心も及ばぬさまに侍るめれ。

と見えるところから、作者は藤原定家で、しかも定家が少将であった、文治五年(1189)三月から十一月十三日までの、「筆のすさび」『明月記』の時期(この時二八歳)の作であると考える、吉田幸一説が広く知られています。

 藤原定家と言えば、幽玄で知られる『千載和歌集』の撰者俊成の嫡男にして、俊成−定家−為家ののち、冷泉・二条・京極に分家してゆく御子左家{みこひだりけ}の頭領でありました。定家自身も『新古今和歌集』の撰者であり、右大臣・源実朝の歌の指南書『近代秀歌』の著者でもあった、鎌倉歌壇・文壇の中心的存在であり、当代屈指の文化人でもありました。なぜなら、定家は作歌のみならず、歌学の学習をきっかけにした『源氏物語』をはじめとする膨大な古典籍の収集・書写で知られる書誌学者でもあり、その才覚は他の歌人達の追随を許さない傑出した文人として知られます。

 また、三島由紀夫も愛読した『葉隠聞書』には、

 定家卿伝授に、歌道の至極は身養生に極まり候由

との文言が見え、三島が師・川端康成にこの書を贈っており、定家が、後世、歌道の「神」としてあがめられる存在であったことがわかります。その証拠に京都・冷泉家では定家の御真影を祭る行事が今もつづけられています。

物語史の中の『松浦の宮』

 こうした、鎌倉歌壇の巨匠・藤原定家の習作である『松浦宮物語』はどんな作品なのでしょうか?

 ひとくちに言えば、武家の台頭によって滅び行く、「王朝的なるもの」への憧憬と、「軍記的なるもの」への先取の気風が渾然一体とした、「昔物語」の雰囲気を漂わせる作品であると言えましょう。『無名草子』にも指摘されるように、巻一あたりの和歌は万葉調ですし、以後、物語の展開につれて、古今調・新古今調へと転調して行く物語様式は、萩谷朴説で明確に実証されています。

 加えて、『うつほ物語』の清原俊蔭や『浜松中納言物語』の中納言をモデルにしたかのような、橘冬明=弁少将の物語は、まず、后腹の姫君・神無備{かんなび}の皇女とのはかない恋愛からして皇女の入内と少将の遣唐副使の任命により引き離されてしまいます。これは散逸して今は復原資料しかない『浜松』の首巻そのものですし、渡唐した後に、少将が不思議な老翁から琴を習い、教えに従って商山に赴き、帝の妹・華陽公主から琴{きん}の秘曲を伝授されると言うくだりは、『うつほ』の俊蔭巻と『浜松』の唐后との契りに習ったものでもありました。また、この公主の契りと死、さらに、日中を賭けての転生と初瀬での再会の予言などと言う物語世界は、これこそく『浜松』的な、夢と輪廻転生の物語が繰り広げられていることになります。さらに、国の争乱の場面では『平家物語』にも似た「軍記的」なる世界が展開します。合戦の描写は分身の術などを駆使したりして荒唐無稽かつ詳細です。

 くわえて、公主の母后とも、梅の里で、その人と知らず契ります。かぐわしい香りから、その女性のあでやかさ、しなやかなふるまいに並々ならぬ女性であることは知られたものの、その後、少将はその女性がやはり母后であったことを知らされたのでした。この趣向は『浜松』の唐后とのさんいうの契りがここでも応用されています。さらには、母后から、自身と少将は阿修羅たる宇文会を懲らしめるために、唐国に将来されたと語られるくだりも見えていて、これには日本の古代後期から中世の神仏習合的な思想の混交が濃厚であり、古物語を装ったこの物語の同時代性を見ることもできるでしょう。

 かくして、少将の帰国の段になると、日本で待つ神無備の皇女との後日譚や、日本の初瀬に転生した公主とその母后との三つの恋愛の結集をはかるべく偽跋を用いて物語の結末を朧化しようとしたのでした。書誌学者・定家の面目と、習作であるがゆえの荒唐無稽さはこんな形でとじられています。

日中を架けるラブ・ストーリー

巻一

藤原の宮の御世、正三位大納言橘冬明と明日香の皇女との間に生まれた氏忠は、容姿・才覚ともに勝れる貴公子でした。十六歳で式部少輔右少弁中衛少将を兼ね、従五位上となりました。この少将は勤勉で学問一筋であったから、浮いた噂もなかったのですが、心中密かに后腹の姫君・神無備{かんなび}の皇女を慕っていたのでした。ある年の菊の宴の夜、少将の想いはやっとかなえてこの皇女と夢の契りを結ぶことができたのでした。しかし間もなく皇女は入内し、少将も遣唐副使となって渡唐することになってしまいました。出発に際して皇女は惜別の歌を贈り、母君は松浦の山に宮を造ってまで、少将の帰国を待ち暮らそうとまで言ってくれたのでした。

 無事渡唐した少将は、唐の帝の信任を得ますが、故国を想う心は満たされません。ある明月の夜、高楼に高く響く琴の妙音を尋ねますと、不思議な老翁に出会います。少将はその老翁から琴を習得し、その教えに従って商山に赴くと、今度は帝の妹華陽公主から琴の秘曲を伝授されるのです。少将の心は公主の美しさには乱れがちで、とりもなおさず禁中での再会を約して別れたのでした。

 その頃帝は死の床に臥しておりましたので、少将に皇太子の補弼{ほひつ}を頼んでもいたのでした。

 かつて公主と約束した日、少将は五鳳楼下で神秘的な契りを結ぶことができたのでした。公主は形見に水晶の玉を渡して日本での初瀬での再会を予言したのち、そのまま亡くなってしまいました。程なく帝も崩御、国は乱れて弟の燕王が叛乱を起こします。

巻二

少将は亡き帝との約束を守り、新帝や母后と共に蜀山にいったん退きますが、敵の急追のため窮地に陥ります。しかしながら少将は僅かの兵で決死の逆襲を試み、また神仏の加護によって、敵将・宇文会を討ち取り、燕王を破ることに成功しました。世は再び太平になりましたが、逆に天下太平の世の中になると、むしろ少将の望郷の念はつのるばかりでした。ある夜母后と間近に会った少将は、その妖しい美しさに惹かれます。翌日の夕暮、梅の香漂う山里で簫を吹く妖艶な女と出会い契りを結びました、その女の薫りは不思議にも母后に通じていたのでした。帰国の日も近づいた夜、母后は少将にあの梅の里の女が自らの化身であったことを告げ、さらに少将にとっては驚天動地の事実を告げられたのでした。曰く、宇文会は阿修羅、后たる自分は都率天の天衆、少将は天童で、后と少将二人は天命を受けて阿修羅を懲らすためにこの唐国に下されたのだ、というものでした。さらに母后は、形見の鏡を少将に与えたのでした。

巻三

やがて少将は帰朝して、参議右中弁中衛中将に昇進しました。早速、初瀬に詣でて修法を行っておりますと、約束の通りに琴の妙音が聞こえて、公主に再会できたのでした。一方唐の母后の形見の鏡を開いてみますと、あの美しく魅力的な容姿が映った上に、比類なくかぐわしいあの母后の薫りまでもが漂ってきたのでした。さまざまなじしんの運命を思い返しながら公主を我が胸に引き寄せつつ、恋があやなす少将=中将自らの数奇な運命に、少将の心は千々に乱れるのでした。

 物語の結末は本が朽ちてすべて知ることができません。

    貞観三年(861)四月十八日

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